お祭り騒ぎの脇で街を清掃するボランティアたちもいれば(第1回参照)、お祭り騒ぎの代わりに「地味ハロウィン」を楽しむ一群もいる。彼らは、派手なハロウィンの終焉の兆しだろうか。慶應義塾大学の小野晃典教授は、「そうでないにせよ、自分だけの“リアル”を見定められた彼らは、そうでない人たちが多様性を認識する契機になるだろう」という--。(第2回/全2回)
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■インスタ映えに対するもう一つのアンチテーゼ

第1回では、ハロウィンが企業のマーケティングの手段として日本に輸入された後、現代的な祭りの機会を見いだしてお祭り騒ぎを行ってきたパリピたち、それに乗ってインスタ映えする光景を求めて参加するパンピたち、そして、祭りによって汚された街を清掃するボランティアたちがハロウィンに求める三者三様なリアルさについて論じてきました。

最後の清掃ボランティアが、注目点かもしれません。ツイッターで語られるゴミ問題を契機として集まった彼らは、お祭り騒ぎにインスタ映えを求めるパンピたちと同じく、清掃に参加することでリア充を実感しているはずですが、「インスタ映え」を狙うという下心があっての偽善的清掃者ではなさそうだという点においてです。

第2回では、そんな清掃ボランティアに匹敵するような、もう一つのインスタ映えのアンチテーゼについて論じていきましょう。

ハロウィンの清掃ボランティアたちは、インスタ映えを狙ったハロウィンの大騒ぎにアンリアルでフェイクな感覚を抱いて、自分がよりリアルだと感じる清掃という道を歩むことにしたのだろうというわけですが、それと同様の感覚に基づいて、別の道を歩むことにしたのであろう人たちがいます。それは、「地味ハロウィン」のイベントに集う人たちです。

■地味ハロウィンとは

「地味ハロウィン」は、魔女やゾンビの衣装を着て騒ぎ立てたりはせず、それゆえに、インスタ映えを狙ったりもしないけれども、ハロウィンは楽しそうなので、等身大の地味な仮装に工夫を凝らして、その仮装を鑑賞し合うことによって知的に楽しもう、というイベントです。

ハロウィンの仮装は、元々、収穫祭のこの時期に先祖の霊と共に降臨する悪霊を退散させるためにカボチャの実をくりぬいて作ったジャックオランタンに火をともす一方、それでも近づいてくる悪霊をやり過ごすために悪霊の仲間を装う目的で行われるのだそうです。

それなのに、地味ハロウィンは、「魔女やゾンビは禁止、カボチャも禁止」です。このルールは、元来の趣旨から逸脱してしまうということを意味します。

このルールのせいで、イベント会場を訪れても、ハロウィン本来の雰囲気を味わうことはできません。インスタ映えとは無縁な、説明がないと何の仮装をしてきたのかさえ分かりにくい、きわめて地味な仮装者同士が、お互いにニヤリとした笑いで盛り上がるだけなのです。

それにもかかわらず、このイベントは、5年ほど前の初開催以降、年々、ツイッターのリツイート数を増やし、イベント参加者数も伸びているし、東京会場を阿佐ヶ谷から“派手ハロウィン”の最大拠点といえる渋谷に移すと共に、いくつかの地方会場においても同時開催するという盛況ぶりをみせています。

■地味ハロウィン vs. 派手ハロウィン

「地味ハロウィン」の盛り上がりは、一見すると、渋谷の街に沸き起こった従来の「派手ハロウィン」に対するアンチテーゼ見えます。つまり、「派手に対する地味」ということです。「陽キャに対する陰キャ」と言い換えても良いでしょう。陽キャ(陽気な人)のド派手なノリについていけない陰キャ(陰気な人)である一般人が、いたしかたなく、同類同士、街の片隅に集まって静かにハロウィンを楽しもうとしているように見えるということです。しかし、このような見方は誤りです。

地味ハロウィンの先導者たちは、おそらく、派手ハロウィンの先導者たちに対しては一目置いています。派手ハロウィンの先導者たちというのは、言い換えると、インスタ映えを狙って背伸びをしなくても、自然とインスタ映えしたキラキラしたコンテンツを発信できるようなアビリティの高い一握りの人たちです。彼らは、生来的にキラキラしているので、彼らの手によるハロウィンは、自ずとキラキラしたものになるのです。

けれども、そんな彼らが作る派手なハロウィンに乗っかろうとして渋谷に集う大多数の人たちは、本当の自分より少しだけ良い自分をプロデュースするための好機として、インスタ映えする瞬間を切り取りにきているにすぎません。地味ハロウィンが疑問を呈するのは、そうした人たちです。そういう人たちは、生来的には、あちら側の人ではなくこちら側の人ではないのかと。

そういう意味で、地味ハロウィンとは、「派手」に反対する「地味」という単純なものではありません。平たく言えば、パリピはよいとして、パリピでない人が背伸びをしてパリピ化したハロウィンに参加することに疑問を呈し、自分本来のキャラを発揮できる自分だけの立ち位置を模索してはどうかと提案する企画だということです。あるいは、掃除ボランティアをフィーチャーした第1回の表現を使って換言すると、「インスタ映え」を狙うインスタグラマーに反対する「ホンネベース」のツイッター民、と表現することも可能です。

■コミックマーケットの「面白系コスプレ

実は、「地味ハロウィン」に集う人たちと似た思考の持ち主が、コミケ(コミックマーケット)等のオタクたちの活動領域で、ずっと前から観察されています。コミケとは、マンガ同人誌等を販売する大規模展示即売会のことですが、そのイベントに、マンガのキャラクターの仮装に身を包んだコスプレイヤーたちもまた、自らの仮装を来場者に見てもらおうとして集まることを楽しみ、来場者もまた彼らの仮装を鑑賞したり写真を撮影させてもらったりして楽しみます。そこにいる「面白系コスプレイヤー」たちが、「地味ハロウィン」に集う人たちに酷似しているのです。

毎年ネット上の話題にあがるコスプレイヤーたちの大半は、マンガのヒロインを巧妙に三次元化した美少女たちです。彼女たちは一般人ながら生来的にキラキラとしたタレント性を持っているため、現場ではアイドルのように扱われ、事実、コスプレをきっかけにして芸能人になることさえあるようです。

しかし、現場にお邪魔すると、美少女ではないコスプレイヤーたちが、思い思いの仮装を楽しむ様子も見られます。キラキラしていない代わりに、地味ながら面白く趣向を凝らすという別の付加価値を帯びているため、それら「面白系コスプレ」も、「美少女系コスプレ」と同様、来場者の好評を博しています。彼らは、美少女には圧倒的に太刀打ちできないというリアルさを正しく認識し、それとは差異化した仮装で楽しみ、また、人々を楽しませているのです。

マンガといえば、大人になってまでそれに夢中になる子供じみた読者が「オタク」と呼ばれるような、ネガティブなイメージを帯びたアンダーグラウンドな文化要素と見なすのが一般的です。けれども、そんなマンガに傾倒するオタクたちは、一般人が抱く社会不適合者というイメージとは異なり、むしろ、生来的にキラキラしえないリアルな自分を正しく直視し、それに代わる立ち位置を現実社会の中にうまく見いだしているように思えるのです。

ひるがえって、オタクではなく一般人だと自認する人たちは、どうでしょうか。ハロウィンの夜、今年こそ、仮装パーティーを開いて盛り上がってみようか、と思っているような人たちは、今、オタクたちから、それに、地味ハロウィン参加者たちから、さらには、清掃ボランティアたちから、「それは、本当に、あなたにとってのリアルなのか?」と問われているのです。

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小野 晃典(おの・あきのり)
慶應義塾大学商学部 教授
1995年 慶應義塾大学商学部卒業、同大学院修士課程・博士課程修了。博士(商学)。1997年、同大学助手、助教授、准教授を経て、2005年より現職。近著に、「独自性欲求が口コミ発信行動に及ぼす影響」(2018年『マーケティングジャーナル』誌掲載)や、「日本におけるアニメ聖地巡礼−その決定要因として社会的影響に注目して―(“Anime pilgrimage in Japan: Focusing social influences as determinants”)」(2019年 欧州Tourism Management誌掲載)などがある。
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(慶應義塾大学商学部 教授 小野 晃典)