『<帰国子女>という日本人』(著:品川亮/彩流社)

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「帰国子女」という存在に対して、「語学は堪能だが、人間関係の機微に疎い=空気が読めない」というイメージは根強く存在する。2才から中学校3年までのうち、合計9年間をペルーで過ごした編集者の品川亮氏が、自身の経験から「帰国子女」とくくられながら働くことの厄介さを説く。

※本記事は、『<帰国子女>という日本人』(彩流社)第5章「<帰国子女>という社会人」から引用抜粋したものです。

「ひとつだけあの人が心配しているのは......」とだいぶ長いあいだおしゃべりをしたあとで、打ち合わせ相手が付け加えました。

「海外生活が長いからかもしれないけど、あなたが言葉を字義どおり受け止めすぎるんじゃないかということなんだよね」

あの人というのはいわゆる「クライアント」のことで、わたしにそう話すのは「クライアント」とのあいだに立って、実際の「プロジェクト」を管理する立場にいた人です。この人とはその時点ですでに何年にも及ぶつきあいでしたが、そういうかたちでいっしょに仕事をするのははじめてでした。

「クライアント」と会ったのはたしか一度か二度で、わたしが「言葉を字義どおりに受け止め」る傾向を持っているのかどうか、その程度の時間をすごしただけでわかるのかなあとまずは感じました。だいたい、「言葉を字義どおりに受け止める傾向」とはなにをさしているのでしょうか。

■<帰国子女>は人間関係の機微がわからない?

たしかに子どもの頃には、大人たちに「あとで」といわれるたびに、遅くても「今日中」、早ければ「1時間以内」くらいの意味に受け取って、毎回裏切られた気持ちになったものです。まさか、彼はそういう小学生的な気質のことを話していたのでしょうか。いくらなんでも10年以上の「社会人歴」を持つ30代後半になった人間として、それほど幼稚な思い違いはしません。

「あとで……」といわれたら、「その場の空気」と相手との関係性が許すかぎり、どのくらいあとの話なのかについて質問しておくという程度のノウハウは身についています。要するに、相手の人格や状況によって言葉の意味を解釈するという訓練はできているつもりでした。

それでも「クライアント」は、わたしがひとの言葉尻を捉えて言質をとったつもりになり、それを盾に「ムリ」を押し通そうとするような人間だと思ったのでしょうか。たしかにそういう人はいます。そういう面倒くさい連中とは仕事したくないという気持ちもわかります。

「そういう人間じゃないですよ」とひと言、口添えしてくれればすむことなのに……などとぼんやり考えながら、「そのご心配には及びませんとお伝えください」と応えました。

ちょっと冗談めかして聞こえたかもしれません。相手は苦笑いしたように見えました。だいぶ経ってから、あれは打ち合わせ相手自身の心配事だったのだと気づきました。なにか具体的な出来事があったわけではありません。ただ、各方面にさまざまな働きかけをして、懸念材料をほぼすべてクリアしたにもかかわらず、その「仕事」が動き出すことはなかったのです。条件が揃ってもなお、その人間は行動を起こしませんでした。ただ一本電話ないしメールを入れればすべてが動き出すというところまで来ていたのにもかかわらず、です。理由は不明なまま、結局説明されることもありませんでした。どういうわけか、最初から動かすつもりのない仕事だったのでしょう。

それにもかかわらず、逃げ口上として口にした、「あとはこういう条件がそろえば動き出せる」という言葉を字義どおりに受け止めたわたしが、それらの条件を満たすべく行動する姿を目の当たりにして、うんざりしたというのが本音だったのではないでしょうか。それで、「あなたは字義どおり受け止めるからなあ」という自分自身が抱いていた懸念を口にしたのでしょう。

■真意を伝えられない人へのかすかな怒りと軽蔑

思い返してみると、たしかにいつでも持ってまわったもの言いをする人でした。そう気づいてみると、いわなければならないこと(と感じている自分の真意)を、面と向かって端的に伝えられない人間への微かな怒りと軽蔑が湧き上がりました。「いいたいことがあるならハッキリいえばいい」という気持ちです。

そういうわけで、その「プロジェクト」は成立しませんでしたので、いまだにその人が具体的にどのような事態を心配していたのか、はっきりとはわかりません。

おそらくは、「おまえはオレのいうことをちゃんと聞くのか?」という懸念だったのではないでしょうか。まあ、彼について「持ってまわったもの言いをする人」と書き付けている段階で、その人の心配は妥当だったのかもしれません。なにしろあの時点では、彼の言葉を字義どおり受け止めて、「クライアントがよけいな心配をしている」と理解していたのですから。

これが、「<帰国子女>は人間関係の機微がわからない」ということの一例なのでしょうか。たしかにその人も、わたしが<帰国子女>であることを引き合いに出してはいました。

■<帰国子女>は「日本語が苦手」?

かつての同僚に、小学校低学年時に2年ほどアメリカで生活していた20代の男性がいました。通っていたのは「現地校」です。しかも帰国後は、英語力を失わないための塾にも通っていましたので、社会人になった今でもネイティヴに近い感覚で英語を操れます。その彼について、ある上司が「あいつは日本語が苦手だからな」と苦笑いすることがよくありました。たしかに、簡潔に説明するのが得意とはいえない男でした。でもわたし自身は、その傾向と「日本語が苦手」という評価を結びつけて考えたことはありません。

<帰国子女>でなくても、説明に時間がかかる人は少なくありません。言葉を選ぶのに慎重すぎる人や、単に説明があまりうまくなく不必要な情報を「端折る」ことができないまま話の途中で「迷子」になる人たちは、まわりを見渡してみてもけっこういます。しかもこの元同僚の説明は、決してそこまでひどくありませんでした

注意が必要なのは、そのときこの<帰国子女>は、仕事における評価がなかなか上がらない時期にいたということです。つまり、「日本語が苦手だからな」というのは、「仕事ができない」という評価のうえに、<帰国子女>であることの「ハンディキャップ」を、いわばおおいかぶせる表現だったのだろうと想像ができるのです。

■「仕方ない」逃げ場を与えてやるつもりの口上

しかも、「<帰国子女>なんだからしかたない」というかたちで、むしろ彼に逃げ場を設けてやるもの言いだったのではないかとすら思われます。良かれ悪しかれ、なにか突出した部分があるときには、そこが<帰国子女>と結びつけられるというのはよくあることです。

とはいえ、同じことは「在日外国人」「出身県」などの出自や、「ひとりっ子」「片親」といった成育環境から血液型などなどにいたるまで、ありとあらゆる属性と結びつけておこなわれています。特別珍しくはありません。

ただ、<帰国子女>というカテゴリーが、ほかのものよりもちょっとだけ使いやすいのは事実でしょう。特別な配慮を要する歴史的背景があるわけでもなく、今日では誉め言葉に使われる場合も多いわけですから。

就職に際して<帰国子女>の取り得る選択肢にはどういうものがあるのでしょうか。一般的な<帰国子女>のイメージからいえば、外資系企業、総合商社といったところを筆頭に旅行業界などを含め、とにかく海外との接触が多そうな業界が中心となるのでしょうか。

たしかに、そういう業界に進む<帰国子女>もいますが、わたしの周囲ではあまり大勢を占めていないように見えます。帰国以来、「海外には行きたくない」と海外旅行にすら出なかった「下級生」のことを耳にしたこともあります。それでも結局は、「海外支局長」のような立場で長いあいだ外国に赴任することになりました。本人がそれを歓迎していたのか、楽しむことができたのかどうかはわかりません。

そもそもわたしたちが就職活動をしていた時代にも、「英語がしゃべれるからって仕事ができるとは思うなよ」という気持ちを持った採用者がいることは肌身に感じました。そしていまや、<帰国子女>だけが「英語を使える」時代ではありません。また、海外と関わる仕事についたからといって、明るい未来がひらけるわけでもないことをみな知っています。むしろ<帰国子女>であればこそ、どうにかして日本国内だけで完結したいと感じる人間がいても不思議はありません。

■日本で暮らしてどことなく居心地悪い瞬間

それでも、もし<帰国子女>全般にある程度共通するなにがしかの感覚ないし経験があるとすれば、それは日本で生活していてどことなく居心地が悪いと感じる瞬間なのではないかと考えています。日本での生活ぶりが良いか悪いか、あるいは日本が好きか嫌いかといったこととは別に、ということです。もちろん程度の差はありますし、海外での生活ではそういう居心地の悪さを感じないということでもありません。結局のところそれは、紋切り型でいう「日本を客観的に見る」態度からくるわけですが、わたし自身の経験からするとそれは、「日本のみならず、どこにいても自分の生活環境を客観的に眺めてしまうクセが抜けきらない」というふうに、少しネガティヴな感覚と一体化しています。まあ、そのせいで困るというほどでもないのですが。こういう感覚のせいで会社を渡り歩くことになったり、反時代的なまでに「会社人間」になったり、ということもあるでしょう。「ほんとうの自分」のようなものをいつでも隠し持っていて、意外なタイミングでそれを表に出すこともあるかもしれません。

そういう意味で、<帰国子女>であることが「社会人」としての生き方を左右する、ということはあります。「社会人」としての<帰国子女>に共通していえるのは、そのくらいかもしれません。

(文筆、編集、映像制作業 品川 亮)