純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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ミュージャンになろう、なんてやつ、やめとけ。いい曲なら売れる、などというわけがない。そうではなく、売ったから売れる、のだ。それも、親切で、文化のために、売ってやる、などというお人好しはいない。儲かるから売ってやる。それだけ。

彼らを「ヤクザ」とか、「マフィア」とかだと思っていると、油断する。「大物」、もしくは、「タイクーン(大君)」と言った方がいいかもしれない。この業界で有名なあの人が目をかけてくれた、ぼくたちには才能があるのかも、などと、勘違いしない方がいい。音楽は権利ビジネスで、ミュージシャンは投資「物」件だ。著作権などというのは、彼らの間での商売話。ミュージシャン本人には、そもそも人格が無い。奴隷。

カモは、掃いて捨てるほどいる。コンビニ経営者に応募が集まるのと同じ。アイドルは言うまでもない。お調子者のコミックバンドや勘違いしたヴィジュアル系。仲間内でちょっと人気というだけで、勘違いして、プロをめざす。だが、その程度では、いまの時代、商売にならない。親が芸能人で、すでにコネを持っていて、業界の義理で売り出してくれるのでもなければ、ムリ。でも、そうでないやつらでも、いまは国民的「アーティスト」だとよ。昔に遡れば、やつらになにがあったか、だれが売り出したか、裏の事情がわかる。

おいしいのは、「事故物件」。やつら、ろくに才能がないものだから、人の知らなそうな洋楽をパクり、自分の曲だ、と言って、シロウトの間で人気になるようなバカども。もともと売れる曲なのだから、やつらがやっても、うまく売れる。そして、むしろちょっと泳がしておいて、いい具合になったところで、海外の「弁護士」が、ものすごい英文書類の山とともに襲いかかる。バカな本人たちはもちろん、「自作」と騙された事務所やレコード会社、広告代理店にも手に負えない。そこで出てくるのが、大物。たいへんだなぁ、よし、その版権、ちょっとオレに預けてみんか、となる。へい、よろしく、とやったら、これで奴隷の一丁上がり。

一言で「版権」と言っても、ものすごくややこしい。作曲著作権、作詞著作権、編曲著作権、実演権、出版(録音・貸与)権、原盤権、頒布権、パブリシティ(雑誌やテレビの取材出演)権、興行権、などなど。それも、国別だったり、年限だったりが、いろいろ複雑に絡み合っている。法律としてあるんだかないんだかわからないものまで、利権としてさまざま。だから、タイクーンどうしが、かってにゴリ押しで決める。それも、他のミュージシャンとの抱き合わせやバーター(交換)などもあって、いよいよゴチャゴチャ。こういうことが、ミュージシャン本人の同意抜きにどんどん決まっていく。

海外で公演、って、それは海外で売れているからではない。タイクーンの持ち駒として向こうのタイクーンに貸し出され、ただ働きさせられているだけ。興行利益は、向こうのタイクーンのもの。おまけに、向こうのタイクーンも、このバカどもを便利な持ち駒にしようとする。有名人を集めたパーティなんかにも呼んで、おいこら、やってみ、で、披露し、薬漬け、女漬け、借金漬け。ヤバいスキャンダルを作れば、もう逆らえない。

そのうち、タイクーンの紹介で、ちょっとおっかない人が、すぐそばに貼り付く。恫喝と甘言を弄する見張り役。これがいよいよさらに本人たちを堕落させ、依存させる。生かさぬよう、殺さぬよう、と家康のように。(フレディやブライアン、マイケルが潰れたのも、こういう人たちの「おかげ」。)そして、本人たちに、その周辺にも「事故物件」を開拓させる。薬や女、借金で同業者や業界人を釣って、タイクーンの勢力拡大に寄与。さらには、海外に行ったり来たりで、スマグラー(運び屋)をやらせる。それでも、タイクーン本人は、絶対に手を汚さないし、関与もしない。債務者が捕まる危険のある詐欺の受け子をやらされるのと同じしくみ。

堕落は投資。負い目のある「事故物件」は、多ければ多いほど、持ち駒、捨て駒として複雑に組み合わせて使える。薬物には被害者が無い、などというアホだか、同類だかが湧いて出てくるが、薬は銃と同じ。置きもの、飾りものではない。打つためにある。自殺か他殺かの違いだけ。それも、投資として有力な同業者や業界人にはタダでばらまくから、引っかかるバカが続々と出て、どんどん拡がる。 その場でいっしょにやらなくても、これでほんとは数万円分だよ、でも、友情のあかしとしてとくべつにタダで上げるから、持って帰んなよ、と、親切めかしてポケットにねじこめば、モノがモノだけに、そうそうそこらで捨てられまい。かといって、持ち歩くわけにもいかない。というわけで、あとでひとりで好奇心で吸い込み、悪いお友だち仲間の泥沼へずぶずぶ。

本人が逮捕されようと、癈人になろうと、業界のなぁなぁでうやむやにして、作品からカネが入れば、それでいい。どうせ本人には、これまで以上のものなど作れやしないし、そもそも最初からパクリで作ってもいない。そのパクリの責任は本人におっかぶせ、とにかくイッチョカミすれば、タイクーンのふところにカネが転がり込む。それも、創作が好き、というより、アーティストの肩書で有名になりたいだけのワナビ−のバカだらけ。舞台をパクって映画にするとか、小説をパクってマンガにするとか、ちかごろは、そんな事故物件がいっぱい。

ほかにもまだヤバい連中がいるから、みんなきれいごとばかり言うが、このビジネスモデルは、歴史的にかなり根深い。タイクーンは、自分の手を汚しておらず、法律も及ばない。古顔が去っても、同じようなのがまた始める。そもそも、タイクーンは、表舞台にはまず出てこない。このことがまた、連中のオーラをより大きく見せる。

この状況を打破するには、事故物件は投資にならない、という現実を確立すること。つまり、「汚染」された作品の販売を潰すしかあるまい。作品に罪はない、とか言うのは、たいてい本人も怪しい事故物件、タイクーンの持ち駒。個人が聞くのはかってだが、そんなヤバいのを売らないのも、業界の自由。食品でも、素材のどれかひとつに「毒」が入ったら、販売停止、商品回収は当然。自動車や電気製品でも、同じ。それどころか、かつての総会屋問題同様、業界がコンプライアンスとして連中と手を切るためにも、決然とした態度を崩してはなるまい。まあ、なんにしても、この業界、とうぶんまだ、こんな調子だから、プロのミュージシャンになるのは、やめとけ。


参考: 純丘曜彰「日本経済と暴力団」

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学、『百朝一考:第一巻・第二巻』などがある。)