人事部の限界 〜人を動かすのは制度より空気である(【連載26】新しい「日本的人事論」)/川口 雅裕
ここ数年、オフィス改革が注目されている。「アクティビティ・ベース型ワークプレイス(ABW)」と言われるものが典型だ。フリーアドレスはデスクを固定せず、どのデスクでも仕事ができるようにするものだが、ABWはデスクが固定化していないだけではなく、オフィス内のスペースを多様化し、従業員は仕事の種類や時々の必要性に応じて、スペースを選んで働く。例えば、集中してモノを考えたいときは、ほかの人の会話や電話が耳に入ってこないような閉じた空間に身を移し、会議の時には関係者が明るく開放的なスペースに集まる。普通のデスクもあるが、立ったまま作業ができるハイデスクや、仮眠室・コーヒースペースなどもある。色合いなども工夫されており、リラックスして、明るい気分になれる。自由に働いている実感が生まれる。目的を持って動くので、それぞれのスペースに短時間しかいなくなって効率が上がり、各スペースを人が行き来することで、交流も生まれやすい。
私は人事を専門とする者として、ABWを見たとき敗北感を覚えた。人事的なアプローチでは、ルールや制度で人を動かそうとする。就業規則、評価制度などの処遇ルール、等級などに関わる役割規定などを作り、それらによって人を動機付け、秩序と活気ある職場を実現しようとする。しかしこれらは、なかなかうまくいかない。少なくとも、長期間の検討・調整が必要になるし、効果が表れるのもかなりの期間を要する。
ところが、ABWのような、物理的アプローチは容易に人の行動や感情を変えてしまうのである。簡単な例を言えば、会議時間の短縮というテーマにおける人事的アプローチは「資料を事前配布すること」「会議のゴールを設定すること」「遅刻厳禁・5分前終了を規則とする」といったものになるが、ABWのような物理的アプローチでは、何も言わなくても必要に応じてしか人は集まらないし、必要な人だけが参加して、話は盛り上がってすぐに終わっているように見える。生産性の向上、業務の効率化などと言われなくても、勝手にその方向に進んでいっているようである。
ABWは、オフィスを作っているのではない。よく見れば、ABWは働く人の意識を変え、職場の空気を変えているのが本質であると分かってくる。まず、自分の居場所はオフィス全体であるという意識になってくる。そこに集う人たち全員が仲間であるという感覚になる。仕事に合わせて自由に場所を選べばよいということは、どこで何をしようが本人の自由であるというメッセージである。このような働く人たちの意識変化は、職場の空気を明るく闊達にしていく。このような空気によって、発言が建設的になり、アイデアが生まれやすくなるから、成果や生産性とも無関係ではないだろう。
伝統的な日本のオフィスは、ABWとは発想が異なる。言うならば、「組織ベース型ワークプレイス」だろうか。部や課で「島型」を作り、組織長が皆を見渡せるところに座る。オープンスペースは少なく、ほかには会議室くらいしかない。昔のように、部署間に仕切りや壁があるような会社は減ったが、それでも他部署に入るときにはそうっと静かに入らければならないような見えない壁は、感じている人が多いだろう。深く思考したり集中して資料を作ったりしたいときも、デスクでやらねばならないから、電話や人の話し声が気になるし、話しかけられることも少なくない。他の人が仕事をしている邪魔になるから、ひそひそ声で業務連絡をしないといけないこともある。ちょっと集まって会話をする場所もないから、わざわざ会議室をとらなければならない。眠かったり、調子が出なかったりするときに息を抜くのも、デスクでパソコンに向かいながら行う。机や椅子や什器や家具などは、画一的で同じものが並び、オフィス全体に変化や面白みがない。
そこにある各々の意識は、属している組織への配慮であり、他部署への遠慮であり、縮こまったセクショナリズムであり、自由で闊達な空気とは程遠いものである。このような空気を何とか変えようと、人事部は人事的なアプローチで色々と試みるが、おのずと結果は見えている。制度だけでは、人は動かせないのである。
ダニエル・キムに「関係の質」理論というものがある。(成果を高めるには「行動の質」の変化が重要であり、「行動の質」を高めるには「思考の質」の向上が欠かせない。「思考の質」を高めるには、職場の人たちの「関係の質」に着目しなければならない。成果を出すには「関係の質」から出発せよ、という理論。)この、関係の質においても、オフィスは重要な要素である。もちろんこれまで、日本の企業でも、懇親会や運動会や社員旅行などの機会を作って、従業員同士の関係を良くしていこうという努力は行われてきたし、近年はこれらのイベントに注力する会社が増えているとも聞く。しかしそれらは、しんどさや辛さを忘れてハシャイでください、お疲れ様といった“慰安”の意味合いが濃い。悪くはないのだが、職場で仕事をしたり、対話や交流をしている中で関係の質が向上していくのに越したことはない。
従業員が活き活きと働き、全体として成果が上がっていく状態を作るには、どうすればよいか。昔ながらの、ニンジンをぶら下げて頑張らせるという手法に限界があるのは、多くの経営者・人事部が感じているだろう。だからこそ、様々な制度・ルールを作ったり、変えたりしてきたわけだが、それでもなかなか効果が出ない。それは、人事部の限界である。人は、特に日本人は空気で動く。では、どのようにして職場に良質な空気を作るか。その答のヒントはABWにあるのではないか。「組織ベース型ワークプレイス」をABW的な環境に変化させれば、そこから発せられるメッセージは働く人の意識や職場にある空気を大きく変えるかもしれない。これをきっかけにして、組織の活性化と成果の向上を目指す。制度やルールといった人事的アプローチから、オフィス改革のような物理的アプローチへの転換を図ること。人事を専門とする者として悔しくはあるが、十分に考慮に値する発想であると思っている。
【つづく】