中村 修治 / 有限会社ペーパーカンパニー 株式会社キナックスホールディングス

写真拡大

大学生の時に、生協で百円ライターをかすめた。
未だにそのショボさと後味の悪さを覚えている。
極めてバカらしい。

事件の多くは、社会的意味なんてあまりないのだと思う。例え、殺人を犯した本人を突き詰めて行っても、ろくなモノは出てこない。「個人の闇」ばかりで、そこに大きな社会的意味なんて、きっとない。犯罪を「格差社会」や「バーチャルゲーム」のせいだと、いくら理由をつけても、それは、闇の根幹ではない。

正常な人間であるなら、社会的意味を背負うほどに、無差別に他人を殺す行動への躊躇は生まれる。だから大量無差別テロには、大きなイデオロギーが必要なのだ。

「個人の闇」に、小さな物語をつけて社会のせいにする。「個人の闇」に、過剰な意味をもたせて魔女狩りをする。その「小さな物語」や「過剰な意味」で紡がれる合理性が、今を生きる「個人」の未来を明るくするものには思えない。

誰もが多かれ少なかれ抱えている「個人の闇」に、それらしい理由をつけたところで、解消されるものではない。それに社会的意味を付けたら、「個人の闇」は、全部社会のせいになる。憶測だけの無責任な犯人探しは、有害無益だ。

販促・マーケティングの世界にも、同じようなことがある。消費者ニーズの解説や分析=意味づけが、いつもしっくりこない。賢い専門家の皆さんは、「消費者ニーズは、ある。」とおっしゃる。「消費者の行動」には、全部、物語があり、意味があると解説される。前述の犯罪評論家と同じような気持ち悪さを感じる。

ニーズ=必要なモノなど、そこそこ、みんな手に入って・・・ウォンツ=欲しいモノも、速攻では答えられない。そんな成熟した社会の消費者のニーズやウォンツは、今まで通り合理的には語れないのではないかと思う。犯罪が、「個人の闇」に向かって行われるなら、消費は、「個人の兆し=未来」に照らし合わせて実行される。そして両者とも、その動きを導き出しているものは、理屈ではない。

マーケティングリサーチのデータは、残念ながら、過去のものだ。アンケートに答える行為自体が、過去を見る行為だ。その過去の集積から、得たいの知れない兆しを感じることができるかどうか。それが優秀なマーケッターには求められる。世の中のヒット商品の裏側には、そういう理屈では語り尽くせない得体の知れないセンスが必ずある。

ゲゲゲの鬼太郎の作者である水木しげるさんが、「人間は得体の知れないものをほっておけない。暮らしに安心をもたらす智恵として『妖怪』を編み出した」という旨の発言をされていたことを思い出す。

先人は、人智を超えた理解できぬものに、すべて名前をつけて妖怪のせいとした。それは、その事件や出来事を突き詰めて、理屈で整理してもろくなことはない。その得体の知れないものの犯人探しを止める=思考を停止するという「知恵」なのではないだろうか。

「この世には、妖怪がいる」そう感じて暮らしていたほうが犯罪の抑止になるし、コミュニティの平和も長続きする。そういう考え方が生まれたのは、長い人間の歴史の中からだ。そういう「妖怪」は、確かなフィールドワークで生み出された。

歴史もなく、ろくなフィールドワークもしてない評論家ほど、憶測で事件を判断する。机上だけで、足で情報をかき集めないマーケッターほど、ヒット商品の裏側を理論で語りたがる。犯罪の裏側にも、ヒット商品の裏側にも、顔は違うが「妖怪」がいるのだ。

なんでもかんでもに「意味」を求めた的はずれのコメントを聞くより、ニュース報道には、確かなフィールドワークを見たい。マーケッターには、妖怪=兆しを察知する確かな直感を期待したい。

「みんな賢い方がよい」という風潮は、馬鹿な事件を誘発する。「マーケッターは論理的な方がよい」という期待は、使えない戦略や商品を、巷に溢れさせるだけである。

※ちなみに、あの有名な飛田新地には「妖怪通り」なる道がある。そこは「熟女」のお店が集まる通りである。