ゴジラはなぜ皇居を襲わないのか「シン・ゴジラ」はこの問題にどう答えたか

写真拡大

「こんなことで歴史に名前を残したくなかったなあ」
「シン・ゴジラ」を観てからというもの、うっかりしているとつい、平泉成のモノマネであのセリフを口にしている私である。


「シン・ゴジラ」劇中における平泉成を見ていて、私は、海軍軍人にして太平洋戦争末期の首相・鈴木貫太郎を思い出さずにはいられなかった。本作の元ネタのひとつとして、終戦秘話を描いた「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督、1967年)があげられている以上、それも無理からぬことではないか。

「シン・ゴジラ」で平泉は、数奇なめぐりあわせから首相臨時代行となり、日本の危機に対処することになる。この経緯がまた、鈴木貫太郎が首相となった経緯とよく似ている。鈴木も日本の敗色の濃くなるなか、1945年4月に首相となった。77歳という高齢であること、また軍人は政治にかかわるべきでないとの信念から本人は固辞したが、昭和天皇の信頼も厚いことから、戦争終結の任務にあたることを期待されて重臣らが推薦したといわれる。ちなみに鈴木は首相就任時、満開の桜が散っていくのを見ながら、ローマが滅びていった歴史を思い出したというが、これなど先の平泉成のセリフに込められた悲嘆の念と通じるものがあるだろう。

「シン・ゴジラ」ではまた、ゴジラ襲撃に際して政府がやむなく移転することになるが、ここからふと戦争末期に、本土決戦に備えて大本営の長野県・松代への移転が計画されていたのを思い出した。ただし大本営とは、天皇に直属して陸海軍を統帥した最高機関のことなので、厳密には政府とは区別される。もっとも、「シン・ゴジラ」には天皇はもちろん皇居も出てこない。

ゴジラはなぜ皇居を襲わないのか? 各説をまとめてみた


さかのぼれば、1954年の「ゴジラ」をめぐっては、ゴジラはなぜ皇居を襲わないのかという疑問から多くの論者がおのおの自説を展開してきた。いままで出された説を分類するなら、以下のようになるだろうか。

【戦死者の亡霊説】映画のなかで海から現れ、最後は海へと消えていくゴジラを第二次世界大戦の戦死者、とりわけ海で死んでいった兵士たちの亡霊になぞらえた説。最初にこの説を唱えた評論家の川本三郎は、天皇の名のもとに戦地に赴き命を落とした兵士たちは、いまだ天皇制の呪縛のなかにいるがゆえ、皇居だけは破壊できないと説明した(『今ひとたびの戦後日本映画』岩波書店)。
民俗学者の赤坂憲雄もまたこの説を踏まえつつも、川本とは異なり、ゴジラ皇居を襲わないのは天皇制の呪縛力のゆえではなく、むしろ戦前に現人神とされた天皇が、敗戦後に《死せる者らの魂鎮めの霊力すら失ってただの人間にかえった》がためと説いている。つまり、《ゴジラ皇居の周囲を巡ったすえに背を向け、南の海に還ってゆくのは、そこにもはや、死者たちの魂の悶えを鎮め癒してくれる者がないことを悟ったからではないのか》というのだ(『怪獣学・入門』JICC出版局)。

【東京大空襲の再現説】小説家・怪獣蒐集家の木原浩勝は、《東京大空襲が描けなければ、どんな怪物でもどんな大災害のツメあとでもリアリティがないとあの二人[監督の本多猪四郎と特殊技術担当の円谷英二――引用者注]は考えていたはずだし、何より観客たちの胸を衝く素材にそれ以上のものはなかったと思う》と「ゴジラ」と空襲の記憶の結びつきを強調、その根拠として、劇中でのゴジラの行程(芝浦から上陸し、品川・銀座を通って隅田川を抜けて再び海へと帰っていく)が1945年3月の大空襲でB29の編隊のたどったコースと重なることを示唆した(『文藝別冊 円谷英二』河出書房新社)。東京大空襲では皇居は標的とならなかったので、この説は、ゴジラ皇居を襲わない理由ともなりえる。

【制作上の理由説】ゴジラ皇居を襲わないことに、深い理由はなく、単に設定や演出上の事情からたまたまそうなったにすぎないとする説。作家でミステリ・特撮研究者の野村宏平は、「ゴジラは光に反応するという習性からすれば、森に覆われた皇居に関心を示すとは思えない」などいくつか理由をあげたうえで、「そもそもゴジラ皇居を襲ったところで、巨大建造物があるわけではないので、インパクトのある映像にはならない。ゴジラのパワーを見せつけるなら、国会議事堂を破壊させたほうがはるかに効果的」と断じている(『ゴジラと東京 怪獣映画でたどる昭和の都市風景』一迅社)。
野村はまた、ゴジラの被害を受けたのが空襲された地域とは必ずしも重ならないとの理由から、先の「空襲の再現説」にも異を唱える。たとえばゴジラは、もっとも空襲被害の大きかった隅田川の東側の地区にはまったく手をつけていないが、これもまた、ゴジラが襲って絵になるようなめぼしい建造物がないからだと説明される。

志水義夫『ゴジラ傳 怪獣ゴジラの文藝学』(新典社)も、《皇居北側部分の破壊が描かれないのは、すでに(中略)十分に東京の街の破壊が表現できているから》と、ゴジラ皇居を襲わなかったのは、あくまで演出上の事情からだと説く。なお、同書にはまた、《もちろんそこには皇室への配慮という作品外の要素が第一番にあるのでしょう》とも書かれている。

ともあれ、「ゴジラ」封切は終戦からまだわずか9年とあって、映画を見て空襲を思い出したという観客も少なくなかった。だから、ゴジラと戦争を結びつけて作品を読み解くのもけっして的外れではない。何より、「ゴジラ」制作の背景には、よく知られるように、1954年3月にアメリカが南太平洋のビキニ環礁で行なった水爆実験で、日本の漁船・第五福竜丸が被爆するという事件があった。監督の本多猪四郎も1990年のインタビューで、原爆というものに対する憎しみ、恐怖心を忘れないようつくろうと、プロデューサーの田中友幸や特撮の円谷英二とも話し合ったと語っている(『初代ゴジラ研究読本』洋泉社)。

科学技術館周辺は「日本のいちばん長い日」の舞台でもあった


さて、話を「シン・ゴジラ」に戻そう。先にも書いたとおり、この映画にもまた皇居は出てこない。だが、そのクライマックスのロケ地には奇しくも、皇居の存在をほのめかすような場所が選ばれている。それは、科学技術館と東京駅だ。いずれも皇居の周辺に所在するというだけでなく、立地する場所の歴史からいっても、天皇とは切り離せない関係が見出せる。

まず、科学技術館は1964年に開館し、かつて「ウルトラマン」や映画「太陽を盗んだ男」のロケにも使われた。「シン・ゴジラ」監督の樋口真嗣と総監督の庵野秀明も、空間的な魅力とあわせて、そうした青少年期に見た映像の鮮烈な記憶もあり、ここをロケ地に選んだと明言している(「今夏公開の映画「シン・ゴジラ」に科学技術館がロケ地で登場‐科学技術館からのお知らせ」)。「シン・ゴジラ」のクライマックスが、人々が技術の粋を集めてゴジラに立ち向かう場面であることを考えても、その舞台に科学技術館が選ばれたのはきわめて象徴的だ。

科学技術館は、皇居外苑を構成する北の丸公園に所在する。その名のとおり旧江戸城の北の丸だったこの一帯は、明治初年に近衛師団(皇居の守衛などを任務とする陸軍の師団)が置かれて以降、たびたび歴史の舞台となった。1945年8月に、終戦に反対する陸軍幹部によって引き起こされたクーデター未遂事件も、北の丸公園に現存する近衛師団司令部(現・東京国立近代美術館工芸館)での師団長殺害に端を発する。このとき反乱軍は一時、このころ宮城(きゅうじょう)と呼ばれていた皇居にまで侵入したものの、けっきょく鎮圧された。冒頭にあげた「日本のいちばん長い日」でも描かれたこの事件は、上記のような経緯から「宮城事件」とも呼ばれている。

北の丸公園にはこのほか、元首相・吉田茂の銅像(科学技術館の前に建つ)や、毎年8月15日に、天皇・皇后臨席のもと全国戦没者追悼式が行なわれる日本武道館など、日本の近現代史の記憶をとどめる施設や史跡が点在する。

東京駅シーンに込められた皮肉?


「シン・ゴジラ」クライマックスのいまひとつのロケ地である東京駅は、大正時代の1914年に開業した。このとき建設された赤レンガ造りの丸の内駅舎は、皇居の真向かいに位置する。帝都の中央駅という象徴性、そして天皇はじめ皇族の利便性への考慮から、この立地となったのだ。

東京駅の西側にあたる丸の内地区では、かつて東京海上ビル本館(1970年竣工)の建設に際して、皇居周辺の景観を損ねるとの理由から「美観論争」が持ち上がり、結局、高さを計画より低く抑えることで決着を見た。しかし、後年にいたってはそんな論争などまるでなかったかのように、超高層ビルが林立することになる。戦災でドーム屋根を失った丸の内駅舎が、開業当時の姿に復原されたのは、同地区の再開発のさなかの2012年のことだった。

建物を建てるには、地域の種類に応じて容積率(建造物の延べ面積の、敷地面積に対する割合)が定められている。この容積率が大きく認められているほど、高層のビルを建てられるというわけだ。一方で低層の建物の場合、認められた容積率に満たない場合がある。丸の内駅舎の復原にあたっては、特例により、未利用の容積率を周辺の複数のビルに売却して、工事費の大半をまかなった。ただ、復原は実現したとはいえ、超高層ビルに取り囲まれた駅の景観はけっして見栄えいいとはいいがたい。それだけに、「シン・ゴジラ」の劇中、東京駅周辺のビルが破壊される場面は、どこか皮肉めいて見えた。

「シン・ゴジラ」のタイトル、私はこう読む


さて、高度成長期に建てられた科学技術館、そして戦災前の姿を取り戻しながらも、その見返りに超高層ビルに囲まれた東京駅と、これらロケ地の持つ歴史的背景からいっても、「シン・ゴジラ」には敗戦から高度成長、そして21世紀へといたる戦後史が反映されているような気がしてならない。もっといってしまうなら、この作品に貫かれているのは「戦後をやり直す」というテーマではないだろうか。「日本のいちばん長い日」へのオマージュも、けっして演出や設定上という意味合いにとどまらないはずだ。

ゴジラ」の監督の本多猪四郎は、先述したように、この映画をつくるにあたって反核への想いを忘れなかったと話しながらも、一方では、ゴジラと水爆を関連づける設定について、《それはタイムリーな題材でゴジラを登場させるほんのきっかけであって、もとよりテーマをふりかざして反核の説教をしようなどとは少しも思わなかった》とも語っていた(樋口尚文『グッドモーニング、ゴジラ 監督 本多猪四郎と撮影所の時代』筑摩書房)。反核というテーマは、あくまで娯楽映画をつくるきっかけにすぎなかったというのだ。

これに対して、庵野秀明は「ゴジラ」のような映画をつくるきっかけをなかなか見出せなかった。それは2001年のインタビューで、いま怪獣映画は成立するのかと問われ、《怪獣が街を破壊するカタルシスの存在意義が、今の日本社会にはないとも感じます》と答えていることからもあきらかだ。このときの庵野いわく、60〜70年代であれば、高度成長に対するアンチテーゼなどとして怪獣を描くことができた。だが、《今は、日本の街が壊れても、なんとも思わない、何も心が動かないと思います。街というか現実社会が壊れることに対するカタルシスというのは、もう大半の人にはないんでしょうね》と、彼は怪獣映画の不可能性を強調し、アニメも特撮も《この現状を打破しないともう先がないような気がします》とまで言っていた(前掲、『文藝別冊 円谷英二』)。

現実社会が壊れることに対して人々の心が動かなくなった。現状を打破しないかぎり、怪獣映画を成立させるのは無理だ――。15年前の庵野の発言を敷衍するなら、そんな状況を打破し、彼にゴジラ映画を撮らしめたできごとこそ、2011年3月の東日本大震災と福島原発の事故だったとも解釈できるのではないか。

「シン・ゴジラ」のタイトルの「シン」については、「新」という意味のみならず、「神」や「真」とも読めるのではないかとの意見も見かける。この映画から「戦後のやり直し」を読み取った私もまた、「シン・センゴ」などといった言い回しを考えていたのだが、そこで思いがけず、「シン・ゴジラ」が、震災のあとのゴジラ、すなわち「震後ジラ」とも読めることに気がついた。映画を観た人ならば、この読みにきっと同意していただけるのではないだろうか。
(近藤正高)