タレント/映画コメンテーター LiLiCo 撮影/伊藤和幸

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 ホームレス車中生活5年、全国的に知られる存在になるまで22年―。長い下積み時代の末に夢をつかみ、今も新たな夢で脳内はいつも大渋滞。ギラギラと太陽のような存在感で暗いムードを一掃してみせる彼女だが、実は「超ネガティブ人間」だという。どんな夢でも躊躇なく手をのばす生き方の裏には、自分の限界を知った日の教訓を胸に、現状を突破する努力を惜しまない彼女の姿があった。

【写真】憧れのフリフリ衣装を着てアイドルとデビューした当時のLiLiCo

 花吹雪が舞う六本木・けやき坂。いつもたくさんの人でにぎわう昼どきも、新型肺炎拡大防止の自粛ムードでひっそり静まり返っていた。一方、その頭上の森タワー33階にあるラジオ局、J-WAVEのスタジオからは、不穏な空気を吹き飛ばすかのように、タレント・LiLiCo(49)の明るい声が響きだす。

「ヘイヘーイ(スウェーデン語でこんにちはの意味)、LiLiCoです! いろいろ大変なときだけど、今日も元気にとばしていきますよ! 午後4時までお付き合いくださいね〜!」

やりたい、と声に出したら夢が現実に

 LiLiCoはスウェーデン人の父と日本人の母とのハーフで、18歳でアイドルを目指して日本に来た。12年に及ぶ下積みを経験したのち、『王様のブランチ』(TBS系)で映画コメンテーターに抜擢され、トム・クルーズやウィル・スミスなどハリウッドスターにも臆することなくインタビュアーとして存在感を増す。

 また、「野獣」「肉食系」といったキャラでバラエティーでもブレイク。レギュラー番組6本を抱え、声優、ナレーション、エッセイ執筆もこなすマルチプレーヤーで、歌謡コーラス・グループ、純烈の小田井涼平(49)と“大人婚”したことでも知られる。

 LiLiCoが俳優・稲葉友(27)とナビゲーターを務めるこのラジオ番組『ALL GOOD FRIDAY(毎週金曜日11:30〜16:00)』は、東京の旬な話題やLiLiCoによる悩み相談も盛り込んだ4時間半の生放送。

 その日は、対面する2人の間にウイルス飛沫防止のアクリル板が置かれ、マスクをしてマイクに向かっていた。

「でも、なんか私の場合、声が抑えられてちょうどいいんじゃないって!?」とLiLiCo。

「ちょうどいいんじゃない?(笑)オレたちの場合」と稲葉も合いの手を打つ。

 LiLiCoは前日に人生初のギックリ腰をして、背中に8本鍼を入れていることを打ち明けつつも終始、笑顔で、曲に合わせて座りながら踊ったり、スタッフに冗談を言っては場を和ませている。

 女性の美や健康がテーマのコーナーでディレクターをする構成作家の長沼けい子さん(39)はLiLiCoのしゃべり手としての魅力をこう話す。

「普通、演者の方ってネタ選びとかしないんですけど、LiLiCoさんは自身でアンテナを張って集めたネタを提供してくださるんですよ。この間も“安心安全に育てられたサーモンを出してくれるお店を見つけたから一緒に行かない?”と予約してくださって。実際よかったので、じゃあ紹介しようってことになったんです。オンエアでは急にキャラ変して妖精になったり、紹介する食べ物の声になりきったりして(笑)。毎回楽しく盛り上げてくださるので、すごいなあって思っています」

 新型肺炎の影響が色濃くなってからは「いつもどおりのLiLiCoさんに救われる」というリスナーの声が多く寄せられている。LiLiCoも番組への思い入れは強く、J―WAVEのナビゲーターは長年の夢だった。

「やりたいやりたいと言ってたら、夢が現実になったんですよ。夢は叶えるものだと思っていて、やりたいことは口にしないと誰も気づいてくれないから、声に出すことが大事だと思っているんです」

 新番組を見て興味をひかれれば、エンドロールでプロデューサーの名前を確認し、“こういうネタを持ってるから、よかったら出してほしい”と直談判するそうだ。

「全部叶うわけじゃないんですけどね。売れてないときとまったく同じことをやってます。でもそれを日本でするのは、私と別所哲也さんだけだと思いますよ(笑)。私たち似てるよねって、話してます」

 東日本大震災のときも、現在の新型コロナ蔓延の状況とは異なる事情で自粛ムードが続いた。'11年5月、テレビではみながグレーや黒の服を着ている中、オレンジ色の超ミニスカートで『スタジオパークからこんにちは』(NHK)にゲスト出演した。

「心が死んだら終わりだと思っていましたから、いつもの調子で、下積み時代に5年間、車中泊のホームレス生活をしたエピソードを話したんです。車の中で座ったままで、まっすぐ寝られなかったので、腰は痛いし、エコノミークラス症候群になりそうだったんですよ。だからそうならないように、動ける人は歩きましょうって言ったんです」

 すると被災地から「元気がもらえた」「歩きます」と反響があり、いつもの5倍に及ぶメールとFAXが届いた。

「印象的だったのは94歳のおばあちゃんからきたFAX。筆で“この子は私たちが失ってしまったものを全部持ってる。5年間、車の中で住んでた人がこんなにも明るくできるんだから、まだ2か月の私たちは何をやってるんだ、もっと強くならなきゃダメだ”って書いてあったんです。被災地からの言葉に自分自身が勇気をもらいましたね」

 コロナ疲れがささやかれるようになった今、LiLiCoは震災のときと同様に、春らしい色の服を着て、元気スイッチを入れるという。

弟の母親代わりになると決めた

 1970年、スウェーデンのストックホルムで生まれた。本名はアンソフィー。

「父がジョン・レノンの大ファンで、日本人女性と結婚したいと夢見ていたところでバックパッカーの母と出会って、私が生まれたんです」

 幼少期は内気で物静かな少女だったという。LiLiCoが9歳のとき、弟のTAROさんが生まれた。このころから両親の関係は修復不可能なほど悪くなっていた。毎日怒鳴り合いと皿を投げ合うケンカが続き、あるとき父親が家を出ていってしまう。

「当然、母は働きながら2人の子どもを育てなければいけなくなり、私が生まれたばかりの弟のお母さん代わりになろうと決めたんです」

 TAROさんには重い喘息とアレルギー疾患があり、医師には3歳までしか生きられないと宣告されていた。

「毎日、弟が生きること、それだけしか考えていませんでした。今でも子どもの泣き声と救急車のサイレンを聞くと、弟が発作を起こして病院に運ばれたときのことを思い出してドキッとします」

 放課後は弟を幼稚園から連れて帰り、一緒に過ごした。

 TAROさんはLiLiCoの部屋の記憶がうっすら残っていると言う。

「それは確か青い部屋で、どの部屋より温かで僕にとって安心できる場所でした。特に母とケンカしたときは、すぐに姉の部屋へ行きましたね。姉は僕を足に乗せて、よく飛行機みたいに飛ばしてくれました。

 後から聞いたのですが、“弟がアレルギーなのでうちに遊びに来るときは香水はつけないで!”などリストをつくって友人に配っていたみたいです。とても感謝しています」

 TAROさんは現在、スウェーデンで大学教授となり、2人の子宝にも恵まれ幸せに暮らしている。LiLiCoは病弱だった弟が父親になったことを誰より喜んだ。

「涙が止まりませんでしたよ。うれしくって……おばあちゃんになった気分でしたね」

スターへの憧れ、そしてホームレスに

 小学5年生のころ、LiLiCoはひどいイジメにあった。日本人の顔立ちや先取りしてポップス音楽に傾倒するさまが格好の標的となったのだ。物を隠されたり汚されたりするのは日常茶飯事で、縄跳びでぶたれたり、痰を吐いた雪を顔にこすりつけられたりもした。何より無視されることがつらかったという。

「イジメにあったことは母に話せませんでした。アジア人や日本人という理由でいじめられてると言えば母が傷つくと思ったので」

 寂しい心を埋めてくれたのは、愛読していた情報誌の中のスターたちだった。

「マドンナもみんなと同じじゃないことでイジメにあったり、シルベスター・スタローンが顔面麻痺を克服して俳優になったことを知って、有名になった人もみんな苦労したんだって励まされたんです」

 また日本の祖母から送られてくる、フリフリの衣装の可愛いアイドルたちが載った芸能雑誌を見て、日本の芸能界への憧れを募らせていく。夏休みに行った日本はテレビのチャンネルが1から12まであって、夢のようだった。スウェーデンには2つしかなく、おまけに夜しか放映されていなかったからだ。

「日本にはオーディションもたくさんあるし、チャンスもある。日本に行って、好きな歌でアイドルになろう!」

 そう決心し、18歳の冬に祖母の住む東京を目指した。

 東京・葛飾区に住んでいた祖母は、日本語も話せない孫娘を温かく迎え入れてくれた。プロから歌の個人レッスンが受けられる学校を見つけてくれたのも祖母だった。ところがポップスを歌いたいのに、先生からは演歌をすすめられる。

「“ホイットニー・ヒューストンもこぶしだから”と言われて(笑)。そのころマルシアさんが演歌を歌っていたので、私のような外国人にも歌わせたら面白いんじゃないかと思ったみたいなんです」

 まもなく、レッスンを積むより舞台で場数を踏んだほうがいいとの先生のすすめで、浜松の事務所からデビューが決まった。事務所社長の弟で22歳年上の「守さん」がマネージャーとなり、ビアガーデンや健康ランドなどイベントのステージを求めて巡業する日々が始まる。

 自分で縫った衣装を着て、晴山さおりの『一円玉の旅がらす』や中村美律子の『河内おとこ節』などを歌った。

 守さんは最初からLiLiCoの可能性を誰より信じ「絶対売れる! すごい子なんです」と行く先々で紹介してくれた。

 しかしスターを目指す二人三脚は鳴かず飛ばずで、運転資金も底を尽きる。ある日、事務所兼住宅に帰ってくると、家財道具に差し押さえの赤紙が貼られていた。このときの借金取りが鳴らすチャイムの音が今もトラウマになっているという。追い出された2人は、守さんのセドリックで車中生活を強いられる。それは実に5年にも及ぶホームレス生活の始まりだった。

「空腹を満たすためにサービスエリアのお茶を飲んで、公園の水で身体を洗うような生活でした。祖母の家に戻ったり、母に泣きつくことは、スターになるって出てきたので、意地でもできませんでしたね」

 スナックの飛び込み営業を続けながら、地方テレビ局の局長が紹介してくれたレコード会社からCDが出せたのは22歳のとき。ところがこれも売れなかった。

セクシー路線も水商売もチャンスと信じ

 作戦を変更し、セクシー路線での売り込みをかけた。すると飯島愛や細川ふみえらが出演し、深夜番組としては異例の高視聴率を取っていた『ギルガメッシュないと』(テレビ東京系)への出演が決まる。初めてつかんだテレビ出演に守さんと肩を抱き合って泣いたという。

 流行っていた「Vシネマ」にも出演し、ヌードも殺され役も厭わず臨んだ。「どんな形でも売れさえすれば、好きな歌も歌えるようになるから」という守さんの言葉を信じていた。

 やがて深夜番組で知り合った友達に誘われ、2人の生活費を稼ぐため、六本木の会員制クラブでも働いた。そこはタレントのたまごが歌やダンス、コントを披露する店だった。

「その仕事も5年やりました。知らない人としゃべるトーク術を学びましたね。ショータイムも楽しかったですし、テレビ局の関係者も来ていたので、どこかチャンスがあればいいなと思っていたんです」

 お客として店に訪れていたという衣装デザイナー・松川えまさん(53)が当時のLiLiCoの印象を語る。

「とにかくインパクトが強かったですね。歌がすごくうまくて、志村けんさん的な顔芸も面白かったですし。キレイだけど変な色気がなくて、竹を割ったような性格でした」

 当時、アイドルになりたいという強い思いがヒシヒシと伝わってきたという。

「私はアイドルになりに来た。だからなる、と言ってました。この作品に出たと見せてくれたのがVシネマで、アイドルになりたいならマズいんじゃない? と言ったら、いいの、とにかく出ないとダメなのって。公園の水で身体を洗っていたなんて、寒かったでしょ? と聞いても、スウェーデンだったら寒くて死んでるけど、全然暖かいよと。あのメンタルの強さはすごいと思いましたし、彼女ならきっと成功すると確信していました」

 会員制クラブで新しい交友関係が広がっていく一方、水商売で働くことに難色を示していた守さんとは溝が深まっていった。そのころは事務所兼住居のアパートで暮らせるようになっていたが、ひとり暮らしをしたい思いも募り、別の道を歩むことにした。

「守さんが育ててくれなかったら今の私はありません。男女の関係を疑う人もいたけど、そんなことはなくて、家族であり師匠であり同志でした。あれから音信不通のままですが、“LiLiCoは俺から離れてよかった”って言ってたと風の便りに聞きました。当時使っていた携帯番号は今もそのままにしています」

 28歳のとき、小さなワンルームマンションを借りた。もう売り込んでくれる人はいない。自分の力でやっていこうと心に決めていた。

 すると会員制クラブの常連客からCMで企業名を英語で言うサウンドロゴの仕事を紹介される。アメリカで大ヒットしていた大人向けアニメ『サウスパーク』の声優の話もきて、オーディションで採用された。演歌歌手でもセクシータレントでもない新しい道筋が少しずつ見えてきた。

 そのころに知り合った碓氷由加さん(47)は、近くで見守り続けてきた親友だ。

「彼女は見た目が派手でワイルドな印象ですが、実際は日本人より古風なところがあって、気遣いにあふれているんです。どうしたら周りが喜んでくれるかを常に考える人なので、人を楽しませて笑顔にするという今の仕事にとても向いていると思います」

 ただ1度だけ、LiLiCoがスウェーデンに帰ると言ったことがあったという。

「大失恋したり、あてにしていた仕事がうまくいかなかったり、いろんなことが重なったんですが、そんなことで弱音を吐く人じゃなかったので、慌てて彼女を訪ねました」

 LiLiCoは悲しい顔で「もう私は何やってもうまくいかない。このまま日本にいてもしかたない」と消え入りそうな声で言ったという。

「とりあえず上がらせてって中に入って、こんなときは食べるのがいちばんだってお鍋をやったんです。これでもかっていうぐらいお肉もたくさん入れて。そしたら作りすぎちゃって……あのときは食べすぎるぐらい食べたねって今でも笑うんですけど」

私こう見えて超ネガティブ人間なんです

「出演を検討してもらいたいコーナーがあります。TBSに来ていただけますか?」

『王様のブランチ』から連絡があったのは'01年の冬、LiLiCoが31歳になる年だった。テレビ雑誌の「今週の声優」というコラムで好きな映画を挙げた記事が関係者の目にとまったのだ。

「このコラムは何かにつながるかもしれないと思って、ちょっと通っぽい映画を挙げてみたんです。無修正版の『サウスパーク』とサンドラ・ブロック主演のコメディー『デンジャラス・ビューティー』、官能的なスウェーデン映画『太陽の誘い』でした。それを放送作家が見て、この子、映画のことわかっているねと」

 面談の帰り道、携帯電話に“映画コメンテーターをお願いします”と連絡が入った。

「そのとき、やったー! と頭の中で『プリティ・ウーマン』の主題歌が大音量でかかりました。でも今ほど日本語もしゃべれなかったし、日本の映画のことはまったく知らなかったので、さてどうやって紹介する!? と。毎週落ち込んで、放送後はすぐ家に帰って寝込んでました。お前、下手くそって言われるんじゃないかって、コワくて外に出られなかったんです。自分の実力を思い知らされて、ただテレビに出たいとばかり言っていたことが浅はかに思えました。

 私こう見えて超ネガティブ人間なんですよ。私の中でのどん底は、よくホームレス時代だと勘違いされるんですが、まさにこの時期。思うようにやれないつらさを知っているから、頑張れるんです。大きな仕事が決まって初めて、みなどれだけ裏で努力しているかに気づきました」

 邦画のDVDを片っ端から見て、俳優の名前を覚えた。洋画も最新作に関連する過去作をすべて見返したという。

 今も週に20本以上、映画を見てどれを紹介するか選ぶ。そして1分のテレビ解説や1ページの原稿のために膨大な時間をさいている。

「映画は食べものと一緒で好みがありますし、味わい方は人それぞれ。ただ単に怒りを持っている人が銃をぶっ放すシーンでストレス発散するのもいいし何げなく見た作品のひと言が心に響いて残るかもしれないし。だからこういうふうに見たら楽しめますよとか、こういう気分ならこの映画はどうでしょうっていうふうに、入り口を教えてあげる映画ソムリエみたいな存在でいたいと思っているんです」

 たくさんの映画を通して、どん底に落ちる人生や恋愛、友情、親子関係、そして死を学んできたというLiLiCo。長年苦しんできた母との関係性を、作品に重ねることもあった。

 '12年に亡くなった母は心の病を抱えていた。まだ幼かったLiLiCoに当たり散らし、「お前は世界一バカな子だ」とよく罵ったという。

 晩年は統合失調症を患い、自殺願望の電話やメールなども頻繁に寄こすようになっていった。

「最後までわかり合うことはできませんでした。何でもっとうまくやれなかったのかと思うんですが結局、私の人生での母との関わり方はこういうことだったのかなと思っています。今になってわかるんですが、強くないと海外ではやっていけないんですよ。まだ日本のほうが暮らしやすいと思いますが、スウェーデンは大きな会社に入らないと仕事がないですから。母は知らない土地で2人の子を育てて、すごく頑張ったんだろうと思います」

 葬式で母の友人が「親友として最高の人だった」というスピーチをした。その言葉に救われたという。

最愛の夫だけに見せる素顔

 4月7日、政府から緊急事態宣言が出された後、自宅からテレワークで『王様のブランチ』の生放送に出演するLiLiCoの隣には夫・小田井涼平の姿があった。LiLiCoはテキパキとコメントしながらも、いつになく柔らかな表情で微笑んでいる。

 小田井とは別番組での共演をきっかけに'17年に電撃婚した。実は、LiLiCoは30歳のときに一般男性と最初の結婚をし、6年後に別れている。それから10年余り仕事が忙しかったこともあり、ベクトルは結婚に向いていなかった。だが、小田井をひと目見たとき「ずっと一緒にいたいと思える人」だと確信。「自分の直感には自信がある」と笑顔を見せる。

 前出の友人、松川さんは、LiLiCoの結婚後の変化に目を丸くしたという。

「甘えることがない獣が甘えるのを見て、わ、懐くんだー!って思いました(笑)。ちょっとしたことでも喜んで、“パパがね、ドーナツのピアスを買ってくれたんだ”なんて話すときのうれしそうな顔!」

「小田井ファースト」で家事を完璧にこなし、祖母に教わったとおり、夫を台所に入れない大和撫子を貫いている。

 小田井はこれまで朝早く家を出てステージをこなし、夜遅く帰る毎日だったが、新型肺炎の影響で3月以降のステージがすべてキャンセルとなってからは、自宅で過ごす時間が増えた。すると、今まで知らなかったLiLiCoの姿が見えてきたそうだ。

「一緒にテレビを見てると、隣で感動して泣いてたりとか(笑)。アフレコやナレーションの仕事の前は毎回、台本に書かれている日本語のイントネーションやアクセントを確認しています。息つぎの場所に色鉛筆で印をつけたり、漢字もふりがなをふったり。日本語が達者なので苦労してないと思われがちですが、根本は日本人じゃないので。事前準備をすごく丁寧にやってます。仕事もプライベートも」

 友人たちを招いてホームパーティーをする際は、テーブルセッティング、飾りつけ、料理など、趣向を凝らしてもてなす。

 何事にも合理的で手際のよいLiLiCoだが、火にかけた鍋を忘れたり、振る舞おうとしていた料理を出し忘れてしまったりすることも。

「たまに些細なミスをするので、それを見るのもちょっと面白いなって(笑)。みんな帰った後、椅子に座ってグラスを傾けながらホッとしているときに見せる顔が、たぶん彼女の素顔なんでしょうね」

 小田井と過ごす空間が、LiLiCoの見つけた肩の力を抜ける場所なのだろう。

「僕自身が結構抜けてるところがあるんで、それにイライラすることもあると思うんですけど(笑)、うまい具合に押すところと引くところが逆なので、うまくいってるんじゃないかなと思います」

 2人は結婚して以来、実子を持ちたいと妊活を続けている。LiLiCoはギリギリとわかっていても可能性を捨てていないと言う。

「なんであんなババアがって思ってる人もいるでしょうけど、頑張ってと言ってくれる人もいる。彼にもうやめようか? と聞くと、何で? 嘘でしょ? って、笑っちゃうくらい悲しい顔するから、あーわかったわかったと(笑)」

プロレス、養子縁組にも挑戦

「日本にいていちばん残念なのが、みんな30代でおばさんになった! 終わった! とか言うことです。100歳まで生きるんだったら、まだ3分の1じゃないって。私なんか今年50になるとこで、やっといろんなことがわかるようになったっていうのに。

 50歳からでも筋トレはできるし、『ハスラーズ』のジェニファー・ロペスみたいにポールダンスだってできる。いつだって何でも始められるわけだから、終わってるってそれはあなたの問題でしょって」

 LiLiCoは44歳でプロレスデビューを果たしている。プロレスも昔からやりたかった夢のひとつだった。

「女子プロレスラーの方って、セクシーな衣装着てカッコいいじゃないですか。男性を蹴ったり、投げ飛ばされたり、超楽しそうだからずっとやってみたいと思っていたんです!」

「アイアンマンヘビーメタル級選手権バトルロイヤル」でリングアナウンサーを務めた際、団体の社長に直訴し、'15年から参戦するようになる。やるからには本気で臨もうと、受け身から始め、技を学んだ。

「両国国技館が縮んだ瞬間を私は見たんですよ(笑)。みんな“どうせタレントがふざけたことするんでしょ”って斜に構えていたと思うんですけど、私が本格的なドロップキックをしたら、“えー!”って、前のめりになっていましたからね。負けましたけど、誰もバカにしませんでした。試合のたびに両足を捻挫するし、青痣だらけになるんですけど、数日たつとまた戦いたくなるんですよ。今は妊活中でちょっと控えてますけどね」

 '14年からは、途上国の女性の自立を支援したいとアフリカの少女の養母となった。もともとスウェーデンは海外養子縁組が多く、いずれは自分もと考えていたのだ。

「独身のとき、大勢で飲みに行ってはひと晩でたくさんお金を使っていました。それはそれで楽しかったからよかったんですが。“LiLiCoは毎晩シャンパン飲んでるの?”なんて周りから言われて。私が必死で働いたお金をどう使おうと勝手でしょって当時は思ってたけど、だんだんほかに使えないかなと思うようになったんです」

 少女たちとは手紙や動画を送りあって交流している。

「彼女たちからの便りが楽しみなんです。“勉強も大事だけど、いっぱい友達をつくることも大事だよ!”と話したり、日本のことも紹介します。彼女たちの世界が広がったらいいなと。自分の職業などは明かさないでやってます。そういうときはみんなのイメージのLiLiCoでなくていい瞬間です。だって私は私なので。別に野獣とか肉食系とか自分で考えたんじゃないですもん(笑)」

 周りに気を遣いすぎて疲れていた35歳のときに初めて見たスウェーデン映画『歓びを歌にのせて』は、生涯ナンバーワン映画で何度も見返しているという。「私は自分の人生を生きた」と最期のときに思えるように、「今」を生きる大切さを教えられた。

「人はずっとは生きられなくて、いつかはお墓に入るわけだから、映画『デスノート』のリュークみたいな死神にトントンと肩をたたかれたとき、“やり残した〜”と後悔するより、“あれやっといてよかった〜!!”って万歳したまま、2メートル50センチぐらいの棺桶に入りたいなって(笑)。

 ここまでくるのに、ちょっと行きすぎるくらいにいろんな経験をして、そこまでする必要はなかったかもしれないんですけど、すべてが自分の肥やしになっていると思っています。いろんな出会いがあって、いろんな人に助けてもらって、今の私があるので」

 実現させたい夢は尽きず、脳内がいつも混雑していると目を輝かせる。原点に立ち返ろうと、最近は「歌」の仕事を視野にボイストレーニングも始めたという。

 明るい苦労人、LiLiCo。その素顔は、世話好きで涙もろいアンソフィーだった。つらいときも心のキャンドルを灯して歩んできた彼女の唇から、いま歓びの歌がこぼれる。

取材・文/森きわこ(もりきわこ)ライター。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。社会人2人の母。好きな言葉は「やり直しのきく人生」。