[中国の歴史7]〜インフォグラフィックで、もういちど読む山川世界史 Vol.15〜清の統一と中国支配、ヨーロッパとの接触〜
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皇帝のワントップ体制を確立した明も、様々な内憂外患によって弱まり、最後は反乱によって滅びました。
その時に勢力を伸ばした北方の女真族が中国を抑えて君臨します。
ヨーロッパとも様々な面で関係し合った中国最後の王朝、清の繁栄はどのようにして築かれたのでしょうか。
インフォグラフィックで「中華帝国の繁栄(後編)」〜『新 もういちど読む山川世界史』より〜
清の統一多くの部族にわかれ,
明の間接統治をうけていたが,
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17世紀初め女真を統一し,
後金国をたてた(1616年)。
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つぎのホンタイジ
(太宗〈位1626〜43〉)は
内モンゴルを併合し,
1636年に国号を清
(1616〜1912年)と改めた。
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モンゴル・漢の3民族からなる
複合民族国家が成立した。
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北京に都を移し中国の王朝となった。
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反乱(三藩の乱,1673〜81年)が
おこった。
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ついで台湾で抵抗を続けていた
鄭氏もほろぼした(1683年)。
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〈位1661〜1722〉の代に
清の中国支配が確立し,
雍正〈位1722〜35〉
・乾隆〈位1735〜95〉の
時代にかけて全盛期をむかえた。
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ネルチンスク条約を結んで,
アムール川(黒竜江)流域を
確保したのをはじめとして,
その領土をおおいに広げた。
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東北・台湾を直轄領とし,
内外モンゴル・青海・チベット・新疆を
藩部として間接統治し,
朝鮮・ベトナム・タイ(シャム)
・ミャンマー(ビルマ)を
属国とした。
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清の中国支配清は元とちがい建国当初には
西方の文明に接することも
なかったため,
中国支配にあたって
漢人の官僚・知識階級の
協力を必要とした。
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統轄する理藩院など
独自のものもできたが,
ほぼ明代のものをうけつぎ,
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漢人をも官僚に用いた。
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征服者の威信を強く示した。
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軍事組織に編制され優遇されたが,
漢化はさけられなかった。
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財政も豊かになった。
ヨーロッパとの接触インド航路を発見した
ポルトガル人は16世紀初め
中国に到達し,
マカオに居住権をえて
中国貿易を開始した。
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オランダ人・イギリス人も
中国貿易に加わった。
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アジアでは植民地と
なったところもあるが,
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日本・朝鮮などと同じく,
ヨーロッパ人によって
政治や社会が
ゆりうごかされることはなかった。
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産業を刺激し,
経済的繁栄がもたらされていた。
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当時貿易船に便乗して
多数のカトリックの
宣教師が布教のため
中国に渡来したが,
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とくにマテオ・リッチ,アダム・シャール,
フェルビースト,
カスティリオーネら
イエズス会の活躍がめざましかった。
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中国文化に大きな影響をあたえた。
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中国の情報が西洋に伝えられ,
当時の政治や文化に影響を与えた。
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【コラム】中国文化のヨーロッパへの影響
康煕・乾隆時代といわれる18世紀の中国の繁栄は,ヨーロッパ宣教師に驚異の目でみられ,彼らは中国の状況や文化の紹介につとめた。
朱子学の理論的学説は,宗教の神秘主義からのがれようとしていたヨーロッパの哲学者に歓迎され,ドイツのライプニッツの哲学に影響をあたえ,フランスの啓蒙思想家ヴォルテールに高く評価された。
また当時の中国の完備した官僚制度にも関心がはらわれ,科挙の制度は合理的な官吏登用法と考えられ,のちその影響で高等文官試験制度がはじめられた。
ロココ式芸術や造園術にも中国様式の影響がみられる。
関連用語
女真(じょしん)
ジュルチン(Jurchin)の音訳。女直(じょちょく)とも記す。10世紀以来東北アジアに現れる民族名。もと渤海(ぼっかい)の遺民であったが,遼に滅ぼされたのち,生(せい)女真の完顔(ワンヤン)部の阿骨打(アグダ)が1115年統一して金国を建て,やがて遼,北宋を滅ぼした。女真の大半は華北に移住し,南宋と対峙するが,1234年モンゴルに滅ぼされた。東北アジアにとどまった女真は明のとき,その羈縻(きび)政策に服し,建州女直,海西女直,野人(やじん)女直に分かれた。16世紀末,建州女直部のヌルハチが諸部を併せてマンジュ国をつくり,ついで女真人の統一帝国である後金(こうきん)国を建て(1616年),1619年,サルフの戦いで明‐朝鮮連合軍を破った。2代太宗(ホンタイジ)のとき,女真人を満洲人,後金国を清と改めた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
ヌルハチNurhaci 弩爾哈斉または奴児哈赤 1559〜1626(在位1616〜26) 清朝の創始者,廟号は太祖。明代建州女直(けんしゅうじょちょく)の一首長の出。17世紀初め,建州女直を統一して,ヘトアラ(興京老城)に都城を築いた。ついでほぼ全女真族の統一に成功し,1616年推されてハン位につき,国号を後金,年号を天命と定めた。18年七大恨を宣して明に抗し,翌年サルフの戦いに大勝。21年には瀋陽(しんよう),遼東を攻略して遼河以東を領有し遼陽を都とした。ついで瀋陽に遷都,まもなく病没した。八旗制度の制定,旗地の設置,満洲文字の創始などの諸治績は,清朝発展の基礎となった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
後金(こうきん)Houjin 清朝建国時の国号。女直(じょちょく)(真)族を統一したヌルハチは,1616年推されてハン位につき,国号をアイシン(Aisin)すなわち金と称したことによる。その呼称は12世紀に起こった女直(真)族の金にちなんだものであり,一般に後金と記される。その名は太宗(ホンタイジ)の1636年清と改められた。また金の呼称をきらった太宗は,それ以前の後金時代を満洲(マンジュ〈Manju〉,満珠)と呼んだ。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
ホンタイジHong Taiji 皇太極 1592〜1643(在位1626〜43) 清朝の第2代皇帝,廟号は太宗。ヌルハチの第8子。群臣に推され諸兄を越えてハン位につく。天聰(てんそう)と改元。ヌルハチ創業のあとを受け,清朝の基礎を築く。1635年内モンゴル平定のときに大元伝国の玉璽(ぎょくじ)を得,翌年国号を大清と改め,崇徳と改元して文物制度を整えた。以後朝鮮を従え,明を脅かしたが,中国本土進出の前年に没した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
清(しん)Qing 1616〜1912 中国の最後の王朝。満洲人が支配し,12代297年続いた。第1代の太祖ヌルハチは,南満洲の建州女直(じょちょく)の出身で,満洲族を統一し,1616年即位して後金(こうきん)国と号した。ついで明軍を破り,瀋陽(しんよう)を都としたが,その子太宗ホンタイジは朝鮮,内モンゴルを従え,36年国号を清と改めた。次に順治帝が即位すると,44年たまたま明が李自成(りじせい)の内乱で滅んだのに乗じて,中国内地に進出し,北京に遷都した。これより清は中国王朝となり,明の残存勢力や三藩(さんぱん)の乱,台湾の鄭氏(ていし)を平定した。当時は康熙(こうき)帝の時代で,その後,雍正(ようせい)帝をへて乾隆(けんりゅう)帝の末年の18世紀末まで100余年間,康熙・乾隆時代と呼ばれる全盛期を現出した。この期間に清の領土は東アジアの大半に及び,内治は充実し,人口は増加し,商工業は繁栄した。学問の奨励とともに大編纂事業が行われ,考証学が発達した。清は満洲人に対しては初めから八旗制度で統制したが,中国支配においては中国の伝統文化を尊重し,明の制度をだいたい継承し,漢人を登用した。しかし文字の獄や禁書が行われ,政治批判を厳禁した。18世紀末になると清は衰え始め,白蓮(びゃくれん)教徒の乱など反乱がしばしば起こり,19世紀半ばに太平天国の乱が発生した。一方その頃から欧米列強の外圧が加わり,アヘン戦争,アロー戦争が起こり,ロシアに黒竜江地方を奪われた。その後,同治中興(どうちちゅうこう)となり洋務運動が起こったが,19世紀末,日清戦争で敗北すると,列強の帝国主義勢力が侵入し,義和団事件が発生し,8カ国の連合軍が北京を占領した。その頃光緒帝,康有為(こうゆうい)らにより行われた変法運動が,西太后(せいたいこう)らの反対で失敗した(戊戌(ぼじゅつ)の政変)が,他方孫文らの革命運動が盛んとなり,1912年宣統帝が退位して清は滅んだ。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
明(みん)Ming 1368〜1644 モンゴル民族の元朝を漠北に退け,中国を統一した漢民族の王朝。17代277年継続。始祖は朱元璋(しゅげんしょう)すなわち太祖洪武帝。今の南京で即位。江南を拠地に中国統一に成功した最初の王朝でもある。洪武帝は官制,律令,里甲制,衛所制,賦役制など,政治,軍事,財政を整えて皇帝独裁の支配体制を確立し,王朝の基礎を築いた。ついで靖難(せいなん)の変後即位した3代永楽帝は,漠北親征,鄭和(ていわ)の南海巡航など異例の壮挙をなし,都を北京に移し,北に長城を築くなど,勢威を外に示した。しかし明初の盛時も,その後は宦官(かんがん)の台頭などで内からゆらぎ,外はオイラト,タタル(韃靼(だったん))などの侵入,倭寇(わこう)の再燃など,いわゆる北虜南倭(ほくりょなんわ)に苦しみ,農民反乱の続発もあって,特に16世紀以後衰えた。もとより万暦(ばんれき)帝を助けた張居正(ちょうきょせい)の善政なども一時的にはあったが,結局,宦官の専横,万暦三大征などによる財政困難,それに伴う反乱の続発を招き,1644年李自成(りじせい)に首都を攻略されて滅びた。明代には農業生産力が回復し,江南を中心に綿業などの手工業も盛んとなり,商業も発達して都市には会館,公所なども設立された。またヨーロッパ人との交易が盛んになり,銀が一般に流通するようになって,税制も一条鞭法(いちじょうべんぽう)に改められるなど,経済は大きく変化し始めた。経済の発展は社会的変化をも招来し,貧富の差など社会矛盾をはなはだしくし,階級闘争を激化させた。こうした事情から明末清初は転換期として注目される。学問では朱子学が重視されたが,中期には社会の変化を反映した陽明学が現れ対立した。また経世実用の学が発達し,『農政全書』『天工開物』など多くの実用書がつくられた。庶民文化としては,小説が盛んにつくられ,その他美術工芸も発達した。また『永楽大典』『四書大全』ほかの官撰の編纂事業も行われ,宣教師による西洋学術の紹介もみられた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
李自成(りじせい)Li Zicheng 1606〜45 明末の反乱の首領。陝西(せんせい)省米脂(べいし)の人。貧農の子で,駅卒(駅に配置された従吏)の出身。1628年陝西地方に発生した大飢饉によって起こった暴動は,各地の流民を吸収して大規模な反乱に発展していった。李自成は反乱の首領高迎祥(こうげいしょう)の部下となり,その死後みずから闖王(ちんおう)と称し,43年西安を占領して都とし,国を大順と号した。その集団は軍規厳正で,徴税を免じ富を等しくして貧を救うなどのスローガンを唱えたので,各地の人民の支持を受け,44年北京を攻略。このとき,明は崇禎(すうてい)帝が自殺して滅亡したが,清に援助を求めた呉三桂(ごさんけい)に李自成はたちまち討たれて西安に逃れ,ついで清軍に追撃されて湖北で自殺した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
呉三桂(ごさんけい)Wu Sangui 1612〜78 明末清初の武将。遼東の人。初め明の総兵官であったが,明が滅ぶと清に降り,清軍を山海関から北京に導き,平西王に封じられた。以後残明勢力の平定に功を立て,雲南に駐して権勢をふるった。1673年清に叛いて三藩(さんぱん)の乱を起こし,78年帝位についたがまもなく病死した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
三藩の乱(さんぱんのらん)清初の反乱。清は中国を平定するのに漢人の武将をよく利用したが,なかでも呉三桂(ごさんけい),尚可喜(しょうかき),耿継茂(こうけいも)(その子精忠)は王爵を与えられて雲南,広東,福建に駐し,三藩といわれた。彼らは大兵を擁して強大な勢力をふるい,しだいに清と対立するようになった。1673年康熙(こうき)帝が三藩を撤去しようとすると,最も勢力のある呉三桂がまず叛き,他の2藩も応じて大乱となった。初めは三藩側が優勢で,呉三桂はやがて帝位についたが,その死後勢いが衰え,81年鎮定された。これより清の中国支配は確立し,康熙・乾隆(けんりゅう)時代の盛世を迎えた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
鄭氏台湾(ていしたいわん)明朝の遺臣鄭成功(ていせいこう)が台湾に樹立した政権。成功は明朝滅亡後,南明(なんみん)政権に加わった功績により朱姓を賜り,反清活動を続けた。清朝の遷界令(せんかいれい)による沿岸封鎖を受けると,1661年オランダ人を駆逐して台湾を根拠地とした。翌年病死すると息子の鄭経(ていけい)があとを継ぎ,三藩(さんぱん)の乱に乗じて大陸への反攻を図ったものの失敗した。その後,清朝の攻撃を受けて鄭氏はわずか3代で降伏し,清朝による中国統一が完成した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
乾隆帝(けんりゅうてい)Qianlongdi 1711〜99(在位1735〜95) 清の第6代皇帝。名は弘暦,廟号は高宗,乾隆は年号。60年にわたる治世は,康熙(こうき)帝,雍正(ようせい)帝のあとを受けて清の全盛期にあたり,内治外征に輝かしい成果をあげた。みずから学を好み,学術を奨励して四庫全書をはじめ多くの書物を編纂したが,他方,禁書や文字の獄により政治の批判を禁じた。金川(きんせん)土司(どし)の乱を平定し,ジュンガル部を滅ぼして,新疆(しんきょう)を藩部に加え,グルカに遠征するなど清の版図を拡大し,みずから「十全の武功」と誇った。1795年子の嘉慶(かけい)帝に譲位したが,晩年には綱紀がゆるみ,この年白蓮(びゃくれん)教徒の乱が起こった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
ネルチンスク条約(ネルチンスクじょうやく)Nerchinsk 尼布楚 1689年ロシアと清国の間に締結された対等の条約。清がヨーロッパ諸国と結んだ最初の条約で,清は康熙(こうき)帝,ロシアはピョートル大帝の治世にあたる。シベリアを東進したロシア人は,17世紀中葉以後アムール川を南下し,沿岸に城塞を築き清の北辺に迫った。中国本土征服を終えた康熙帝は,これに反撃し,両国間にこの条約が締結された。その結果アルグン川‐外興安嶺を境とする両国国境の画定をはじめ,両国間の通商規定や,亡命者の処遇,越境に関する規定などが成立した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
軍機処(ぐんきしょ)清代の軍事行政上の最高機関。雍正(ようせい)年間(1723〜35年)に軍機の処理を目的として臨時に設置され,ついで正式の機関となった。清初は議政王大臣や内閣が行政上の重要機関であったが,軍機処がこれに代わり,軍事・行政両面の実質的な最高機関として重要視されるようになった。数名の軍機大臣が任命され皇帝のもとで枢機に参与したが,清末の1911年に廃止された。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
理藩院(りはんいん)清代に設置された藩部の管理事務機関。太宗(ホンタイジ)の内モンゴル平定時に創設。のち藩部の増加により管轄範囲が拡大した。長官を尚書といい満洲人があてられた。清末に理藩部と改称。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
宋学(そうがく)宋代に成立した思弁的な宇宙論哲学,またその実践倫理。源流は唐の韓愈(かんゆ)以来の儒・仏・道3教の調和,儒教的人倫強化の思潮にあり,宋学の先駆は名節と家族道徳を重んじた范仲淹(はんちゅうえん)である。その後,宋学の祖周敦頤(しゅうとんい)が『易経』(えききょう)と『中庸』に老荘・道教思想を加えて仏教哲学で調整した。その後張載(ちょうさい),程頤(ていい),程邕(ていこう)が発展させた本体論・心性論の系譜と,欧陽脩(おうようしゅう),司馬光が大義名分論・経典批判に立って唱えた歴史主義とが,朱熹(しゅき)によって集大成され,宋学が完成した。宋学は宇宙の理法が人間の則るべき規範であり,天与の道徳性の実現が人倫の道であるとし(性理学),道統を重んじ四書によって儒教精神を発揮し(道学),仏教が否定した人倫と礼とを回復して新たな政治・社会体制に思想的支柱を与えるものであった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
辮髪(べんぱつ)薙髪(ていはつ)ともいう。頭髪を剃りあげ後頭部など一部を残して長くする北方民族の風習。中国を支配した満洲族の清が,服従のしるしとしてこの風習を漢族などに強制したことは史上名高い。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
文字の獄(もんじのごく)秦漢以来の中国諸王朝にみられる思想統制を反映した筆禍事件。なかでも異民族王朝であった清朝の筆禍事件が史上名高く,特に康熙(こうき)帝,雍正(ようせい)帝,乾隆(けんりゅう)帝の3代にわたる盛時に最も激しさを加えた。雍正時代の査嗣庭(さしてい)事件はその著例であり,郷試(きょうし)の問題中の一節「維民所止」の維と止は,雍正帝の頭をはねる意図があるとして,出題者の一族を処罰した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
禁書(きんしょ)中国諸王朝で支配維持,思想統制などのため行った書物の刊行,所蔵の禁止策および対象となった書物をいう。古くは始皇帝の焚書(ふんしょ)がある。以後各王朝にみられるが,清朝の禁書が特に著名。中国的支配を行った異民族王朝の清は国内批判を恐れ,思想統制を厳しくして文字の獄や禁書の徹底を期した。康熙(こうき)帝,雍正(ようせい)帝,乾隆(けんりゅう)帝の盛時に激しく,乾隆帝において特に厳しかった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
イエズス会(イエズスかい)カトリックの修道会。ジェズイット教団,ヤソ会ともいう。1534年イグナシオ・デ・ロヨラとその同志により設立され,教皇パウルス3世の認可を受け(40年),数年後ロヨラの著『霊操』にもとづく会憲ができた。設立後の2世紀間にヨーロッパ各国と海外の布教に成功し,最も強力な団体となったが,プロテスタント,ジャンセニズム,絶対主義君主などの攻撃を受け,1773年クレメンス14世により解散させられた(ロシアでは存続)。1814年ピウス7世のとき復活し,歴代教皇の庇護を受け,現代の世界最大の修道会となった。学問研究,教育にも力を用い,各国内に大学その他の機関を経営している。日本には1549年会員フランシスコ・ザビエルが,中国には83年マテオ・リッチが初めて渡来した。会の標語は「より大いなる神の栄光のために」である。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
典礼問題(てんれいもんだい)中国に布教するカトリック諸会派間の,教習慣と中国の礼俗をどの点まで妥協させうるかということに関する論争。イエズス会は,信徒に対して孔子の崇拝や祖先の祭祀を禁止せず,また中国人がおかしく思うような儀式,例えば洗礼の際に司祭が女性の膚に塗油することは行わなかった。しかし後から中国にきたフランチェスコ修道会,ドミニコ修道会,パリ海外伝道会などは,イエズス会のような布教方法は神への冒涜(ぼうとく)であるとして攻撃,その非をローマ教皇に訴えたので,論争は教皇庁にまで波及した。結局,教皇はイエズス会式の布教を非とし,逆に時の中国皇帝康熙(こうき)帝は,イエズス会式の布教をしない宣教師の入国を拒否。次の雍正(ようせい)帝は,キリスト教の布教を全面的に禁止するに至った(1724年)。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)