冬季オリンピックから、哲学者の筆者が感じたことを今回はお伝えします(写真:simonkr/iStock)

冬季オリンピックも終わりました。私は、全然熱心な観戦者ではないのですが、いろいろ考えさせられることもあります。第一に、なぜ人はこれほど「戦いたい」のか、ということ、そして第二に、なぜこれほど「勝ちたい」のかということです。よく考えてみれば、生活の基本にほとんど必要のないこと(メダル)を目指して、それこそ命を懸けるのか、ということ。これは、芸術にしても学問にしても同じかもしれませんが。

4回転ジャンプに失敗しても死にはしない

本当の戦争なら、わからないこともない。それこそ勝ち負けは生死を決することだからですが、4回転ジャンプができなくても、スキーのジャンプで長い距離を飛べなくても、明日から生きられないわけではない、殺されるわけではない。


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しかし、なぜか人はそういう状況に置かれると、それが人生の絶対的な価値となってしまう。その理由は、私にもわからず、たぶん本人に聞いてもわからないと思いますが、哲学者らしく(?)ここ30年間考えていることです(参考:拙著『人生を〈半分〉降りる』ちくま文庫)。

私は、どうも勝つことは醜いと思っており、勝つと自責の念に打ちひしがれ、といって負けたくもなく、いつも勝って「かつ」負けたいと思っている。そのせいか、私の人生はまさに勝ちつつ負け、負けつつ勝ってきた感があります。さて、すべての選手が血のにじむような努力を重ね、その結果、勝った者は、その勝利がかなりの度合い「運」によっていることを知っているからこそ、とても謙虚になる。これは、感動的なことです。

しかし、視点を変えれば、敗者もこのすべてを知っているのですが、(勝者は「運がよかったんです」と言っていいけれど)敗者は、「運が悪かったんです」と言ってはいけないことも知っている。しかも、「運がよかった」と語る勝者は、さらに賞賛され、もし敗者が「運が悪かった」と語れば、さらに蔑まれる、私はテレビ画面を見ながら、いつもこの残酷さをかみしめています。

テレビに出て語ることが要求されるのは、勝者のみであり、敗者は徹底的に言葉を奪われる。この連載では、このところ「言葉」をめぐって問題を提起していますが、以上の問題を、もう少し言葉につなげてみましょう。オリンピックはどう考えても、国家間の一種の戦争であり、だからこそ、これほど「盛り上がる」のだと思いますが、本当の戦争同様、言葉が粗雑になっていくことが気になる。

戦争に突入した国家では、反戦運動は鎮圧され、反戦的言論も弾圧されるのが普通です。そして、「欲しがりません、勝つまでは」とか「一億玉砕」という単純なスローガンが刷り込まれる。戦争は、人命を殺すのみならず、言葉を殺す。言語の繊細なはたらき、その繊細な感受性を殺すのです。

五輪実況で飛び交う粗雑な言葉

同様に、オリンピックの報道では、リポーターの大ざっぱな(不正確な)言論が飛び交う。たとえば、スキーの女子ジャンプで銅メダルを獲得した高梨選手の快挙を報道したあるリポーターは「日本中のすべての人に勇気を与えてくれました」と絶叫していましたが、私は彼女が銅メダルをとっても「勇気をもらった」おぼえはありません。フィギュアスケートで羽生選手が金メダルを取ったときも、「日本中が喜びに浸っている」と報道されましたが、端的に誤りです(少なくとも、私はそうではありませんでしたから)。

そして、こういう「あたりまえ」のことを言うだけで、ひどく偏屈に思われてしまうというのもヘンなこと。私はただそれほど関心がないだけであり、先に述べたように勝者に対して一定の「思想」がありますので、「勇気をもらう」こともなく、「喜びに浸る」わけでもないだけです。

哲学は「言葉」だけが武器ですし、それを錆びないように絶えず研ぎ澄ましていなければならない。そして、私がこの言い方も気に入らない、あの言い方も気に入らないと訴えると、「そんなに目くじら立てずに、さらっと聞き流せば」と助言してくれる人が多いのですが、そうはできない。「みんな」と同じ言葉遣いを受け入れてしまうこと、それこそ哲学の「安楽死」だと確信しています。

もちろん、ただちに気に入らない言葉遣いの主に向かって攻撃を開始するわけではない。しかし、四六時中、念入りにチェックすることだけは怠らないのです。私は、20年前に人生を<半分>降り、10年前に「哲学塾」を開き、翌年大学を辞めたのですが、その最も大きな理由は、この「言葉」の問題と言っていいでしょう。

組織では、定型的な言葉を使わなくてはならず、結婚式や葬式をはじめ、ひんしゅくを買う言葉を使うことは禁じられているし、沈黙さえ許されない。そこで、大げさに言えば、哲学を続けるか否かの瀬戸際まで追いつめられ、「世間語」の蔓延する社会(世間)から脱退することにし、本当に思っていることしか語らなくていい場としての「哲学塾」を作ったのです。

ここで、何回かこの連載でテーマに取り上げた日本中に流れる機械(テープ)音、すなわち、「エスカレータにお乗りの際は……」などの注意、依頼、警告、宣伝「音」の問題に触れてみます。これが身震いするほど嫌いなことは、なかなかわかってもらえないし、最近ではもうわかってもらえることさえ期待しなくなった。

と、こうしているうちに、最近、最寄りのスーパ-にセルフ・レジという機械が導入された。人間ではなく機械が精算するのですが、そしてそれは一向にかまわないのですが精算のたびごとに「精算方法をお選びください、現金をお取りください、お釣りとレシートをお取りください」という機械音が流れる。しかも10レーン以上あるレジから同じ音が響き合いまじり合い、生きた心地がしなかった……のですが、みんな平然としている。

私は本社に「スーパーはリピーターが多いので、1度操作すればわかることだから、ある期間が過ぎたら音を止めてほしい」と要望する長い手紙を書きましたが、丁寧な拒絶の返事がきました。

いいでしょうか? 私が問題にしているのは「騒音」ではないのです。わかっていることを、しかも定型的な音と同じ文句で繰り返し言われたくないのです。これは、銀行のATMでも、他のところでも同じ、なんでほとんどの同胞が「いらっしゃいませ、毎度ありがとうございます、現金をお取りください、ありがとうございました」と言われて何ともないのか、わかりません。

認められない「知りたくない権利」もある

生命倫理に「知りたくない権利、あるいは知らずにいる権利(the right not to know)」という概念があります。自分のDNA構造が将来解明され、そこから自分が致命的な病にかかる確率が高いこと、しかも防ぎようがないこと、すなわちかなりの確率で短命なことがわかるかもしれない。しかし、それを強制的に知らされたくはない、そうかもしれないが、知らずにいたい、という、合理的な権利です。

最近は、これを、日本中に流れる「音」の問題にも適用できないものかと考えている。私の自宅から仕事場(哲学塾)までは私鉄で6駅ありますが、「駆け込み乗車はおやめ下さい」という「音」が各駅で2回ずつ、よって往復24回聞かねばならない。でも、私は注意されたくない、「知らされたくない」のです。しかし、ここで「知りたくない権利」は認められそうもない。というのも、ほとんどの人はこれが「なんともない」のですから。つまり、ほとんどの「なんともない人」に支えられた電鉄会社に、私の苦痛を訴えても勝つ見込みはないのです。

しかし、私が知るかぎり、欧米にはこういう「音」は皆無です。とすると、この点で、日本人の感受性と彼らの感受性とのあいだには、じつは考えられないほどの隔たりがあるに違いない、こう考えて、30年研究しているわけですが、いくつかヒントは探り当てました。その1つとして、日本人は、言葉から意味の伝達をあまり期待しないということがある。床の間に意味が解らない(読めない)掛け軸を掛けていても平然としているし、まったく意味の解らないお経を延々と聞かされても異議を唱えない。

源氏物語絵巻を西洋人に見せると、そこに書かれている文字の背後に絵が描かれているわけですが、文字を読みたいのでその絵が邪魔だという苦情が少なくないと聞いたことがある。彼らは、文字が書かれているからには、その意味を知りたいのですが、わが同胞は文字の意味などどうでもよく、流れるような仮名が流麗な絵に溶け込むさまを鑑賞するだけで満足するようです。

こうして、言葉の意味を問うことがないからこそ、街中の「〜〜〜に注意しましょう! 〜〜するのはやめましょう!」という人をバカにしたような注意放送が何度鼓膜をたたいても「気にならない」。大部分の日本人は音を「のみ込んでしまう」高度な技術を体得しているのでしょうか? 不思議でなりません。