ゴールデンウィーク前のこの時期になると、古い記憶が頭のなかで立ち上がる。1999年4月に行われたワールドユースである。現在はU−20ワールドカップと呼ばれる大会だ。

 大会開幕前の評価は、期待と不安が相半ばするものだった。小野伸二、高原直泰、稲本潤一らを中心にタレントは揃っていたが、フィリップ・トルシエは監督に就任したばかりだった。前年秋に日本代表監督に就任したトルシエが、清雲栄純からチームを引き継いだのはふたつの理由があった。

 ワールドユースはアフリカのナイジェリアで開催され、トルシエはナイジェリア代表監督を含めてアフリカでの経験が豊富だった。現地の事情に明るいトルシエの存在は、様々な場面でチームを助けることとなる。

 ふたつめは2002年を見据えた強化につながる、ということだ。トルシエは「この世代の選手はベイブス(赤ん坊)だ」と語り、ベーシックな練習を徹底しながらメンタル面も強化していく。ワールドユース後にはシドニー五輪アジア1次予選が控えており、最終的には02年の日韓ワールドカップへとつながる。20歳以下の世代をスムーズに吸い上げていくためにも、このタイミングでトルシエがチームを率いることに意味を見出すことができた。

 もっとも、フランス人指揮官は不満を抱えながら現地ナイジェリア入りしている。選手たちはあらかじめ感染症予防の注射を何本も打っていたが、トルシエは注射を打っていない選手を招集したいとサッカー協会に要望する。

 アフリカに慣れている彼からすれば、「注射を打たなくても大丈夫」と言いたくなる。選手の安全を最優先するサッカー協会は、「そうはいかない」と拒否する。トルシエの要望は叶わなかった。

 すでに日本代表デビューを飾っていた市川大祐も、コンディションが整わずに招集外となる。戦力的な懸念材料をあげれば、稲本が右ひざの負傷を抱えていたこともあげられた。

 さらに加えて、トルシエが最終調整に立ち合えなかった。ワールドユース開幕直前の3月30日に、日本代表が東京でブラジル代表とテストマッチを戦っていたからだった。トルシエはこの試合で采配を振るってから、チームに合流しなければならない。それもまた、来るべき大会に影を落としていた。

 カメルーンとのグループリーグ開幕戦に敗れた直後は、ネガティブな要素が出てしまったのか、との懸念が広がった。しかし、アメリカとイングランドを連破したチームは、グループ首位でノックアウトステージへ進出する。

 決勝トーナメント1回戦の相手はポルトガルだった。この試合をPK戦の末に勝利した日本は、メキシコとの準々決勝に臨む。

 95年と97年のワールドユースでも、日本は準々決勝まで勝ち上がっている。ここまでは未知の領域ではない。3日前に120分プラスPK戦を戦っていたチームは、真価を問われる場面を迎えた。

 開始4分に本山雅志の得点で先制した日本は、24分にもキャプテン小野がヘディングシュートでネットを揺らす。トルシエが持ち込んだフラット3は試合を重ねるごとに磨かれ、イングランド戦以来のクリーンシートでベスト8のカベを打ち破った。

 国内ではJリーグの第1ステージが行われていた。海外ではセリエAのペルージャで移籍1年目を過ごす中田英寿が、ジョバンニ・テデスコやミラン・ラパイッチとともに奮闘していた。ワールドユース以外にも話題はあったのだが、日本時間22日に行われるウルグアイ準決勝を楽しみに待った。現地での取材を見送った判断の甘さを、後悔しつつ……。
(以下、次回へ続く)