人事部は、AIによって消滅するか?(【連載28】新しい「日本的人事論」)/川口 雅裕
AIが、様々な仕事に影響を与える時代を迎えた。当然、人事部の仕事にも大きな影響を与えるだろう。既に、採用や人員配置に使おうとしている企業もある。AIの導入が進んだとき、人事という仕事はどのように変わるのか。AI搭載のソフトが、大きなインパクトを与えた将棋界を素材として考えてみたい。
まず、AIが与えた将棋界や棋士への影響、AIによる将棋の変化について、3つ挙げてみよう。
一つ目は、将棋界や棋士がAIに抗うのではなく、受け入れ、AIを上手に利用しながら共存しようとしていることだ。それは、AIとの対決に敗れたからではない。人間の知力や気力や体力には限界があるし、年齢による衰えも必ず訪れるが、それらには無縁のAIはどこまでも進化しつづける。人間が永遠に届かない将棋の真理に、AIは近づいていくのかもしれない。であれば、これまでの勉強・鍛錬の方法を変えて、早めにAIから学ぶようにするのが得策だと棋士たちが考えているからだろう。実力をつけるためには、AIの形勢判断や指し手を(少なくとも人間が考えるよりは)正しいものと捉え、それを模倣したり応用したりできるようになったほうがよいということである。(棋士全員がそうという訳ではないが。)
もっともそこで、棋士達は問題に直面する。AIが何故その手を指したのかが、分からないという問題だ。学ぶといっても、思考のプロセスや判断基準はブラックボックスになっており、結果しか知ることができない。たとえば、AIは将棋の形勢判断(先手・後手のどちらがどの程度優勢か)を「評価値」として出してくるが、その数値になった理由は分からない。AIは推奨の一手を提示するが、なぜその手が良いのかは分からない。「見て学べ」と言うだけで、奥義や秘訣をいっさい教えてくれない達人のようなものである。したがって、学ぶといっても正確には理解できないので、「AI的な感覚やセンス」を試行錯誤しながら身につけることになり、AIが導いた答とどのように向き合うかが問われる。
二つ目は、プロ棋士の指す将棋そのものが、(素人から見て)面白くなったことだ。AIは、将棋の長い歴史の中で出来上がってきた定跡や常識を見直すきっかけを与えた。AIのおかげで、良しとされていた形や手順が、そうでもないケースもあると分かったし、逆に、悪いとされていたものが、そうでもないというケースも見つかった。新しい攻め方・構え・守り方などが見つかった。人間が考えもしないような手(瞬間的に良くなさそうに人間には思えるが、実は有効な手)も発見された。「王を固く囲うより、全体のバランス」という勝つための考え方まで、変わってきた。それまでの将棋は、整備された定跡にのっとって指されるケースが比較的多く、似たような形、よく見る形というのがあった。それが、AIの指した手の影響によって、格段に多様になった。AIは人間の視野を広げてくれるし、人間を先入観や思い込みから解放し、発想を豊かにしてくれるのである。
三つ目は、AIに勝てなくなったからといって、将棋界や棋士たちの価値が低下したわけではないということだ。むしろ、将棋界は(藤井聡太七段のブームを差し引いても)非常に盛り上がりを見せており、棋士たちには将棋を指さないファンも(“観る将”という)たくさんついている。「叡王戦」という新しいタイトル戦が誕生するなど新棋戦もでき、女流棋界もこれまでにない人気である。AIを使った将棋ソフトが登場したころ、「負けたらプロ棋士の存在意義がなくなるのではないか」「棋士という仕事がなくなるのではないか」、などと言われていたのがウソのようである。
これは、プロ棋士の価値が、単に「将棋が強い」ということではなかったことを意味している。価値はやはり、人間同士の戦いにしかない魅力である。両者の戦歴や関係、得意戦法や棋風や駆け引き、勝負におけるミスや運の存在などに加え、所作や服装や表情などから食事(昼・夜に何を食べるか)に至るまで、生身の人間が繰り広げる戦いの過程と、戦う姿の魅力が棋士の価値となっている。AI同士の戦いにこのような魅力はない。AI同士の戦いの方に惹かれるのは、将棋ソフトの開発者や関係者くらいだろう。AIの登場によって、棋士が自らの価値に改めて気づいたという面もあるように感じる。ファンが期待する、棋士のありようというものを自覚できた。将棋界の盛り上がりは、ファンからの期待を棋士が自覚し、実践した結果であり、それはAIのおかげとも考えられる。(もちろん、過去、多くの棋士たちが伝統文化の担い手として、ファン目線に立って様々な努力を重ねてきたことも無視できない。もし、棋士たちが単に「将棋の強さ」だけを追求してきていたら、AIに負けたことで存在意義を失っていたかもしれない。)
●人事は、AIとどう付き合うのか?
将棋界を見れば、AIは競争相手や脅威などではなく、人間にとって十分な利用価値がある共存可能な相手であり、また、私たちの視野を広げ、発想を豊かにしてくれるツールでもあり、さらに、人間としての存在価値やありようを明確にしてくれる存在である、と考えられる。であれば、人事という仕事においても、AIを上手に活用できれば、人間にとっては難解な、人材や組織に関する複雑な状況を読み解かせてみたり、採用・配置・評価・処遇などに関するこれまでの人事の常道とは異なる発想を得たりできるかもしれないし、その結果として、人事マンの真の存在価値というものが改めて発見できるかもしれない。
俯瞰してみれば、現在の日本企業の人事部には手詰まり感が見て取れる。トヨタのトップが最近「終身雇用は、もはや難しい」と口にしたように、長期・安定雇用をインセンティブにはできなくなってきた。長きにわたる経済の低迷や悲観的展望などによって、企業は賃金を抑制しつづけており、報酬をインセンティブにできない状況でもある。定年の延長は人の新陳代謝を遅らせるから、若年層の意欲を削ぎがちで、組織も活性化しにくい。長時間労働の是正は、給与(残業代)の減少に直結するためになかなか進まず、生産性の高い仕事によって就業後の生活を楽しめるような働き方は実現が容易ではなさそうだ。人手不足の中で退職者が出るのを防ごうとするから、実力や成果に基づくメリハリの利いた評価・処遇には及び腰にならざるを得ない。人事部としては組織活性を目指して自由で寛容な風土を作りたいが、「それよりもコンプライアンスだ」と経営や担当部門はルールを作り、監視・チェックを強化して邪魔をする。
人事部がこのような手詰まり状況を打破するために、AIの活用は一つの方法として期待できそうに思う。将棋界がそうであったように、その手があったか、という思わぬ視点や発想を提供してくれる可能性がある。ただしそのためには、2つの問題をクリアしなければならない。
一つ目は、「人事の目的は何か」を設定することである。将棋はルールが明快であり、「勝つ」ことが目的である。(プロ棋士はファン目線を大切にするので、単に勝つだけでなく、勝ち方や負け方にもこだわりがあるが。)一方、人事の目的は設定が容易ではない。もちろん「外部環境に対して組織と人材を最適化する」という人事部の使命はどの企業においても共通だが、具体的な目的は多様に設定が可能だ。どの上司にどの部下をつけるかと考えるとき、「軋轢を起こさない関係」という目的もありえるし、「互いを補い合える」「シナジーが起こる」「成果が出やすい」といった目的もありえる。どのような人材を採用するかと考えるときも、「当社になじむ」「当社にはいないタイプ」「当社にはない才能」「即戦力の実務家」「将来の幹部候補」などいろいろな目的の設定がありえる。目的の設定はAIにやらせることではなく、人間の役割だ。人事部の様々な仕事において、その目的は何なのかを明確にしないままでは、AIに何をさせればいいかが分からない。
二つ目は、人事データという曖昧かつ一面的な情報からAIが導いた回答と、どう付き合うかという問題である。将棋の指し手や局面はすべてデータ化が可能であり、そのデータにはモレがなく、そのデータ以外に勝負の結果を左右したものは存在しない。人事はそういう訳にはいかない。能力やパーソナリティについて適性検査などが表現する内容は、当たり前だが人間の一面であり一部分に過ぎない。異動歴・キャリア、人事考課の内容・結果、研修歴・学歴・資格・健康状態・家族、その他さまざまな人事情報を含めてデータは豊富だが、どこまでいってもモレがあり、曖昧な要素だらけである。組織や人事制度も何度か改定が行われているだろうから、昔のデータをどう捉えるかも難しい。このようなデータ状況で示された「次の一手」は、いくらAIが推奨するものであっても、モノやカネではなく人間を扱う責任やプレッシャーがある人事マンには、無責任な占いのように信用できないだろうし、それでは人事がAIと共存できるようにはならないだろう。
手詰まり感が漂う人事部が、AIの力を上手に活用していく際の課題は、まず、人事部の様々な仕事の「目的」を明らかにすることであり、次に、人事データの一面性と曖昧さを自覚したうえで、AIが導いた思わぬ回答とどう向き合うのかを検討しておくことである。
【つづく】