「真田丸」忍城の水攻めと伊達政宗の野望、どこまで史実か調べてみた
NHK大河ドラマ「真田丸」の第24回(6月19日放送分。きょう13時5分から総合テレビで再放送予定)で、ついに関東の大大名・北条氏が豊臣秀吉(小日向文世)によって滅ぼされた。
脚本の三谷幸喜は「真田丸」を民放の連続ドラマと同様、3カ月単位でドラマが一区切りつくような構成にしているという。主人公・真田信繁(堺雅人)が上洛して秀吉の人質になったところより始まった4月からの「大坂編」も、北条氏滅亡によって秀吉が天下一統を果たしたタイミングで、あす26日の放送分をもって完結しそうな気配だ。この機会に、北条氏滅亡にいたる過程をドラマと史実を突き合わせながら振り返ってみたい。
「真田丸」第24回で描かれていたとおり、天正18年(1590)4月、北条氏の居城・小田原城(神奈川県小田原市)が秀吉の大軍によって山から海からと包囲され、籠城戦の末、7月1日にようやく北条氏当主・北条氏直(細田善彦)は降伏した。
小田原合戦とも小田原征伐も呼ばれるこの戦いへといたる過程は、「真田丸」では真田信繁やその父・昌幸(草刈正雄)たちの視点から克明に描かれてきた。そもそもこの戦いの直接のきっかけは、秀吉配下にあった真田家領有の名胡桃(なぐるみ)城(群馬県みなかみ町)が北条に奪取された事件であったことは、ドラマの視聴者ならご存知のとおり。
小田原城が秀吉に明け渡されたあと、氏直は高野山へ送られ出家するとともに、その父で北条氏の実権を握っていた先代当主・北条氏政(「真田丸」では高嶋政伸が好演)は弟の氏照とともに切腹させられる。こうして伊勢宗瑞(北条早雲)より5代にわたり関東の広範囲を支配してきた北条氏は命脈を絶たれたのである。
小田原合戦とも小田原征伐とも呼ばれるこの戦いでは、小田原城だけではなく、関東各地にあった北条氏の支城も攻略された。このうちもっとも有名なのは、忍城(おしじょう。埼玉県行田市)での戦いだろう。忍城は、ほかの支城、そして小田原城が開城したあともしぶとく抵抗を続け、北条降伏から半月後にしてやっと明け渡された。「真田丸」でもこの戦いで指揮をとった石田三成(山本耕史)が苦戦するさまが描かれていた。
近年、この戦いをとりあげた和田竜の小説『のぼうの城』(2007年)がベストセラーとなり、2012年には和田の脚本、野村萬斎主演で映画化もされヒットしたことは記憶に新しい(監督は犬童一心・樋口真嗣)。映画でもダイナミックに描かれたとおり、石田三成(映画では上地雄輔が演じた)は、城のそばを流れる利根川に土手(堤)を築いて堰き止めたうえ、大量の水がたまったところで堤を切って城へ流し込むという水攻めを試みた。『のぼうの城』の物語の下敷きとなった『忍城戦記』では、流れ込んだ水で城兵や人民が溺死したと記されている。
ただ、水攻めは計画されたものの(現にいまなお忍城址近くには「石田堤」と呼ばれる堤跡が残っている)、実際に行なわれて多数の犠牲者が出たかどうかは文書史料では確認できないという。水攻め説の根拠とされる『忍城戦記』も、当時の忍城の城主・成田氏長の重臣である正木丹波守(まさきたんばのかみ。映画では佐藤浩市が演じた)の武勇を記録するという性格上、その活躍を強調するために水攻めの記事が必要だったのではないか、とも考えられているようだ(中田正光『最後の戦国合戦「小田原の陣」』洋泉社・歴史新書y)。
一方で、当時の文書には、堤が築いている途中で決壊したことがうかがえる記述が見られるという(黒田基樹『小田原合戦と北条氏』吉川弘文館)。『のぼうの城』にもこの史実を踏まえてだろう、堤が城兵や領民によって故意に崩され、三成の陣に水が流れ込むという場面があった。「真田丸」で三成が思うように攻略できず苦戦した原因も、まさにこれだった。劇中では結局、途中から参戦した真田昌幸の入れ知恵により何とか辛勝を収める。
ただし、忍城開城の経緯についてもくわしいことはわかっていない。前掲『小田原合戦と北条氏』によれば、小田原で北条氏とともに籠城していた城主・成田氏長が、小田原城を出たあと勧告したと考えられるという。『のぼうの城』では、氏長(映画では西村雅彦が演じた)は北条を裏切って秀吉につくべく小田原に赴くものの、自分の留守中に家臣らが勝手に秀吉軍と戦を始めて、蚊帳の外に置かれてしまう。しかし、現実にはそれなりの役目を果たしていたということか。
一方、「真田丸」で忍城開城を昌幸の入れ知恵で実現したのは脚色の妙だろう。百戦錬磨の昌幸に対し、理論家ながら実戦知らずの三成という印象を与えるのに効果を上げていたと思う。
映画「のぼうの城」では、城主の氏長に代わって合戦の総大将を務めた萬斎演じる成田長親が、戦を前に「北条にも豊臣にもつかず、皆でいままでと同じように暮らせないかなあ」と言う場面があった。これは「真田丸」第23回で、やはり戦を前にした真田昌幸の「わしは秀吉のために戦いとうないのじゃ」とのセリフとも重なる。彼らは本心では、いままでどおり中央の権力からは自立して領地領民を支配することを願っていたのだ。
しかし各地の武将はもはやこのとき、秀吉の圧倒的な権力を前に、彼が築きつつあった中央集権体制に否応なしに組みこまれざるをえなかった。それはグローバリズムの進行を前に、日本企業(大企業、中小企業を問わず)がそのガラパゴスな経営体制ゆえ斜陽化していくさまとどこか似ている。実際、天下一統を成し遂げる前後より、秀吉がスペインやポルトガルといった欧州列強の動向、あるいは東アジアにおける経済体制の変化を見越して戦略を練っていたというから、こうした見立てもあながち間違いではないだろう。
「真田丸」第23回では、東北の大大名・伊達政宗(長谷川朝晴)が秀吉にやっと臣従の意を示し、小田原城まで白装束で現れる様子が描かれていた。続く第24回では、政宗は仙台名物のずんだ餅をふるまうなど、秀吉の歓心を買うのに余念がない。だが、真田信繁と二人きりになったとき、「もしわしがもう20年早く生まれておれば、もう少し京都の近くで生まれておれば、大広間の主座に座っているのは秀吉ではなくわしであった!」と悲痛な叫びをあげるのだった。
とはいえ、政宗が本気で天下を狙っていたということはおそらくないはずだ。政宗の夢はあくまで中央から自立した東北王国の確立であった。いわば地方分権を志向していたのであり、それは九州の島津氏、そして関東の北条氏も同様である。逆にいえば、織田信長およびそれを引き継いだ秀吉が、全国制覇をなしとげ集権化をめざそうとしたのは、ほかの戦国武将からすれば極端な話、非常識なものだったとさえいえるらしい(藤田達生『天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」』中公新書)。
それゆえ、くだんの政宗のセリフは彼の本音というよりは、自らを屈服させた秀吉へのいわば負け惜しみと解釈したほうが史実にかなっているのではないか。
伊達政宗は天正18年(1590)6月、小田原にようやく出向き、秀吉の御座所となっていた築城まもない石垣山城で恭順の意を示した。
石垣山城は、小田原城を包囲するために築かれた臨時の城郭で、「一夜城」とも、白壁の代わりに和紙が用いられていたため「張り子の城」とも呼ばれる。しかしその造りはけっして仮設とはいいがたい総石垣造りの城だった(ただし、政宗が出仕したときはまだ石垣は完成途中であったという)。和紙にしても土を塗りこんだ土壁の上から貼られていた。内装も、本阿弥光悦や後藤徳乗といった金細工や書のエキスパートを呼んでいたことから、おそらくそうとう豪華なものに仕上げたと想像できる(前掲、『最後の戦国合戦「小田原の陣」』)。
「真田丸」の劇中のセリフでもあったとおり、秀吉はこの石垣山城に側室の淀殿を呼び寄せ、ほかの大名衆にも国許から女房を呼んでよいと指示したと伝えられる。このほか、小田原へは茶人の千利休や芝山監物、芸能者や囲碁・将棋の名人が同行していた。秀吉はいわば京都の聚楽第と周囲の大名屋敷をそのまま関東に移そうとしたのだ。この試みには一体どんな意図があったのか? 前掲の藤田達生『天下統一』には次のように説明されている。
《これはきたるべき大陸出兵に向けてのシミュレーションでもあった。秀吉配下の全大名が海陸を進軍し、何年でも遠征できることをあらかじめ試しておかねばならなかったのである》
そう、秀吉は小田原攻めの時点で、すでに日本の外(具体的には朝鮮・明)にも虎視眈々と目を向けていたのだ。
「真田丸」ではこれまで半年にわたり、真田氏が東国において北条・上杉・徳川といった列強のはざまに置かれながらも、したたかにふるまうさまが描かれてきた。そこでは近年研究が進んだ戦国時代の東国政治史がおおいに参考にされているようだ。一般向けの書籍もここ数年出版があいついでいる。この記事でも参照した黒田基樹『小田原合戦と北条氏』(なお黒田は「真田丸」の時代考証も担当している)のほか、「真田丸」ファンにはおなじみ沼田城をめぐる攻防の経緯については、『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(中公新書)にくわしい。
さて、「真田丸」あす放送の第25回の予告では、秀吉の茶頭(さどう)・千利休が切腹するカットが見られた。このあと7月からの「真田丸」ではおそらく、朝鮮出兵から秀吉の死へといたる過程で豊臣家および家臣団(そこにはもちろん真田家も含まれる)が分裂するさま、そしてそのひとつの帰結として関ヶ原の合戦が描かれることになるのではないか。茶人の域を超えて政治にも強い影響力を持っていた利休の死は果たして、秀吉体制の終わりの始まりなのか――。ただ、三谷幸喜はここへ来てもやっと秀吉が死んだ場面を書き終えたばかりとの話も聞こえる。ドラマの展開のみならず、こちらの進行も気になるところではあります(たぶん大丈夫なんだろうけど)。
(近藤正高)
脚本の三谷幸喜は「真田丸」を民放の連続ドラマと同様、3カ月単位でドラマが一区切りつくような構成にしているという。主人公・真田信繁(堺雅人)が上洛して秀吉の人質になったところより始まった4月からの「大坂編」も、北条氏滅亡によって秀吉が天下一統を果たしたタイミングで、あす26日の放送分をもって完結しそうな気配だ。この機会に、北条氏滅亡にいたる過程をドラマと史実を突き合わせながら振り返ってみたい。
『のぼうの城』の水攻めはどこまで史実か
「真田丸」第24回で描かれていたとおり、天正18年(1590)4月、北条氏の居城・小田原城(神奈川県小田原市)が秀吉の大軍によって山から海からと包囲され、籠城戦の末、7月1日にようやく北条氏当主・北条氏直(細田善彦)は降伏した。
小田原合戦とも小田原征伐も呼ばれるこの戦いへといたる過程は、「真田丸」では真田信繁やその父・昌幸(草刈正雄)たちの視点から克明に描かれてきた。そもそもこの戦いの直接のきっかけは、秀吉配下にあった真田家領有の名胡桃(なぐるみ)城(群馬県みなかみ町)が北条に奪取された事件であったことは、ドラマの視聴者ならご存知のとおり。
小田原城が秀吉に明け渡されたあと、氏直は高野山へ送られ出家するとともに、その父で北条氏の実権を握っていた先代当主・北条氏政(「真田丸」では高嶋政伸が好演)は弟の氏照とともに切腹させられる。こうして伊勢宗瑞(北条早雲)より5代にわたり関東の広範囲を支配してきた北条氏は命脈を絶たれたのである。
小田原合戦とも小田原征伐とも呼ばれるこの戦いでは、小田原城だけではなく、関東各地にあった北条氏の支城も攻略された。このうちもっとも有名なのは、忍城(おしじょう。埼玉県行田市)での戦いだろう。忍城は、ほかの支城、そして小田原城が開城したあともしぶとく抵抗を続け、北条降伏から半月後にしてやっと明け渡された。「真田丸」でもこの戦いで指揮をとった石田三成(山本耕史)が苦戦するさまが描かれていた。
近年、この戦いをとりあげた和田竜の小説『のぼうの城』(2007年)がベストセラーとなり、2012年には和田の脚本、野村萬斎主演で映画化もされヒットしたことは記憶に新しい(監督は犬童一心・樋口真嗣)。映画でもダイナミックに描かれたとおり、石田三成(映画では上地雄輔が演じた)は、城のそばを流れる利根川に土手(堤)を築いて堰き止めたうえ、大量の水がたまったところで堤を切って城へ流し込むという水攻めを試みた。『のぼうの城』の物語の下敷きとなった『忍城戦記』では、流れ込んだ水で城兵や人民が溺死したと記されている。
ただ、水攻めは計画されたものの(現にいまなお忍城址近くには「石田堤」と呼ばれる堤跡が残っている)、実際に行なわれて多数の犠牲者が出たかどうかは文書史料では確認できないという。水攻め説の根拠とされる『忍城戦記』も、当時の忍城の城主・成田氏長の重臣である正木丹波守(まさきたんばのかみ。映画では佐藤浩市が演じた)の武勇を記録するという性格上、その活躍を強調するために水攻めの記事が必要だったのではないか、とも考えられているようだ(中田正光『最後の戦国合戦「小田原の陣」』洋泉社・歴史新書y)。
一方で、当時の文書には、堤が築いている途中で決壊したことがうかがえる記述が見られるという(黒田基樹『小田原合戦と北条氏』吉川弘文館)。『のぼうの城』にもこの史実を踏まえてだろう、堤が城兵や領民によって故意に崩され、三成の陣に水が流れ込むという場面があった。「真田丸」で三成が思うように攻略できず苦戦した原因も、まさにこれだった。劇中では結局、途中から参戦した真田昌幸の入れ知恵により何とか辛勝を収める。
ただし、忍城開城の経緯についてもくわしいことはわかっていない。前掲『小田原合戦と北条氏』によれば、小田原で北条氏とともに籠城していた城主・成田氏長が、小田原城を出たあと勧告したと考えられるという。『のぼうの城』では、氏長(映画では西村雅彦が演じた)は北条を裏切って秀吉につくべく小田原に赴くものの、自分の留守中に家臣らが勝手に秀吉軍と戦を始めて、蚊帳の外に置かれてしまう。しかし、現実にはそれなりの役目を果たしていたということか。
一方、「真田丸」で忍城開城を昌幸の入れ知恵で実現したのは脚色の妙だろう。百戦錬磨の昌幸に対し、理論家ながら実戦知らずの三成という印象を与えるのに効果を上げていたと思う。
伊達政宗は本当に天下を狙っていたのか?
映画「のぼうの城」では、城主の氏長に代わって合戦の総大将を務めた萬斎演じる成田長親が、戦を前に「北条にも豊臣にもつかず、皆でいままでと同じように暮らせないかなあ」と言う場面があった。これは「真田丸」第23回で、やはり戦を前にした真田昌幸の「わしは秀吉のために戦いとうないのじゃ」とのセリフとも重なる。彼らは本心では、いままでどおり中央の権力からは自立して領地領民を支配することを願っていたのだ。
しかし各地の武将はもはやこのとき、秀吉の圧倒的な権力を前に、彼が築きつつあった中央集権体制に否応なしに組みこまれざるをえなかった。それはグローバリズムの進行を前に、日本企業(大企業、中小企業を問わず)がそのガラパゴスな経営体制ゆえ斜陽化していくさまとどこか似ている。実際、天下一統を成し遂げる前後より、秀吉がスペインやポルトガルといった欧州列強の動向、あるいは東アジアにおける経済体制の変化を見越して戦略を練っていたというから、こうした見立てもあながち間違いではないだろう。
「真田丸」第23回では、東北の大大名・伊達政宗(長谷川朝晴)が秀吉にやっと臣従の意を示し、小田原城まで白装束で現れる様子が描かれていた。続く第24回では、政宗は仙台名物のずんだ餅をふるまうなど、秀吉の歓心を買うのに余念がない。だが、真田信繁と二人きりになったとき、「もしわしがもう20年早く生まれておれば、もう少し京都の近くで生まれておれば、大広間の主座に座っているのは秀吉ではなくわしであった!」と悲痛な叫びをあげるのだった。
とはいえ、政宗が本気で天下を狙っていたということはおそらくないはずだ。政宗の夢はあくまで中央から自立した東北王国の確立であった。いわば地方分権を志向していたのであり、それは九州の島津氏、そして関東の北条氏も同様である。逆にいえば、織田信長およびそれを引き継いだ秀吉が、全国制覇をなしとげ集権化をめざそうとしたのは、ほかの戦国武将からすれば極端な話、非常識なものだったとさえいえるらしい(藤田達生『天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」』中公新書)。
それゆえ、くだんの政宗のセリフは彼の本音というよりは、自らを屈服させた秀吉へのいわば負け惜しみと解釈したほうが史実にかなっているのではないか。
小田原合戦は朝鮮出兵のシミュレーションでもあった
伊達政宗は天正18年(1590)6月、小田原にようやく出向き、秀吉の御座所となっていた築城まもない石垣山城で恭順の意を示した。
石垣山城は、小田原城を包囲するために築かれた臨時の城郭で、「一夜城」とも、白壁の代わりに和紙が用いられていたため「張り子の城」とも呼ばれる。しかしその造りはけっして仮設とはいいがたい総石垣造りの城だった(ただし、政宗が出仕したときはまだ石垣は完成途中であったという)。和紙にしても土を塗りこんだ土壁の上から貼られていた。内装も、本阿弥光悦や後藤徳乗といった金細工や書のエキスパートを呼んでいたことから、おそらくそうとう豪華なものに仕上げたと想像できる(前掲、『最後の戦国合戦「小田原の陣」』)。
「真田丸」の劇中のセリフでもあったとおり、秀吉はこの石垣山城に側室の淀殿を呼び寄せ、ほかの大名衆にも国許から女房を呼んでよいと指示したと伝えられる。このほか、小田原へは茶人の千利休や芝山監物、芸能者や囲碁・将棋の名人が同行していた。秀吉はいわば京都の聚楽第と周囲の大名屋敷をそのまま関東に移そうとしたのだ。この試みには一体どんな意図があったのか? 前掲の藤田達生『天下統一』には次のように説明されている。
《これはきたるべき大陸出兵に向けてのシミュレーションでもあった。秀吉配下の全大名が海陸を進軍し、何年でも遠征できることをあらかじめ試しておかねばならなかったのである》
そう、秀吉は小田原攻めの時点で、すでに日本の外(具体的には朝鮮・明)にも虎視眈々と目を向けていたのだ。
「真田丸」、今後の展開は?
「真田丸」ではこれまで半年にわたり、真田氏が東国において北条・上杉・徳川といった列強のはざまに置かれながらも、したたかにふるまうさまが描かれてきた。そこでは近年研究が進んだ戦国時代の東国政治史がおおいに参考にされているようだ。一般向けの書籍もここ数年出版があいついでいる。この記事でも参照した黒田基樹『小田原合戦と北条氏』(なお黒田は「真田丸」の時代考証も担当している)のほか、「真田丸」ファンにはおなじみ沼田城をめぐる攻防の経緯については、『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(中公新書)にくわしい。
さて、「真田丸」あす放送の第25回の予告では、秀吉の茶頭(さどう)・千利休が切腹するカットが見られた。このあと7月からの「真田丸」ではおそらく、朝鮮出兵から秀吉の死へといたる過程で豊臣家および家臣団(そこにはもちろん真田家も含まれる)が分裂するさま、そしてそのひとつの帰結として関ヶ原の合戦が描かれることになるのではないか。茶人の域を超えて政治にも強い影響力を持っていた利休の死は果たして、秀吉体制の終わりの始まりなのか――。ただ、三谷幸喜はここへ来てもやっと秀吉が死んだ場面を書き終えたばかりとの話も聞こえる。ドラマの展開のみならず、こちらの進行も気になるところではあります(たぶん大丈夫なんだろうけど)。
(近藤正高)