人事部長に求められる能力とは?(【連載29】新しい「日本的人事論」)/川口 雅裕
「人事」という言葉は曖昧で、使う人の立場やその時々の状況でいろいろな使われ方がなされる。経営者が「人事」と言う場合は、組織を変えたり人の配置を変更したりする意味であることが多い。中途採用などで「人事の経験者」を募集すれば、処遇システムの設計や研修の企画・実施をやっていた人はもちろん、評価や異動、労務管理の経験者、採用担当者、給与計算をやっていた人など、様々な人から応募がある。学生が「人事」という場合は、たいてい新卒採用のことを指している。
もちろん、いずれも人事部が担当している業務だからそれでいいのだが、人事部自身がその目的を定められない状況に陥りがちなのは、問題である。人事という言葉が曖昧であるのと同じように、人事部自身がその目的を曖昧なままにして業務を進めてしまっているケースはあまりに多い。人事部には、制度設計・教育研修・評価・異動・労務管理・勤怠管理・採用・給与など多岐に渡る業務があるが、これら相互の関連は実は容易には見つけられず、往々にしてバラバラに動いてしまっている。それぞれが、異なる目的を持って業務に取り組んでいる結果、互いの理解も協力も進まず、部内にセクショナリズムのようなものが出来上がってしまってケースも少なくない。
例えば、こんな状況である。採用担当が、他社に負けない優秀な人材を頑張って採用してきた。ところが、それに対して教育研修担当者は「誰がどうやって育てるの?」と冷めた目で疑問を呈し、残念ながらミスマッチで退職してしまったケースでは労務管理の担当者が「採用ミスだ」と批判する。採用担当者からは、せっかく採用してきた人が育たず、モチベーションも高まらないのは、評価や給与のイマイチな仕組みをずっと放置しているからだと制度設計担当者への不満がたまっている。そんなストレス状況の中、人事部内の違う担当者からは女性活躍推進、長時間労働の是正、業務の効率化、職場環境の改善、コンプライアンス体制の見直しといった、まったく異なる視点の対応が提案されてくる。
組織がこのようになってしまう原因は、通常、リーダーの力不足である。人事部を束ねるポジションにいる者が、「人事の目的」を理解せず、目的がないから「グランド・デザイン」を描くこともできず、さらに、人や組織というものに対する自らの「思想」や「理念」もないからである。
人事の目的は、「外部環境の変化に対して、組織や人材を最適化すること」だ。したがって、人事部長の視点は、まず外部環境の変化(過去・現在・未来)であり、次にその変化と内部の組織・人材とのギャップに向かねばならない。外部環境がどのように変わってきたのか、どのように変わっていくと考えているのか。それに対して、自社の組織・人材の強みは何で、改善すべき点は何か。そこから導き出される施策は何で、それらの優先順位をどのように考えるのか。これを言語化し、人事関連業務に携わる者すべてに分かりやすく伝え、理解させるのが人事部長のもっとも重要な役割である。そもそも、リーダーシップの前提はこのような所信表明なのであり、これによって人事部の目的を一つにすることができる。もちろん、人事施策の現実的な内部調整にも関わらざるを得ないが、そのようなことばかりに翻弄されていては人事部長の職責を果たすことはできない。逆に言えば、内部調整に長けている点だけを長所とする人事部長は、たいてい上に書いたような人事部を作ってしまう。
目的を理解し、それに基づいた課題を明確にしたら、次は、「グランド・デザイン」を描くことだ。車のナビゲーションと同じように、目的地と現在地の距離、そして目的地に行き着くまでの道筋と施策、到達時間を可視化する。そして、それらを各担当の業務に関連づけていく。所信表明が、問題(外部環境の変化に対応できていない部分の指摘)と、問題解決のための課題・施策を羅列したものであるのに対し、グランド・デザインは、問題が解決した状態(外部環境の変化に対する最適状態の描写)と、それを実現するための役割分担とアクションプランである。このような「大きな絵」を思考し、描き、伝えられるかどうかが人事部長に問われることになる。
最後に問われるのは、人事部長としての思想や理念である。人や組織に対する責任を負う立場として、自分がどのような人間観、組織観を持っているのかを明らかにすることだ。人間はどのようにすれば育つのか、どのようなときにやる気になるのか。組織はどのようにすればうまく回り、機能するのか。人は変わるのか、変わらないのか。優れた上司とは何か。このような抽象的で深い問いに対する持論である。これは、人事部長の判断軸を支配するものであり、人事が行う施策や立てる企画にも大きな影響を与え、また人事部員の言動も左右するから、曖昧なままにしたり黙っていたりしていていいものではない。
人事部長としての思想や理念は、人事に関わる理論を本などで学べば獲得できるというものではまったくない。リーダーシップ、マネジメント、組織開発、コミュニケーションなどの分野の様々な知見を学ぶことは、もちろん悪いわけないが、それをそのまま人事部員の前で披露したところで、よく勉強していることが分かるだけだからだ。人事部員の心をつかむのは、多様な場面や人とのかかわりを経験し、そこから洞察して獲得した、人事部長ならではの深く独自性のある人間観・組織観である。
人事という仕事は、「法令を守っていればいい」という仕事ではないし、うまくいった他社の例や世間の横並びを参考にしてやれば上手くいくという仕事でもない。ビジネスも違えば、規模も歴史も人材も会社によってそれぞれであり、それゆえにオプションは無限であり、人事とはフリーハンドなのである。そのような状況で、結果にもっとも影響を与えるのは、人事部長の極めて抽象的な思考力と、それを支える人格や教養だろう。人事部長に求められる能力とは、社内人脈でも個別案件に是々非々で調整・対応する力でもない。『環境変化に組織と人をどう最適化させるか、という人事の目的に即した“所信”を作り、表明する力』、『グランド・デザインを描き、伝え、ナビゲートする力』。そして、磨き続けてきた人格や、会社人間とは違う幅広い見識と教養が滲み出るに違いない『独自の優れた人間観や組織観』の三点なのである。