ダンボとピンクの象/純丘曜彰 教授博士
いまや世界各地にディズニーランドがあるが、その中心の城さえ、それぞれに違う。ところが、「空飛ぶダンボ」は、みんな同じだ。それどころか、これは1955年のアナハイムの最初のディズにランドがオープンしたときからずっと人気のアトラクション。ぐるぐる回って上下するだけのシンプルな年少向けのお楽しみ。
しかし、これも元をたどると、いろいろ奥が深い。いまでこそダンボカラーのブルーグレーだが、企画段階では、ぜんぶピンクだった。元ネタは、1941年の『ダンボ』の中に出てくる悪名高き「ピンク・エレファンツ・オン・パレード」。
1937年の『白雪姫』、1940年の『ピノキオ』が無難な定番の原作に基づくものであるために、『ダンボ』こそ、ディズニー・アニメイションのオリジナルの最初のものとされている。ところが、これにはウォルト・ディズニー本人は、ほとんど関わっていない。当時、超ハイテクだった立体音響を必要とする『ファンタジア』を前年に強引に作って、興行的に大失敗し、社内的にも、精神的にも、問題を抱えていたからだ。
そして、とにかく会社の財政を立て直さなければならない、ということで、別働隊(いまで言うディズニー二軍)がひそかに大急ぎで作ったものだ。(ちなみに、『白雪姫』『ピノキオ』を手がけた主力隊は、すでに『バンビ』1942にかかり切りだった。)それも、当時はろくに名前も出ていなかったが、じつは『ダンボ』には原作がある。世界最初の女性ラジオパーソナリティ、ヘレン・アバーソンが作った絵本だ。
このアニメイション、ジム・クロウなどの人種差別でも騒がれるが、なんといっても圧巻なのが、主人公のダンボが酔っぱらって見る幻想の、この4分半のシーン。子供向けの愛らしい、「善良」な映画に、なぜこんな奇妙な、空恐ろしいシーンが入り込んだのか。手塚治虫は、このシーンを、アニメイションの醍醐味であるメタモルフォーゼの傑作として絶賛したが、南米から帰ってきたウォルト・ディズニー本人は、このシーンに激怒し、終生、嫌った。とはいえ、このオマージュは、1992年の『アラジン』のジーニでも、あえて出てくる。つまり、それは、ディズニー内部での路線対立の象徴でもある。
もちろん、この幻想的傾向は、すでに『ファンタジア』でも出てきていた。しかし、黒バックに水色とピンクの艶めかしい線だけ、などという毒々しさはなかったし、『ダンボ』の中でも異様だ。しかし、技術的なことを言えば、そもそもこの蛍光ブルーと蛍光ピンクがセル上で、そしてカラーフィルム上で表現できるようになったのも、最先端の実験であり、この意味では、テクニカラーの『白雪姫』、立体音響の『ファンタジア』の路線から外れるものではない。
1941年と言えば、すでに第二次世界大戦の泥沼化は必至だった。アメリカ政府は、ディズニーに国策への協力を要請した。しかし、それは、プロパガンダ映画のためか。それなら、当時、落ち目のディズニーなどより、ディズニーを辞めた連中が作った「白蟻ハウス」の方が量産能力があったはずだ。
そのうえ、ウォルト・ディズニー本人は、極右共和党員、つまり、アメリカン・ファシストだった。ファシストやナチズム、国粋主義というのは、べつにイタリアやドイツ、日本だけのものではなく、当時はイギリスやフランス、オーストリア、アメリカなど、連合国側の中でも、反共主義・拡大主義として、同じくらいの力を誇っていた。ただそれが反ドイツの国民的団結ということで、見えなくなっていただけだ。
しかし、先述のように、『ダンボ』はウォルト・ディズニーによるものではなく、別働隊による制作の中にあって、とくにピンク・パレードのシーンだけは、プルートのハエ取り紙シーンで有名な、主力隊筆頭の天才的アニメイター・ノーマン・ファーガソンの監督によるものだ。
当時の大統領は、フランクリン・ルーズベルト。ロバの民主党。一方、象と言えば共和党を表す。それは、サンタ・クロースのキャラクターを作った、かの新聞マンガ家トーマス・ナストが、1874年の政治状況をからかったことに由来する。ナストは、シェイクスピアだったか、フランシス・ベーコンだったか、(ほんとうはイソップ=アイソーポス) と言って、こんな寓話を紹介する。ライオンの皮を被ったロバが、吠えまくって、恐れをなす象などの動物を引きつけている、と。
この話には元があって、この直前の9月9日に、ニューヨーク・ヘラルド紙が、多数の目撃者による情報として、セントラルパーク動物園から猛獣たちが逃げ出し、数百人が惨殺された、との、まったくの与太記事を飛ばしていた。それは、当然、マルクスの共産党宣言の「妖怪」を連想させる。つまり、ネストのマンガは、共和党の最悪の軍人大統領グラントの独裁を批判しながら、その背景の外圧(当時のプロシアや共産主義)のいかがわしさを指摘するものとなっている。
これを踏まえて、ファーガソンらがエレファンツ・オン・パレードを作ったとなると、それは、極右共和党員である社長のウォルト・ディズニーに対する当てこすりにほかならない。
しかし、さらにその背景、となると、ネズミと象というのがキーワードになる。ネズミというのも、けっしてミッキーマウスではない。そして、ネズミと象、酔っぱらい、それも、ブルーとピンクとなれば、それは、1913年のジャック・ロンドンの自伝『ジョン・バリーコーン』の一節にほかならない。ファーガソンら、ディズニー・スタッフは、『バンビ』以前に、ロンドンの『野生の叫び声』のアニメイション化を検討していて、その自伝に行き当たったのかもしれない。しかし、それだけだろうか。
ジョン・バリーコーンは、擬人化された酒であり、もともとは英国の古い民謡だ。アル中に苦しんだジャック・ロンドンは、皮肉を込めて、自分の伝記に、この名をつけた。そして、その中に、酒に侵された神経病的妄想として、「青いネズミとピンクの象が見える」という話が出てくる。『ダンボ』は、ここから、酔っぱらいのファンタジーとしてピンクの象をフューチャーしたわけだが、そもそもなぜ赤ちゃん象がまちがってアルコールを飲んだりするシーンが、『ダンボ』に必要だったのか。
その答えは、この4分半のシーンの真ん中にある。でたらめなシーンの羅列の中に、例のピラミッドと汎覧眼(オクルス・オムニア・ウィデット)が、ちゃっかり出てくる。そもそも、ジョン・バリーコーンの民謡は、知る人々の間では、ヒラム伝説と並行関係がある。というより、メイソンリーの根底に、バッカス的なグリーンマン神話があるからだ。
刺激的な映像の一方、ピンクの象たちの歌は、こうだ。「気をつけろ、気をつけろ、そこら中にピンクの象がいるぞ。どうしたらいい、どうしたらいい、満艦飾の硬皮連中はうんざりだ。追っ払え、追っ払え、でも、君らの手助けが必要だと思っているんだ。」
暴れ回り、恐怖の妄想を振りまくピンクの巨象は、ファシストの象徴にほかならない。米国の民主党は、『白雪姫』をはじめとするディズニー映画が、ナチス宣伝省ゲッペルスらに特別に好まれ、人畜無害のものとして枢軸国内にも流れ込むことをよく知っていた。そして、彼らは、このルートを利用して、敵意の向こうにあるレジスタンスとの連係の道を模索していた。
この手のメッセージは、歴史の中のあちこちで見つかる。が、一般の連中には見つからないように隠されてあるから、秘密のメッセージとして機能する。どうしたら米国と連絡が取れるのかも、この映画をよく見ていると、きちんとわかるのだが、それは秘密。なんにしても、謎が謎であることがわからない人には、象が空を飛ぶ、などという、最初から最後まで、くだらない子供向けの荒唐無稽な話。めでたし、めでたし。