決勝で韓国に敗れ、アジアの頂点には届かず。ライバルは日本がまだ備えていない集中力、精神力を携えてた。(C)SOCCER DIGEST

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【週刊サッカーダイジェスト 1999年5月19日号にて掲載。以下、加筆・修正】

 タイ北部に位置する町、チェンマイ。10月とはいえ湿気を含んだ酷暑は容赦ない。アジアユースは厳しい条件下で開催された。
 
 上位4チームに入れば、ワールドユースの出場権を得られる。だが日本の目標は、もちろん初のアジア王者になることだった。
 
「ここまで来たら、もう戦術うんぬんじゃないでしょう。メンタルで負けないように。それがすべてなんじゃないでしょうか」
 
 開幕前、意欲を燃やしていた酒井だったが、なんと清雲監督は不動のボランチを先発から外してしまう。さらには負傷明けで、試合勘が戻っていない金古聖司をもベンチに座らせる。右SBに加地、そして守備の中央には市川を配置した。
 
「悩んだが、ベストな布陣だと思って決断した。あとは彼らの順応性に期待した」(清雲監督)
 
 だが、即興システムに順応できるほど、彼らは逞しくなかった。混乱を極める最終ライン。中国にあっさり先制されると、監督はなんと加地に代えて金古を投入した。

 結果的に日本は2-2で凌ぎ敗戦を免れたが、初戦でのドタバタぶりは、大会の最後まで継続されることとなった。
 
 もともと個々の能力で群を抜いていた日本には、深い戦術理解などなくても、グループリーグを突破できる実力があった。守備ラインは絶えず単調なロングボールに苦しみ続け、攻撃は本山と小野のセンスに依存している。そんなダマしダマしの連戦でも、きっちりと白星を重ねていった。

 第4戦の韓国戦を前にワールドユース出場が確定。清雲監督に背を向け続ける幼き日本代表は、とりあえず最低限の目標は達成した。
 
 迎えた日韓戦。日本を熟知する韓国の若武者たちは、非情なまでに弱点を突いてきた。フィジカル面の優位性を存分に活用し、5人のマン・マーカーを配備。攻撃は徹底して裏を突くカウンター。スコアは1-2と僅差の黒星ながら、
 
「対処しきれなかった。こんなに悔しい負けは久しぶりです」
 
 という小野の言葉が、日本の完敗ぶりを物語る。
 
 準決勝のサウジアラビア戦で圧勝し、決勝で再度、韓国と顔を合わせた日本だったが、試合展開はほとんど変わらなかった。先制され、追いつき、突き放される。日頃は指揮官になんら疑問さえ投げかけないわりに、打開する術だけはベンチに求める選手たち。終了間際、清雲監督はDF鶴見智美を投入し、最前線に配備する。パワープレーなど練習で一度も試したことがなく、鶴見のFW起用も初めて。誰もが驚くギャンブルに出たのだ。

 小野や稲本が、懸命に撤回を要求しても、ときすでに遅し。アジア制覇という夢が、露と消える瞬間だった。
 
 準優勝という結末に、稲本は苛立ちを抑えつつ、冷静に現状を把握していた。
 
「なにがアカンかったんか。どうすれば結果が付いてくるんか。1人ひとりがよく考えれば分かるはずです。この屈辱をバネにして、ワールドユースでは最高のチームになっていたい。みんな、いろんなコトを勉強したと思いますし」
 
 スタメン落ちした後、奮迅の活躍で定位置を奪い返していた酒井にも、変化が生じていた。
 
「誰かがやればいいとか、なんとかなるとか、どこかで逃げてる部分があったのかもしれない。90分を通して集中することの大事さ、声を掛け合い、チームとして戦うということが大切なんですよね」
 
 さまざまな思いを胸に、彼らは日本への帰途に着く。最強軍団という看板を下ろすも下さないも、自分たち次第なのだという事実を噛みしめながら…。

  間もなくして、清雲監督は辞任を受諾される。代わって、アジア大会などを通して早くもバッシングが強まっていたフィリップ・トルシエ監督が、その座を引き継ぐこととなった。