純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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昨日までアジア人に石を投げていたのが、今日は亡くなった黒人に涙するのを見ると、人間というものは、たいがいだな、と思う。首尾一貫していない、などと安っぽい非難をするつもりはない。むしろ、この首尾一貫の無さ、軽挙妄動を生じさせるものこそ、我々はもっと自覚して恐れるべきではないか。

それは、同調圧力の狂気だ。「差別」するのも、「差別」に激怒するのも、個人の自発以上に、そこに同じ社会の強迫が見え隠れする。「差別」しないと、自分が攻撃される。そしてまた、「差別」に激怒しないと、自分が攻撃される。いずれにせよ、自分と違う考え、自分と違う行動を許せない、という狂気は集団化し、伝染化し、絶対暴力化する。

同調圧力は、ただの心理的な圧力などではない。実効力を伴って現実に、自分と違う人を、社会的に排除する人が出てくる。そうしないと、実効力を伴って現実に、自分が排除されるからだ。それどころか、信念も強迫も無いにもかかわらず、あえて同調を煽り、これを利用して自派を増やそうとしたり、これを口実に気に入らない相手を潰そうとしたりする政治的小人物も湧いて出てくる。

そもそも、人を「許す」とか「許さない」とかいう人々は、いったい何さまなのだろう? この世での存在感の無さが、神のような全能感に転じるのか。いずれにせよ、同調は陶酔だ。孤独な人ほど、自分だけではなかった、と、同調圧力の中で社会との一体感を回復する。そして、これらの陶酔の「和」を乱す者を、集団で血祭りに上げる。多様性などと言う人に限って、その多様性を絶対視し、その一様性を人々に強制する。

これは、人間の本性に基づくものだろう。歴史は、ずっとこの繰り返しだ。本来、理性は、ラシオ、つまり、比率、バランスを取る人間の能力のことだが、ヒットラーを典型として、理性に欠け、人を「許せない」人がひとりでもウィルスのように登場すると、周囲を同調圧力で浸食し、社会を、「一体化」の名の下に、むしろ完全崩壊にまで追い込む。それも、現代では、この権能を、政治家だけでなく、マスコミの有名人、さらには、リツィートで圧迫する一般個人にまで与えてしまった。

ドイツだけではない。あれほど文化と繁栄を極めた古代ギリシアも、古代ローマも、孤立感を持つ庶民と、それを煽るデマゴーグによる熱狂で、信念を持って「幸福」に滅びた。人は人。何が正義かを定めるのは、神のみの権能、と謙虚に思い知ろう。人を「許さない」人、ソーシャル・クラッシャー、ミーナッドとの関わりを避けよう。それは、滅びの道だ。