純愛系から極悪非道なクズ役など多彩な役を演じてきた山田孝之氏。今回、Netflix「全裸監督」から見えてくる山田孝之という俳優が行きついた先とは?(写真:Sports Nippon/Getty Images)

8月に「Netflix」に加入した。山田孝之の「全裸監督」が観たかったから。端整な造作の二枚目だが小柄で筋肉質、驚異的な体毛の多さ、そして自在に使い分ける声。毛も毛穴も筋肉も演技力もないイケメンがもてはやされる時代に、わが道をゆく山田は希有な存在だ。

その山田が地上波ではなく「Netflix」、感動大作ではなく「全裸監督」を選んだ理由もなんとなく見えてくる。過去の出演作を観る限り、葛藤の痕跡も嗅ぎ取れるからだ。

「ありきたりな路線」に嫌気さす?

純愛ブームが花盛りの2000年代、山田は感涙・感動系に引っ張りだこだった。今考えると、ものすごい仕掛けだった。大した話でもないのに、広告代理店と出版社とテレビ局と映画会社と事務所が徒党を組んで、感動を押し売りするあこぎな仕掛け。視聴者も消費者もみんな単純で、いい時代だった。

その代表例「世界の中心で、愛をさけぶ」(TBS・2004)で、山田は実力派と称されたし、その前後にも病気や死が定番の純愛・感動系に多く出演。映画『電車男』はコメディーだが、純愛系の亜種だ。実はこの頃の山田には興味がない。この雑な説明からもわかると思うが、山田孝之を「純愛・感動系の人」で終わらせていたのだから。私の目は節穴である。

彼自身も「そっち系じゃねーんだよな、俺」と思っていたのではないか。正義や感動の押し売り、美しき善人役に辟易していたのではないか。2010年代の山田の役選びは、ことごとくそっち系ではなかったから。 

本領を発揮したのは「闇金ウシジマくん」(TBS系・2010)だ。山田演じるウシジマは「利息はトゴ(10日で5割)」という悪徳闇金の社長。取り立ては容赦なく、徹底して非情。やっていることはすべて犯罪。

闇金に手を出す人々が怠け者やうそつきなので、山田の犯罪的高利貸しが実は「人助け」や「生き直し」につながる一面もある、深いドラマだった。山田は冷徹さやカリスマ性を20代で完璧に醸し出した。目と肝が据わったアウトローっぷりには、単なる無表情とは違う、静かなる威厳があった一方で、真逆の作品へ。

低予算コメディー「勇者ヨシヒコと魔王の城」(テレ東・2011)に出演。ロールプレイングゲームの世界観を実写にして全力でふざけるドラマだったが、まじめで頼りない主人公・ヨシヒコを低体温で演じた。顔芸・コント・歌劇とさまざまな要素を詰め込んだエンタメ作で、山田は万能だと改めて思い知らされた。「濃いめ」な社会派悪党と「軽め」な悪ふざけコメディーと盤石の2本柱で、山田孝之が世の中に浸透していく。

「山田無双」と言っても過言ではない

もうこの頃には、登場するだけで空気を一変させ、主役でなくても爪跡を確実に残す「怪優」と化している。「信長協奏曲」(フジ・2014)は、「月9イケメン戦国ファンタジー」と軽い印象の作品だったが、羽柴秀吉役の山田1人だけが物語に緊迫感を与えた。「ひとり大河」状態である。

また、映画『悪の教典』では万引きした女子生徒を脅して、肉体関係を強要する卑劣な教師を演じた。登場シーンはほんのわずかだが、堂々たるクズっぷり。同じく教師役の吹越満とともに、記憶に残る名脇役だった。

強烈だったのは、映画『その夜の侍』(主演は堺雅人)。1ミリも反省しない加害者役を演じたのだが、品性下劣なクズ男に震撼した。声をややハスキーにして、知性の欠片もない暴力的な男を体現。昨今、一般人のあおり運転や恫喝などの動画がSNSで拡散されるが、まさにああいう感じ。口調や声音で知性の欠如を表現できるなんて! 同世代でここまで多種の人物を演じ分けることができる俳優はいるだろうか。山田無双である。

キャリアの多くをほぼ主演で駆け抜けた山田だが、こうして主演ではないときにも観る者の目を確実に奪う。きっとトンデモ駄作への出演依頼も多々あったに違いない。意義のある作品のみに出るようになった気もする。

ナレ期・自演期のモラトリアムを経て

ちょうどこの頃、NHKが山田の声を多用し始めた。最初はBS、そしてEテレ、さらには総合へ。立て続けに山田ナレーション番組が放送された。「新・映像の世紀」(2015)で聞いたその声は、NHKアナウンサー級の滑舌のよさと美しさで、一瞬誰かわからなかった。

俳優がナレーションをすると、だいたい声でわかるのだが、山田は声音が別人。しかも番組によって微妙に変える技。ナレーションが妙に増えた「ナレ期」は、山田の演技を観たい人にとっては歯がゆかったが、これはこれで別の満足感があった。

さらに、自分を売る・自分を演じるブーム、いわば「自演期」が訪れる。とくに、テレ東でドキュメンタリードラマや謎のバラエティー番組を量産。切り口と手法は新しくて面白かったが、「山田孝之100%」よりも「山田孝之0%で完璧に他人になりきる山田孝之」に興味がある私としては、ドラマに戻ってきてほしかった。

だからこの自演期は勝手ながら「迷走期」とも呼ばせてもらう。キャリアの長い俳優ならこうした「モラトリアム」期間がある。それもこれも、すべては次なるステップのためだったのだ。

山田が演じてきた役は多彩だが、最近は観る者に共感や憧憬を抱かせる役をほとんどやらない。そこがいい。抱えてきた葛藤の深さも感じさせる。そこにきて、満を持してのNetflix「全裸監督」だった。


山田孝之が出演している「全裸監督」シーズン1より(写真:Everett Collection/アフロ)

アダルト業界で一世を風靡した村西とおる監督は、よくいえば破天荒だが、搾取された女性にとっては害毒の存在。昭和バブルの残滓という印象も強い。テレビドラマでこの業界と人物を描くのは不可能だ。テレビはつねに怒られないよう、細心の注意を払う忖度と迎合の集合体だから。

それでも山田は選んだ。演じきった。英語混じりで調子よくしゃべり、白ブリーフ1丁でカメラを回す姿が強調されがちだが、観るべきところはそこではない。第1話では慣れない飛び込み営業で、身を粉にして働く山田。しかし、妻が男を家に連れ込んで浮気している現場に出くわす。妻は「あんたでイッたことないのよ、1回もね」と言い放ち、子どもと共に家を出ていく。男の沽券は木っ端みじん。絶望に打ちのめされるのだ。

そこで回想するのが貧しい幼少期。昼間から長屋で性交する父と母。仕事がうまくいかない父は酒を飲んでいる。隠していた生活費にまで手を出した父に、母は激怒して大げんかに。母を守るべく、手にした包丁で父に刃向かうも、刃先を手で握って制止する母。父をかばったのだ。

自分が身を粉にして働いても、満足せずに去った妻。生活面ではふがいない父でも、かばった母。想像以上に深い、性欲の存在意義。さらに性欲には表と裏があると知り、山田はアダルト業界へと身を投じる。

性を謳歌しているように見えるが、実は山田自身が「性欲の深淵に翻弄され続けていく」のだ。しかも、ハワイの刑務所では屈強な受刑者たちに犯され続ける。浮かれた昭和の栄華だけではなく、その裏にある屈辱と闇も描いている。

「業の深さ」追求した迫真の演技

人間はそんなにきれいな生き物ではない。金に汚く、性に貪欲、業の深い生き物なのに、そこを映像ではいっさい描かないというのは、実に不自然だ。

若かりし頃は青春と感動と純愛を言われるがままに背負い、その反動で犯罪者や奇人・悪人役を経て、アイデンティティー迷子のモラトリアムも経験した山田が行きついた先はここだったか。ストンと腑に落ちた。

「全裸監督」はシーズン2も決定したし、来年には俳優の佐藤二朗が原作・監督・脚本の映画『はるヲうるひと』の主演も決まっている。舞台はとある島の売春宿、血縁と家族観に翻弄される兄妹の話だ。今後も、業の深さを追求しつつ、虚実皮膜を余すところなく見せてくれるに違いない。

実は、ひそかに「これは山田孝之にしか演じられない」と思い続けている小説がある。沼正三の『家畜人ヤプー』で、瀬部麟一郎役だ。ただ、忌々しき人種差別問題を含む奇譚SF小説なので、実写映像化は厳しい。厳しいが、脳内ではつねに麟一郎=山田孝之である。