本田(8番)らが出場した北京五輪は惨敗。グループリーグ3戦全敗に、彼らは心の底から危機意識を高めた(C)Getty Images

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 23歳以下の選手だけで編成された北京五輪代表は、3戦全敗でグループリーグ敗退の憂き目に遭った。だがこの惨敗を糧に覚醒したのが本田であり、香川だった。ほかにも長友、吉田ら北京組がA代表の中核を担う現状から見えてくるオーバーエイジの功罪とは? そこにはリオ五輪のチーム構成を考えるうえでのヒントが隠されている。

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 イビチャ・オシムは繰り返した。「敗戦から学ぶことのほうが多い」。
 
 勝てば辛辣な評定で兜の緒を締め、負ければまるでそれを待ち望んでいたかのような発言をする。典型的な天邪鬼が、実は勝負師の常道を歩んできたわけだが、確かに惨敗した2008年の北京五輪は、知将の教えのとおりにいくつかの学習ポイントを示唆した。

 元々、北京五輪に臨んだ日本代表への期待値は高くなかった。しかも予定していた遠藤保仁が体調を崩したために、OA枠は使っていない。チームを指揮した反町康治監督は「メダル獲得」が使命であるかのようにコメントし続けたが、本大会に進んだ時点でベスト16が確定する五輪の場合は、他の競技との兼ね合いもあり、そう言わざるを得ないところがある。

 結局、北京大会での日本は3連敗で舞台から降りたわけだがその半面、アメリカ、ナイジェリア、オランダと強豪相手にすべてが1点差だった。唯一メダルを手にしたメキシコ大会(1968年)では、準決勝で優勝国のハンガリーに0―5で大敗しているから、当時と比べても世界との差は格段に縮まっていた。

 肝要なのは、北京五輪でピッチに立った選手たちが、心の底から危機意識を高めたことだった。裏を返せば、それだけ世界を視野に入れた向上心の持ち主が揃っていた証でもある。特に大言とは裏腹のパフォーマ ンスに終わった本田圭佑は、並みの心臓の持ち主なら潰れてしまいかねないほど批判や中傷を集めたが、見事な反発力を見せている。

 北京五輪の代表18人中11人が一度は欧州でプレーし、JリーガーでもGK西川周作や森重真人などは日本代表、また豊田陽平も得点王争いの常連になった。逆に充実した北京組の壁に跳ね返され、なかなか下の世代が中軸に食い込めていない。
 ただし北京世代の躍進を、そのままOA枠を使わなかったことと関連付けるのは短絡だろう。おそらく敗戦が反骨心を刺激し、バネになったことは確かだ。しかし一方で勝ち進んだとしても、彼らなら世界との差を一層リアルに認識し、成長の糧にした可能性もある。

 北京五輪でボランチを務めたのは、本田拓也、細貝萌、梶山陽平らの面々だが、遠藤が出場できていれば少なからず戦力アップは望めた。1点差負けが分けに、あるいは勝利へと変わった可能性もある。この年代だからこそ1試合でも多くの真剣勝負が、日常では摂取 できない貴重な栄養になったはずだ。しかし遠藤が席を占めれば、弾き出される選手が出る。遠藤は結果を導いたかもしれないが、それでひとつの可能性を閉ざすリスクもあった。
 
 そう考えると、とりわけ北京五輪のケースは、格好の参考資料になる。遠藤を招集できた場合に、反町監督がどんな選択をしたかは分からない。だが当時十代で選出されていた香川真司が、弾き出されてしまった可能性も否定はできない。この時点で、ドルトムントに移籍して大ブレイクする未来は、誰にも見えていないのだ。

 もちろん香川なら、五輪に出場できなくても成功の道を邁進したかもしれないが、五輪で日の丸をつけたことがフル代表選出へのタイミングを早め、ブレイクを後押しした可能性もある。そして香川の成功を保証するにはユルゲン・クロップ監督が指揮を執るあの10年夏にドルトムントへ移籍する必要があった。こうして振り返っても、OA枠の是非は非常にナーバスな問題になるのだ。