矢貫隆(やぬき たかし)さん。肩書は「フリーライター」「交通問題ジャーナリスト」を経て、今は「ノンフィクション作家」としている。ただ、ペン一本で食べていることに変わりはない(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第26回。

食えようが食えまいが、やりたいんだからしょうがない

フリーランスライターやフリージャーナリストという職業は何年続けられるものだろうか?


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筆者の周りには10年選手や20年選手がたくさんいるが、自営一貫ペン一本で30年以上食べている人となると相当限られてくる。それより先の領域は霞(かすみ)がかってよく見えない。経済面や健康面、モチベーションの問題を抱えてキャリアを閉じたり、ヘッドハンティングや起業で本業が変わったりと、さまざまな事情から途中で道を違えるケースのほうが圧倒的に多いように感じる。

それでも、濃い霞の先でキャリアを重ねている人はいる。今回お話を伺った矢貫隆さん(66歳)は30歳手前でフリーライターとしての名刺を作り、現在もなお取材と執筆に精を出しているこの道のエキスパートだ。

職歴はまもなく40年。1980年代に交通問題ジャーナリストとして注目を集め、黎明期の救急医療の現場を取材する過程で執筆分野を広げていき、自殺未遂で救命救急センターに運ばれてきた人々や難病に苦しむ子どもたちのルポルタージュでも功績を挙げてきた。

最近も都合3年以上かけてタクシー運転手の潜入取材を敢行し、月刊誌への寄稿や新書の執筆など多くのアウトプットを残している。途中で国際救命救急協会理事を務めたりもしたが、取材記事を主収入にするスタンスはずっと変わらない。

矢貫さんはなぜ、この一本道を歩み続けることができているのか。

天性のものか戦略によるものかといったら、間違いなく前者だという。

「半年後に食べていけているのかって不安で寝られなくなることはよくありましたよ。でも、食えようが食えまいが、これやりたいんだからしょうがないっていう話でね」

現在の拠点の近所だという東京都板橋区の高島平の古びた喫茶店。そこで矢貫さんは記憶を手繰り寄せながら、飄々(ひょうひょう)と半生を語ってくれた。

矢貫さんが生まれたのは1951年の栃木県。まもなく東京都北区の堀船に移り、両親と妹の4人で暮らした。子どもの頃の記憶はあまりないが、とにかく目立つのが嫌な子どもだったことは覚えているという。中学校までは大勢の同級生と同じように野球に熱中し、高校では陸上部に入ったがすぐに腰を痛めて引退した。勉強も好きではなく、学業で注目を集める心配はなかった。ヘンに目立たず、普通であればいい。

大学受験に際して、親の仕送りを一切受けず授業料も生活費も自分で賄おうと考えたのも、18歳によくある自立心の高まりによるものといえばそうだ。少なくとも家庭環境や経済的な事情から決めたことではなかった。「僕らの年代では全部自分で稼ぐっていう学生は珍しくなかった。自分もそういう感じで大学に行こうかなと。ただそれだけのことでしたよ」。

学力的に国立大学はターゲット外。入学金と授業料がなるべく安くて、学生がありつけるバイトが近場にたくさんありそうな私立大学を片っ端から調べた。そうして絞り込んだのが京都にある龍谷大学であり、ここでの生活が矢貫さんの人生を決する。

1浪の後に入学した1971年は学生運動が激しかった最後の年で、キャンパスは「校舎の屋上から机がバンバン落ちてくるような」騒然とした空気に包まれていた。1年後期に全面ロックアウト(閉鎖)となり留年を余儀なくされたこともあり、大学には都合6年間通うことになる。

学生運動には特に反感も興味も抱かず、矢貫さんの関心は授業料と生活費を稼ぐことに向けられていた。最初のうちは修学旅行の生徒たちが泊まる旅館で布団敷きのバイトによって生計を立てていたが、早朝と夜に精いっぱい働いて日給1700円だった。タクシーの初乗り運賃が120円の時代ではあるが、これでは余裕のある暮らしはやってこない。

当時は勘違いしてタクシー運転手になるヤツが多かった

そこで目を付けたのがタクシーの運転手だ。運転手になるには、普通(一種)免許取得から3年以上経過していないと取れない普通二種免許が必要だが、1浪や留年のおかげもあって矢貫さんは大学の3年次に取得できた。そのままタクシー会社に雇用され、当時京都では2人しかいなかったといわれる学生タクシー運転手のうちの1人となる。

社員雇用のタクシー運転手は出勤してタクシーに乗り込むと、時間帯や曜日、天候などさまざまな情報を考えて己の裁量で市街地を走ることになる。給料は歩合制が一般的で、人並みに仕事をしていれば水揚げの6割ほどが運転手の取り分になった。

「僕も含めて、当時は勘違いしてタクシー運転手になったヤツが多かったですよ。運転が好きで気ままだからやるっていうね。でもそうじゃない。コツコツと務められる人じゃないとちゃんとは稼げないんですよ」

それでも、そこそこまじめに働けば月収は新卒のサラリーマンの初任給より多かった。学生に必要な額にはすぐに届くようになり、手の抜き方もすぐに覚えた。「今日は一生懸命やって、明日はシフトを入れずに遊びに行こう。その次も。みたいなことができちゃう。大学もあまり行かなくなったし、もうぬるま湯ですよ(笑)」

あまりの心地のよさに大学を卒業してからも勤務していたが、1年近く経った頃にこのままではいけないと退職を決意する。さまざまな理由があった。実は高校時代から付き合っていた同郷の女性と学生結婚していたこと、「40〜50歳になってこの生活はできないな」と常々思っていたこと、いずれは物書きで食べていこうと漠然と考えるようになっていたこと、だ。

とはいえ、明確なビジョンを描いているわけではなかったので、夫婦で帰京後もしばらくは実家の近くのアパートで暮らしながら、失業保険で食いつないでブラブラしていた。すると地元の友達から運送業を手伝ってくれと誘いがきたので、今度は長距離輸送のトラック運転手として全国を回るようになる。

「当時は普通免許で4トントラックまで乗れたので、すぐ始められましたね」

長距離トラックの仕事は体力的にきつかったが、乗客や乗車率などに気を遣わなくていいぶん精神的には楽だった。ずっと続けていられそうだったし、実際2年の月日があっという間に過ぎた。しかし、1970年代とともに20代も終わりに近づいてきている。このままじゃいけない。そう、物書きにならなければ。ここでようやく出版社への就職活動を始める。

物書きになりたいという思いはタクシー運転手時代に感じた憤りからきている。当時は2年に1回程度のペースでタクシー運賃が値上げされたが、そのぶん歩合が下がったために、乗り控えの逆風もあって運転手の取り分はむしろ低くなっていた。しかし、外部にはそんな事情は伝わらない。乗客からは高い運賃とりやがってと文句を言われ、新聞を読んでも運転手の境遇に同情する論調はまったくなかった。

タクシー運転手という職業の社会的な信用も低く、アパートが借りられなかったり信販でモノが買えなかったりということが普通にあった。「大学行ってんだし、早く足洗って運輸大臣になって俺らを助けてくれよ」――業務を終えて会社でその日の売り上げを精算しているとき、先輩ドライバーからそんな冗談をよく言われた。

「まあ運輸大臣は無理だけど、同学年の村上龍が『限りなく透明に近いブルー』で(1976年の)芥川賞を取った頃でもあったし、物書きになって訴えるという手もあるなと思ったんですよ」

ライターとしての初年度の年収は12万円

しかし、経験も実績もない人間を雇ってくれる出版社はどうにも見つからない。大手から中堅、零細へと狙いを変えていったが、相手にされない結果は変わらなかった。ならばフリーライターでやるしかない。友達の会社はすでに退職していたため、白トラ(※白ナンバートラック。営業ナンバーを持たない、いわゆるもぐりのトラック)の会社でトラックを転がして生活費を稼ぎながら、自前の名刺を持ってもう一度就活をやり直した。自らの職歴を振り返り、狙うは自動車関連の媒体だと照準を定める。そうして何十という雑誌編集部を巡るうち、ようやくかすかな光が差してきた。

自動車雑誌『CARトップ』(交通タイムス社)は、埋まらなかった広告枠や何らかの事情で空いてしまったスペースに“埋め草”の記事を書く仕事を与えてくれた。全日本トラック協会の機関紙『広報とらっく』はさすがに白トラ経験者に枠を作りはしなかったが、別の業界新聞を紹介してくれた。その業界新聞では先輩記者の取材に同行する仕事などを通して、大きな知見をもらうことになる。初年度のライターとしての年収は12万円。白トラの稼ぎなしにはやっていけない。しかし、確実にスタートラインの先に進むことができた。

署名入りの原稿が書けるようになったのは30歳を超えた頃だ。高速道路用のレッカー車を長く取材しているとき、この内容なら一般誌でも受けるのではないかと思った。当時は交通事故死者数が増加している時期(第2次交通戦争)で、生々しい事故のエピソードは社会一般の関心を引くはず。そこで当時100万部規模だった『週刊プレイボーイ』に原稿を持ち込んだところ、案の定の反応が返ってきた。

「もう下手くそな原稿でね。だけど、内容は面白いということで、データとして使ってもらえることになったんですよ。(最終的な文章を仕上げる)アンカーマンの人が見違えるような記事にしてくれて、署名欄に僕の名前も載せてくれて。そういうところに載ると、またメジャーなところにいける道ができるわけですよ」

いつしか交通問題の草分けに

矢貫さんの駆け出し時代である1980年代前半は雑誌の創刊が多く、キャリアの成長とともに活躍できる場はどんどん増えていった。『CARトップ』で付き合いのあった編集者が創刊する自動車雑誌で冠連載をもらえるなどの幸運にも恵まれ、いつしか1カ月で10回取材して記事に仕上げるような多忙な身となっていた。

「トラックと普通自動車じゃ死角が違うとか、子どもと大人の感覚は違うから交通安全はこうしたほうがいいとか、そういうテーマを好きに書かせてもらって楽しかったですね。今では当たり前になっていることでも当時はまだわかっていないことがたくさんありましたから」

いつしか交通問題の草分けとして知られるようになり、署名記事がメジャー誌に載るのが当たり前になっていった。もう書く場所に困ることはない。知的好奇心を刺激するテーマにも事欠かなかった。

特に引かれたのは救急医療の世界だ。当時の日本はまだ黎明期で、ごく一部の病院しか救命救急センターがない状態だった。取材で医者と話すときも「救急医療って何?」と逆質問が返ってくることさえあったという。この未知の世界を深く知りたい。矢貫さんは1985年から3年間、日本医大の救命救急センターに泊まり込んで現場取材を敢行する。どこかの編集部としてではなく、矢貫さん個人として医大の許可を取り付けた。

「他の取材があるときだけ出掛けて、終わったら病院に戻ってオペ着に着替えていました。何かあったらすぐに駆けつけられるようにして、何もなければ持ち込んだワープロで原稿を書いたり、医局のソファで寝たりしていましたね。端からは医者に見えたでしょう(笑)」

寝床が落ち着かない問題はあったものの、ほかの仕事はこれまでどおりに続けていたので経済的な問題はあまり大きくなかった。モチベーションはいうに及ばず。センターにいる間のすべてが取材対象で、状況は日々ダイナミックに変わる。ライバルの書き手が誰もいないブルーオーシャンを自由に泳ぎ回れる権利が与えられたようなものだ。


『救えたはずの生命(いのち)――救命救急センターの10000時間』。矢貫さんの業界知名度をグンと押し上げた作品となった(筆者撮影)

このときの取材を基にした書籍『救えたはずの生命(いのち)――救命救急センターの10000時間』(平凡社、1989年)は、救急医療界隈で知らない人はいないといわれたほどのヒットを記録する。

また、取材テーマの拡大にもつながったのは冒頭に書いたとおり。とりわけ、自殺を企図した人の心理への探究は、1989年から1990年にかけて改めて医療機関に泊まり込み取材するほど熱心に取り組んだ。きっかけは包丁が腹部に刺さった状態で救命救急センターに運ばれてきた暴走族の少年だった。仕事でのストレスと同棲中の彼女とのいざこざが募った末の行為だったという。


自殺未遂の患者に話しかけるには毎回勇気がいった。しかし、話しだしたら「なれなれしくしたほうがいいか、きちんとしたほうがいいかはすぐわかる。そういう才能はあるのかもしれません」という(筆者撮影)

「集中治療室で医者になんで自分の腹を刺したのか淡々と話しているとき、突然号泣して。『死ぬしかないと思った。だけど、もう絶対やらない』って医者の手を握りしめたんですよ。その場にいて、あ、これは本当に繰り返さないんだろうなと思えて。同時に、自殺のとらえ方について疑問も生じたんですよ。それまでは『自ら死にたいっていう人はわざわざ助けなくてもいいんじゃないの?』と思っていたんですけど、どうも本当に死にたくて自殺図っているんじゃないらしいと。なら、本格的に見てみようかなとなりました」

僕はずっと人間のクズって言われていました(笑)

決死で自傷して生還した約20人に丹念に話を聞き込み、『自殺―生き残りの証言』(文藝春秋)を上梓したのは1995年のこと。当事者の口から語られる、自殺に踏み切る際の衝動性の大きさや心の揺らぎが話題を呼び、こちらもヒットを記録する。


『自殺―生き残りの証言』。極力感情を入れずに、「写真を撮ったみたいに文章にしていく」ことを意識して書いたという(筆者撮影)

このとき年齢は44歳で、キャリアは15年強。年収は1000万円を優に超え、2000万円台に乗ったときもあった。見事な成功譚といえる。ただ一方で、自由すぎる職歴と取材スタイルはまるで単身者と錯覚してしまう。家族とはどう付き合っていたのだろうか。

実家からの目は温かいものではなかったという。

「父親は絵に描いたようなサラリーマンで、きちっとした社会人であるべきと考えるタイプだったから、僕はずっと人間のクズって言われていました(笑)」

ある日たまたま実家に寄ったときに父が「隆、まだ就職決まらないんだよ」と電話口で祖母に愚痴っていたのを聞いてしまったことがある。フリーライターは職業とすら思われていなかった。強引な就職の斡旋などはなかったが、生き方を肯定されたのは何冊も著作を出したずっと後のことになる。

妻は一切何も言わなかったという。帰京してブラブラしていたときも救命救急センターに泊まり込んでいたときも自由にさせてくれて、長男が生まれた後も態度は変わらなかった。

「まあ、応援というか、『この人に何言ってもしょうがない』とあきらめていたんだと思います。結婚したときはこんな人間だって思っていなかったんじゃないかな。だって、自分でも自分は普通に大学出て、就職して、会社勤めするもんだと思っていましたから」

妻に対する見方は多少の自嘲や謙遜が入っているのかもしれない。ただ、自分で自分をわかっていなかったのは確かなようだ。「今振り返ればだけど、安定とかは全然考えたことがなかったですね」。

将来の不安定さを抑える手を打って盤石な道を伸ばしていくよりも、知的好奇心を刺激することを考えたほうが断然モチベーションが上がった。交通問題や救急医療、自殺の心理などを探っていく際も、「知りたい」「伝えたい」という純粋な感情が第一優先。日常生活の維持や功名心みたいなものは、あったとしても優先順位は確実に下だった。

奥さんを巻き込んでしまって申し訳なかった

バラバラの点としての事実が取材を重ねていくうちに線や面になって、抱いていたモヤモヤや疑問が解消されていく――その過程が何よりも自分をワクワクさせる。その性分を自覚したのはライターになってずいぶん経ってからのことだったという。


物欲は昔からあまりなく、おカネの管理は今も昔も奥さんに任せっきり。ただ、全盛期には都内の高級マンションに事務所を構え、そこのラウンジに編集者を呼んで価格交渉するなど、プロのとして収入を高める努力は怠らなかった(筆者撮影)

「だから本当、奥さんを巻き込んでしまって申し訳なかったですよ。こういう人間だとわかっていたら結婚とかして迷惑をかけなかったと思う。この仕事って、生活安定のための手段としてやっているわけじゃなくて、コレがやりたいからやっているわけでしょ。将来がどうなろうが、食えようが食えますが、それやりたいんだからしょうがない。そういうふうに思う人じゃないとこんな不安定な仕事、続けられないじゃないですか」

売れっ子になった後も、夜中にふと「半年後は食べていけているんだろうか」と不安に襲われて眠れなくなることは日常茶飯事だった。矢貫さんはこれを「恐怖のマグマ」と表現する。

「年収が1000万円2000万円超えようが、『この連載はあと2年続くな。じゃあその後どうなる?』みたいな感じで恐怖は全然消えてくれない。最近は人生の終わりが見えてきたからようやく少しは落ち着いてきたけど、20年経っても30年経ってもマグマの量は変わらなかったですからね」

恐怖のマグマは消えないし、周囲に迷惑をかける可能性もある。それでも知的好奇心を優先できる性分だからこそ手に入れられたキャリアなのかもしれない。

ただ、フリーライター、あるいはノンフィクション作家として成功しても、原点の目標であるタクシー運転手の窮状を世に訴えるという仕事はまだ成し遂げていなかった。ついに動き出したのは2005年の暮れのことだ。

「タクシー運転手の事情なんて今も昔も世間は興味がないわけですよ。有名人が声を上げないかぎり耳を傾けてくれない。だから、ビッグネームになるまで温めておこうと思っていたんだけど、ちっともビッグネームにならない(笑)。それなら有名雑誌に書いて気づいてもらおうと思って、よく仕事している文藝春秋の編集部に『ちょっと京都の部屋代だけ面倒みて』と相談しました」

事務所や家族は都内に残しつつ、それまで抱えていた連載仕事をほとんど終わらせたうえで京都入り。かつて働いていたタクシー会社に再就職し、2006年1月から8月まで勤め上げた。ウラの目的は隠した潜入スタイルの長期取材だ。吹っ切れて行動に移せたのは、還暦が近くなって「恐怖のマグマ」が多少落ち着いてきた、つまり、人生の先が見えてきたからかもしれない。

40年ぶりに京都の街を走って感じたのは、学生時代より厳しい業界の空気だった。客を乗せて走る実車率は下がり、歩合も下がり、収入は40年前と大して変わらず、統計資料を調べると事故だけは確実に増えていた。

「街の交通手段の充実や国全体の不景気とかもあるけど、規制緩和でタクシー業界に過当競争が起こったのが大きかったです。過当競争の結果は運賃値下げ合戦でしかなく、安全も安心も運転手の待遇改善も二の次、もう滅茶苦茶になっていました」

降ってくる単行本のアイデアには抗えない

その現実をまとめた記事は数回にわたって『文藝春秋』に載り、長年の本懐は達成される。しかし、これで終わらなかった。担当編集者から「今度は東京で」と提案されたのをきかっけに、2008年10月〜11月と2009年7月〜11月、2010年12月〜2013年5月の3回にわたって都内のタクシー会社に潜入することになる。合わせて3年間の長期取材となったのは、ほかの仕事を整理して身が軽くなったのもあるが、潜入するうちに単行本のテーマが降ってきたことが大きかった。


東京のタクシー運転手事情を一人称でまとめた新書『潜入ルポ 東京タクシー運転手』(文藝春秋、2014年)。現在執筆中の作品はこれとは別の切り口となる(筆者撮影)

「本物のタクシー運転手を主役にしたルポルタージュが書きたくなったんですよ。それで思い描いているような背景を持つ4〜5人の人物を見つけて同僚や同業者として話を聞くまで続けてやろうとなって。最初の数人はすぐに見つかったけど、リーマンショックでリストラされた元エリートサラリーマンに出会うまで2年半かかったんですよね」

現在の矢貫さんはこのときの取材を基にした書籍を執筆しているところだ。それに加えて、また別の業界への潜入取材も進めてもいる。若い頃のようにがむしゃらに働く気はもうないというが、降ってくる単行本のアイデアには抗えない。

「僕はテーマが降ってこないと単行本を書かないから、今までは3年に1回くらいのペースだったんだけど、最近なぜか2つも同時に降ってきちゃって。今書いているのとあわせて3つのアイデアを抱えている状況なんです。仕方がないから3本同時進行でやるしかない。だからもう、おカネにはなっていないけど最近忙しいですよね」

自らを突き動かすテーマに没頭するのは楽しい。けれど、後ろめたさがないわけではない。

「ネタが浮かんだら、奥さんに電話するんですよ。『申し訳ないけど、儲からない本、もう1冊書かせて』って(笑)。『申し訳ないけど』がもう口癖になっちゃいました」