男子校・女子校は男女共同参画の趣旨に反する?(写真:kikuo / PIXTA)

なぜ東大ランキング上位には男女別学校が多いのか

2018年の高校別東大合格者ランキングの上位20校のうち75%は男子校か女子校である。因果関係は別として、結果として男女別学校の生徒の学力が高い傾向にあることは、日本だけでなく海外でも多数報告されている。

少なくとも日本において、考えられる理由は2つ。1つは、もともと名門校と呼ばれるような学校に男子校・女子校が多いこと。もう1つは男子校・女子校という教育環境に、それぞれの性の能力を引き出す力があること。

拙著『開成・灘・麻布・東大寺・武蔵は転ばせて伸ばす』でも触れているが、戦前まで、小学校を卒業するとその先はすべての学校が原則的に男女別学校だった。戦後、GHQの指導の下、共学化が進められた。ただし、GHQの指導がゆるかった東日本の一部の地域では男女別学校が存続した。また、私学においてはGHQの指導の対象外だったので、その多くが男女別学を存続した。

自分たちの学校の教育と歴史に誇りをもっている学校は、戦後も男子校・女子校であり続けたのである。そのような学校は、もともと戦前から学力の高い生徒が集まる学校だったのかもしれない。

しかし昨今、男女共同参画社会意識の高まりと、少子化の影響が相まって、共学化する男子校・女子校が増えている。2017年度文部科学省の学校基本調査によると、全国の高校の数は4907。そのうち男子のみが在籍する学校は109校、女子のみいる学校は306校しかない。

割合にすると男子校2.2%、女子校6.2%。1970年代には、全国の高校の数は約5000で今と大きく変わらないのに、男子のみの学校が450近く、女子のみの学校が750近くあったことを考えると、ともに激減だ。

男子校・女子校の卒業生はいまや絶滅危惧種といってもいい。

もう1つの理由として、男子校・女子校という環境に、それぞれの性を効率的に伸ばす積極的な要因があるのだろうか。

この点についてはアメリカで大論争があった。

男と女は先天的に違うとして、男女別学を強く推進したのが小児科医で心理学者のレナード・サックス博士だった。男女の脳の組織的・機能的な違いから、男女それぞれにとって効果的な学習法は違うと主張した。

それに「ちょっと待った」をかけたのが神経科学者のリーズ・エリオット博士。エリオット博士は、性差があることは認めたうえで、それが脳の構造によって先天的にもたらされるわけではないと主張した。また「男女別学が優れていることを決定的に示す証拠は存在しない」として、むやみに男女別学校を推進しない立場を表明している。

しかしエリオット博士も、「今すぐ、男の子のために手を打たなければいけないのは明らか」「学校は男の子にとって以前より過ごしにくい場所になっている。教師や親は男子特有の長所短所を知り、有効とされる教授法を踏まえたうえで指導すべき」「特に、男女が発達期に互いに距離を置き、保護される時期をつくることはよいかもしれないという考えには説得力がある」と訴えている。

「社会の縮図」の中で再生産される男女不平等

俗に「男脳」「女脳」という脳の先天的な構造の違いをことさら強調するのは危険だと私自身は思う。しかし集団としてみた場合、男の子ばかりの集団と女の子ばかりの集団とではふるまいが違うことが顕著にわかる事例がある。運動会だ。

男子校の運動会では例外なく、学年を縦に割ったチーム対抗戦の形式だ。中高一貫校であれば、中1から高3が同じチームとなり、先輩が後輩を指導して、勝利を目指す。共学校でも同様であるはず。一方、多くの女子校の運動会は、学年対抗で競われる。よほどの番狂わせがない限り、高3が優勝する。

女子校出身でないと、そんな勝負の何が面白いのかと思うかもしれない。しかし、女子校の生徒たちに聞くと、縦割りのほうが面白くないのだそうだ。

運動会において、女子は勝つこと自体に喜びを見出すのではなく、チームの団結力を高めること自体に喜びを見出すからだそうだ。また、先輩たちからあれこれ指示されるのも嫌。

このことから導き出せる仮説は、「男子は命令系統によって縦型の組織をつくるのが好きだが、女子は共感によってフラットな組織をつくるのが好き」。

蛇足になるが、そう考えると世の夫婦によくある葛藤も説明が付く。「女性は察してほしいと思うが、男ははっきり指示してほしい」。お互いに甘えているわけではなくて、得意なコミュニケーションの方法がそもそも違うかもしれないのだ。

男子も女子もいる中で、男性であることや女性であることにかかわらず、それぞれの個性に応じた教育を受けられることが理想なのかもしれない。しかし、その方法が明確でない場合、男女共学の環境では、むしろ世の中のジェンダー意識がそのまま再生産されてしまう危険性がある。

たとえば男子校の野球部では、女子のマネジャーがおにぎりを結んでくれたり、洗濯してくれたりなどということはありえない。全部自分たちでやらなければならない。逆に女子校の文化祭では、重い荷物を運んだり、大道具を組み立てたりということも、男手に頼らず女子のみでやり遂げる。男子校・女子校の中には「男の役割」「女の役割」という性差の概念がない。

逆に共学校の教室の中には男女両方がいるからこそ、大人たちの社会の性的役割意識がそのまま入り込んでしまう危険性がある。異性の目を気にすることで、まったくの無意識のうちに「男らしさ」とか「女らしさ」にとらわれてしまうというリスクもある。共学の教室の方が、“現状の男女不平等社会に自然に適合するという意味で合理的”なのかもしれないのだ。

「共学のパラドクス」

これは「共学のパラドクス」である。現実社会が男女共同参画社会になっているのなら、共学校の教室の中でもその価値観の再生産が行われるだろうが、現実社会に性差別が横行しているのだとしたら、共学校の教室は男女共同参画社会を推進するうえで足かせにもなりかねないのだ。

実際海外では、男女別学校の出身者のほうが、その後の進路を性別に左右されにくいという研究結果も複数報告されている。

もちろん共学のメリットもある。男女がお互いの長所を知り、弱点を補い合うことができる。たとえば女子がコツコツを日々の勉強を頑張る姿を見て、瞬発力勝負になりがちな男子も少しはコツコツと勉強する習慣が付くという効果がある。逆に大学受験直前にものすごい集中力で追い込みをかける男子生徒の様子を見て、女子も追い込みのペースを上げるという効果もある。

また、女性にとって「産む選択」にはタイムリミットがある。女子たちは、中高生のうちから現実的に10年後、20年後の自分を思い描いているものだ。そのことが男子校にいるとわからない。その点、共学校の教室の中では、女子がどんなライフプランを思い描いているのかを、男子も間近でなんとなく感じることができる。逆に言えば、ここは男子校という環境のデメリットであろうと思う。

さらに、共学校であっても、男子だけの部活、女子だけの部活など、男女をわけて活動する機会があれば、男女別学校の空気を部分的に経験することはできるが、その逆はない。

男子校も女子校も共学校も選べる自由が大切

結論を言えば、おおかたの子どもたちは、男女別学校に行こうが共学校に行こうが大きな差にはならないと私は思う。どちらにもうまく適応し、それぞれの環境で学ぶべきことを学び、どちらの道を通ったとしても最終的には「その人らしく」育つはずだと信じている。


しかし中には、共学という環境が合わない男の子、女の子というのもいるのではないだろうか。男子校という環境でこそ伸びやすい子、女子校という環境でこそ伸びやすい子、共学校という環境でこそ伸びやすい子もいるのではないか。それこそ個人差だ。

以上の観点から、現時点での現実的な教育環境としては、男女別学か共学かという議論ではなく、男子校も女子校も共学校も選べる教育の多様性を担保することが大事なのではないかと思う。

とはいえ男子校文化も女子校文化も風前の灯火であることは先述の通り。これ以上減らせないのではないだろうか。「男子校・女子校は男女共同参画の趣旨に反するから禁止すべき」という主張こそ、教育の多様性を損なうという矛盾を無視することはできまい。