■7月特集 ああ、涙の夏合宿物語(7)

帝京、市立船橋、清水市商、国見、鹿児島実......かつて、日本の高校サッカー界をリードしてきた強豪校を卒業し、プロになってからも活躍する選手の多くは、「今があるのは、高校時代に厳しい練習をこなしてきたからこそ」と口をそろえる。それらの高校では、まさにハードで過酷な練習が、日々行なわれてきたという。なかでも、練習量の多さでは「日本一」と言われていたのが、長崎県の名門・国見高。はたして、国見高の「夏合宿」とはどんなものだったのか、同校出身の三浦淳寛氏に話を聞いた ――。

―― 国見高サッカー部は、高校サッカー界屈指の練習量を誇ると聞いています。普段から、かなりきつい練習をこなしていたと思うのですが、「夏合宿」となると、さらに厳しさが増していたのでしょうか。

「国見高のサッカー部は、夏休みに入ると、チームバスで遠征するんです。長崎県を出発して、佐賀県で佐賀商と試合をして、福岡県では福岡大と試合をして......といった具合に、日本列島を南から北へ、試合をしながら上がっていく感じです。

 なかでも、一番きつかったのは、新潟県での合宿でしたね。全国から強い高校が集まって、僕らのときは、静岡学園とか帝京も来ていたかな。とにかく何校かがそこに集結して、一日、3試合とか4試合とかやっていました。それも、最初の試合のキックオフが朝6時。もう、起きてすぐ、という感じでした」

―― 真夏の暑い日に、3、4試合もやっていたんですか。

「そう。しかも僕らは、他の学校が試合をしているときも、ずっと走っていましたからね。他校の選手たちは、次の試合に備えて日陰で休んでいるのに......。新潟工高のグラウンドでやっていたと思うんですが、そこにはまた、いい具合に走る場所があったんですよ......。

 そればかりか、場合によっては、試合のハーフタイムの間にも走らされていました。前半の内容が悪かったりすると、確実です。でも、そんな状態にあっても、僕らは後半、いい試合をするわけですよ。だって、後半もダメだったりすると、また余計に走らされますから(笑)。ほんと、よく走らされましたよ。水も飲まずに、ね」

―― 今では常識の水分補給ですが、当時はまだだったんですね。

「僕らの頃はまだ、(練習中に)水を飲んではいけない時代でした。いやぁ〜、今の選手なら、間違いなく倒れているでしょうね。

 もっとも、国見は普段からそれくらい厳しい練習をしていました。学校の裏に『タヌキ山』というところがあるんですが、そこをずっと走っていましたからね。途中、田んぼの用水路があるんですが、そこに横倒れになって、はまって動けなくなっているヤツとか、結構いましたよ。あまりにもきついから、そこで水分補給をしていたんです。もう、生きるための本能ですよ」

―― そこまで追い込んでいるから、国見は試合でもあんなに走ることができたわけですね。やはり練習の厳しさは、高校サッカー界随一だったんでしょうね。

「うちと、鹿児島実高でしょう。そういえば、夏休みに鹿実が国見に遠征してきたことがあったんです。あのときは、最悪でした......。

 僕らが試合に勝つと、試合後に、鹿実が延々とダッシュするわけですよ。すると、それを見た小嶺(忠敏)監督(※1)から『うちは鹿実の2倍、走れ!』って指示が出る。それで、僕らが走っていると、今度は鹿実の松澤(隆司)監督(※2)が「国見があれだけやっているんだから」と、鹿実の選手たちがまた、それ以上に走らされる。

 100mぐらいのダッシュを相手が50本やったら、こっちは100本。こっちが100本やったら、今度は相手が200本......と、きりがないんですよ。もう「鹿実は来んな!」って、ずっと思っていましたね。

 他にも、諫早市で試合をやって、そこで負けたときには、学校まで「走って帰れ!」って言われたこともありました。諫早市から国見町まで30〜40kmくらいあったと思うんですが、あれには参りましたね。まあ、僕らレギュラー陣は、わりと早くにバスに乗せてもらったんですが、レギュラー入りするかどうか、という選手たちは、相当走ったんじゃないですかね......。

 あと、遠征に出掛けて試合をするときは、おおよそ着いた瞬間にキックオフという状況が多かったんですよ。つまり、アップの時間がないんです。おかげで、移動中のバスの中で体を動かしたり、ストレッチをしたり、フェリーで移動したときは甲板でアップをしたこともありました。他のお客さんには、いい迷惑だったでしょうね(笑)」
※1:1968年〜1984年まで島原商高の監督を務め、その後、1984年〜2007年まで監督、総監督として国見高を指揮。国見高では6度の選手権優勝を飾る。現在は、長崎総合科学大学および同附属高サッカー部の総監督を務める。
※2:1966年から40年以上、鹿児島実高サッカー部の指揮を執る。選手権の優勝は2回。2011年には、2000年から務めてきた総監督からも勇退した。

―― 今、そんな練習をやっていたら、誰もついていけないというか、保護者とかからも相当なクレームがきそうです。

「そもそも、当時の国見サッカー部には、『国見の練習は日本一きつい』ということがわかっていて、それを承知で入部してきた連中ばかりが集まっていました。だから、みんな覚悟があった。そうした意識の高い選手たちが、レギュラーを目指して日々競争をしてきた。それが、国見なんです。

 だいたい普段の練習以外にも、選手個々が自主的に練習をやっていましたよ。昼休みに筋トレしたりして、僕もみんなのいないところで腕立て伏せとかを繰り返しやっていました。あと、毎朝5時には起きて、朝練の前にひとりでボールを蹴って練習していましたね。そうしないと、国見の練習についていけないし、レギュラーを勝ち取ることもできないと思っていましたから。

 厳しい環境だからこそ、身につくこともありました。例えば、シュート。シュート練習をする緑色の壁が体育館脇にあったんですが、その裏のほうに水道があって、壁の右側のわずかな隙間をボールが抜けていくと、その水道のところまでボールが転がっていくんですね。しかも、そこは(監督がいる)グラウンドからは見えない。だから、シュート練習のときは、みんな、そこを狙っていましたよ。水を飲みたいから。おかげで、正確なシュートが打てるようになりました(笑)。

 とにかく(過酷な状況の中で)必死だったわけですよ。さっき話したウォーミングアップもそう。時間がない中で、どうやって試合の準備をするのか、自分で頭をフル回転させて考える。そういうことから、"マリーシア"とか"ハングリー精神"とかが身についたんだと思いますね」

―― 制約があるからこそ、必死になったり、工夫したりするようになる。そうして、状況判断や考える力も育まれる、ということですね。

「そうですね。そういう意味では、今の子どもたちに"その部分"をどうやって身につけさせるか、というのは課題。水分補給はもちろん、トレーニングなども科学的になって、何不自由なく、厳しい環境に置かれることが少ない。それで、技術的にはうまくなっているのは確かだけど、でも"その部分"がないと勝負には勝てませんからね。

 至れり尽くせりの時代に、どうすればハングリー精神を注入できるのか。僕も、スクールなどで子どもを教えるときには、いつも意識していることです」

―― ところで、国見高と言えば、試合などの遠征の際に、小嶺監督が自らバスを運転していたことで有名です。夏の遠征でもやはりそうだったんですか。

「そうです。遠いところでは、岩手県まで行ったんじゃないかな。どこと試合をしたとかは覚えていないけど、わんこそばを食べた記憶がありますから。そのときも、試合並みに必死でしたよ。監督がじっと見ているから、たくさん食べないと叱られると思って、懸命に食べました。

 小嶺先生はやっぱりすごい人だと思います。朝から晩まで試合をやって、僕らは移動中のバスの中では寝てしまっていましたけど、先生はずっと運転していましたからね。遠征先に行けば、現地の学校の先生たちとの付き合いなどもあったはずで、寝る時間は相当遅かったと思うんですよ。それでいて、朝は僕らよりも先に起きていましたからね。改めてすごいと思います」

―― 水も飲ませてもらえず、ずっと走らされても、ですか?

「当時は、それが当たり前だと思っていましたから。それに、自分たちはみんな、丸刈り頭で、あんなに走ったんだから、都会のお洒落な学校なんかには『絶対に負けねぇ!』という、強い気持ちも備わりました。その分、大会になれば、『優勝して当たり前』と思っていました。試合中、きつい状況に陥っても、あれだけすごい練習をしたんだから、と思ってがんばれましたね」

―― それは、プロになってからも生きていましたか。

「もちろんです。だって、国見の夏合宿以上の練習をしたことがありませんから。つらいとき、きついときは、高校時代のことを考えました。試合で苦しい場面を迎えても、『タヌキ山』のことを思い出せば、また走ることができた。あれをやったんだから、と思えば、どんなことも乗り切れます。(大久保)嘉人なんかも、きっとそうだと思いますよ。僕が、17年間も現役でプレイできたのは、間違いなく国見高での練習のおかげです」

―― では最後に、この夏、もう一度、国見高の「夏合宿」に参加しろ、と言われたら、どうしますか?

「絶対に、嫌です(笑)。とても、無理です......。でも、もしも息子がいて、本気でサッカーをやりたいと言ったら、国見高に行かせるかもしれません。きついですけど、学べることがたくさんありますから」

【プロフィール】
■三浦淳寛(みうら・あつひろ)
1974年7月24日生まれ。大分県出身。サッカー解説者。国見高、青山学院大を経て、Jリーグの横浜フリューゲルス(1999年に消滅)入り。以後、横浜F・マリノス、東京ヴェルディ、ヴィッセル神戸、横浜FCなどで活躍。左サイドバックとして、日本代表でも奮闘した。国際Aマッチ出場25試合1得点。国見高1、3年時に高校選手権優勝。

川端康生●構成 text by Kawabata Yasuo