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131アバルトからランチア037へ

text:Richard Heseltine(リチャード・ヘーゼルタイン)photo:Motorsports Images(モータースポーツ・イメージズ)translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
1976年、マルク・アレンはフィアット131アバルトに乗った。「圧倒的に良いクルマでした。124は、ラリー用に改造されたロードカー。131は反対で、成り立ちが違います。開発ドライバーのジョルジオ・ピアンタと連携し、それぞれのラリーに向けてテスト走行を重ねました」

「準備は素晴らしいものでした。ピレリからも多くのサポートを受けました。大きなステップアップになりましたね」

アレンは、1976年の1000湖ラリーで優勝。1977年にも、再びポルトガルで優勝を挙げた。ちなみに、彼はフィンランドで述べ6勝を挙げている。

1978年は、131アバルトとランチア・ストラトスHFの2台を乗り継ぎ、FIAタイトルを獲得した。「ストラトスには、何度も乗りました。イベントで結果を残せて良かったと思います。運転は簡単でしたよ。身長が高いので、いつも天井に頭をぶつけていましたけれど」

1979年は、フィアット131とランチアとの間を行き来するが、親会社から強力な武器を獲得する。新しいランチア037だ。

1982年、高い戦闘力を誇るアウディ・クワトロと、プジョー205T16と対戦することになった。「これまで運転した中で最高のクルマとはいえないにしても、気に入っていました。運転したことのないような、マシンでもありました」

「037は好きでしたが、四輪駆動ではなく、グラベル(砂利道)は苦手。ターマック(舗装路)では、信じられないほど素晴らしい走りでした。1983年と1984年のツール・ド・コルスでは勝利。その結果は、とても誇りに思います」と話すアレン。

デルタS4でプジョー205T16に挑む

「次に登場したのは、ランチア・デルタS4。まったく異なるクルマでした。四輪駆動で、より多くの馬力も備えていました。でも037ほど、運転を楽しめるクルマではありませんでした」

「1985年の終わりに、初めてデルタS4でラリーステージを走りました。プジョーと戦うことができるクルマだと、わかりました」

1986年シーズンは忘れがたいシーズンとなった。前半は努力に見合った結果を残すことができず、ラリー・スウェーデンで2位へ食い込むのがやっと。

ラリー・ポルトガルでは、多すぎる観客に対する安全策が不十分だとして、ドライバーたちから反対の声が上がる。続くコルシカ島では、ヘンリ・パウリ・トイヴォネンとコ・ドライバーのセルジオ・クレストによる死亡事故を理由に、アレンのクルマも途中で棄権となった。

モンテカルロとギリシアもリタイアとなり、WRCのタイトル争いに関わるようには見えなかった。だが、プジョーを駆るユハ・カンクネンと、22ポイント差まで詰めていた。

イタリアのラリー・サンレモは、最終レグのターマックだけが開かれた。得点で上位の、3台のプジョー205T16は主催者側との議論の末、不出場となった。

最高検査官のランフランコ・カネスキは、プジョーのアンダートレイ・プロテクションはレギュレーション違反だと判断したのだ。事実、ダウンフォースを向上させる目的があった。

ランチア・チームをまとめていたチェーザレ・フィオリオも、プジョー側の擁護にまわった。結果、アレンは勝利するものの、結果に見合った栄光にはあずかれなかった。

剥奪されたドライバーズ・タイトル

英国では2位となり、オリンパスでは優勝。アレンは1986年のドライバーズ・タイトルを獲得する。

ところが、プジョー・タルボ・スポーツによる主催者側への抗議の末、ラリー・サンレモでのアレンの勝利は無効に。その結果、ユハ・カンクネンがドライバーズ・タイトルを奪取した。

インタビューに答えるマルク・アレン

「いまだに何が起きたのか、事実をしっかり把握していません。政治的な判断が加わったのかもしれません。サンレモでプジョーがラリーを最後まで走れなかった理由と、結果が覆された理由は、理解に苦しむところです」

「ラリーの後半で(プジョーを)出場停止にしても、意味はなかったと思います。プジョー側の抗議が認められたとはいっても、結果的にもとへは戻ることはありません」

「もしプジョーが最後まで走って、そのステージでユハ・カンクネンに次ぐ2位でも、最終的にわたしがタイトルを獲得していたかもしれません。誰も予想はできませんよね」

「とても酷い扱いでした。ユハには何の問題もありません。この話題は、わたしにとっても喜ばしいものではありませんよ」

グループBは、1986年をもって安全面の理由から終了する。1987年からは、グループAがWRCのトップカテゴリーとなった。アレンは、この変更も正しいアプローチだったとは考えていない。

「わたしはグループBのクルマが好きでした。パワーのあるクルマが好きでした。グループAは300psしかなく、退屈でしたから」 運転する仕草をしながら、アレンが話す。

今はフェラーリのテスト・ドライバー

アレンはマティーニ・カラーのランチア・デルタ4WDとインテグラーレをドライブし、好成績を残した。1988年の英国RACラリーでは、WRCキャリアとして最後の勝利を獲得している。

1989年には、スバルとトヨタのドライバーとして、部分的にラリーへ参戦。最前線でのキャリアに幕を閉じた。

その後は、セミ・ワークスチームのアルファ・ロメオ155に乗り、DTMを戦った。またアンドロス・トロフィー・アイスレース・シリーズから、ダカール・ラリーまで、幅広く活躍を続けている。

近年、彼はフェラーリのテスト・ドライバーとして、量産モデルの開発へ携わっている。フィンランドではテレビ番組に出演。海外での経験を語る機会も多いそうだ。

写真撮影を済ませ、最後に質問を投げかけてみた。不意のことに、少し戸惑う表情を見せたアレン。「クルマの運転を怖く感じたことはないか?ですか。今まで運転した経験では、ありませんね」

少し間を置く。「ラリーでは怖いと思ったことはありませんが、レースではあります。1980年、ランチア・ベータ・モンテカルロ・ターボでル・マンを走った時は、心地良いものではありませんでした」

「まったく落ち着きませんでした。ミュルザンヌのストレートを全開で走っていると、今、何をしているんだという、という不安な気持ちになりました。その時くらいですね」

インタビューは無事に終了。われわれが聞きたい決めゼリフは、まだだった。アレンも、それを知っている様子。そして、最後に口にしてくれた。

「OK、マキシマム・アタック!」