35年にもわたってさまざまなテーマのルポを執筆してきた北尾トロさん(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第56回。

北尾トロさん(61歳)は、さまざまなテーマのルポを執筆するフリーライターだ。

何度も裁判所に通い、リアルに殺人、DV、詐欺、強姦――などの裁判を傍聴して描いた『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)は60万部を超える大ベストセラーになった。作品は、漫画化、映画化もされて世の中に広く浸透した。

「初恋の人に23年ぶりに告白する」「激マズ蕎麦屋で味の悪さを指摘する」……など、人がやりたくないことを勇気を出してやってみる『キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか』(幻冬舎文庫) も10万部を超えるヒット作品だ。


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2007年からは日本に「本の町」を作るべく活動、長野県伊那市高遠町にてブックフェスティバルを開催した。

2010年からは“人生の役に立たない”をテーマにした専門雑誌『季刊レポ』を創刊し、編集・発行人となった。

60歳を超えた現在も「町中華」や「狩猟」など新しいテーマを精力的に取材して興味深い作品を世に放ち続けている。

北尾さんはどのような人生を経てライターになったのか? 西荻窪のタイ料理店で話を聞いた。

中学生の頃は「いじめられた」

北尾さんは福岡県福岡市で生まれた。小学校時代は九州ののんびりとした環境で育った、ごく普通の素朴な少年だった。

「中2のときに父親の転勤で兵庫県尼崎市に引っ越して、それからが大変でした」

九州と尼崎では言葉が全然違う。聞き慣れない九州弁を使う転校生はいじめられた。暴力も受けた。

もともとは明るかった北尾少年だが、尼崎ですっかり縮み上がってしまった。

「当時は“学校をサボる”という発想もなくて、とにかく『しゃべるとトラブルになるから、しゃべらないでおこう』って思いました。中2のときは、1年間ほとんどしゃべらないでいましたね」

北尾少年は、まったくしゃべらずにジッとしている不気味な存在になってしまった。ものすごくつらく、ひたすらに長い1年だった。

「クラスの中で押し黙っている自分を、俯瞰して見ている自分がいるんです。

『今日も暗い。だれも寄ってこない』

って、割と冷静に分析している。もうあんまりにも苦しくて苦しすぎて、逆に楽しくなってくるんですよ。

『よし!! こうなったらガマンくらべだ!!』

とか、状況を無理やりエンタメ化して自分をなぐさめる習慣がつきましたね。そうしていないと、孤独で孤独でおかしくなっちゃう。

今思えば、その1年で“自分を客観視して面白がる”というライターとしての資質が身についたのかもしれません」

中2の頃は、学校に行かなくていい日曜日だけが楽しみだった。毎週、自転車で兵庫県伊丹市にある映画館に通っていた。

「自転車で行くんです。『伊丹グリーン』と『伊丹ローズ』って名画座が同じビルの1階と地下にありました。2本立て150円だったから中学生でも通えました。

伊丹グリーンは主にマカロニ・ウエスタンをやっていて、大好きでした。映画を見ながら『ぶち殺せー!!』って、ストレス発散してたんでしょうね(笑)。

伊丹ローズは少しだけエッチな映画をやっていて、見たいんだけど見られない。でも毎週通ってたら受付のおばちゃんに『あんた毎週来てるでしょ。いいよ入って』って言われて見られるようになりました」

中学3年に進学するときにクラス替えがあった。当時は1学年の人数も多く、中2のときに同じクラスだった人は3人くらいしかいなかった。

『ここしかチャンスはない!!』と思い、勇気を出して手近な人に話しかけた。すると普通に会話をすることができ、それからは友達もできた。

「友達はできたんだけど、1人で映画館に行くクセはなおらなかったですね。

中3から高1までは楽しく過ごしましたけど、それでも大阪はやっぱり好きになれなかったです」(尼崎は兵庫県だが、大阪の文化圏と言われることが多い)

そのまま尼崎の高校に進学したが、高校2年で今度は東京の立川市に引っ越すことになった。好きなバンドマンがかつて在校していた高校を選び編入することにした。

「すごい奥手で彼女もいなかったです。麻雀を覚えて、ずっと麻雀ばかりやってましたね。あとは府中競馬場が近かったので、競馬も好きになりました。当時はアイフル、ヤマブキオー、カブラヤオーといった強い馬がいて好きでした。そんなことをしていたら大学入試に失敗して浪人することになりました」

浪人が決まった後、北海道に旅行に行った。最初は北海道をグルッと回ろうと思っていたが、旅の途中で出会った人に

「競馬が好きなら日高の新冠(にいかっぷ)に行くといいよ」

と言われたので、素直に足を運んだ。

「競走馬の牧場ばっかりで楽しくてしかたなかったです。新冠のユースホステルにいたら、少し年上の人たちがダラダラと過ごしてるんです。それがいい感じで。『ボブ・ディランは聞いてるの?』とか音楽を教えてくれたりしました」

旅行中に知り合った1人が、東京に帰ってきた後に連絡をくれた。

「浪人でヒマしてるなら手伝って」

と言われ、音楽関係の仕事を手伝った。まだ10代の北尾さんは、最年少だったのでいろいろかまってもらえて楽しかった。

「サラリーマンにだけはならない」

大学受験も法政大学に合格して、「いよいよ人生楽しくなるぞ!!」と思っていたときに父親が急逝してしまった。母親と妹は、母親の出身地である福岡県に帰ることになったが、北尾さんは東京に残って父親の会社の寮から大学に通うことになった。

「浪人時代に出会った、面白い年上の人たちが自由にがんばってるのに惹かれました。

そしてずっと地味にがんばってきて『そろそろ家でも建てようか』と思っていた頃にポックリ死んでしまった父親を見て『真面目にコツコツなんてダメだなあ』と思いました。その頃は将来の夢もなんにもなかったですけど『サラリーマンにだけはならない』ということだけ決めました」

大学在学中にタイ・インド旅行に行った。帰ってきたら、単位計算をミスしていて留年していた。

「親には『学費は出さないよ!!』って言われてアルバイトすることにしました。高円寺でビニ本を売る店の店長をしてましたね」

卒業後は『会社員にはならない』と決めていたが、とくにやりたいことはなかった。

好きなものと言えば、毎週通っていた競馬ぐらいだった。

「競馬専門誌で働くというのはどうかな? と思いましたけど、朝早く起きて茨城県のトレーニングセンターに行かなきゃいけないのはしんどいなと。やっぱり馬券で食うのがいいなと思いました」

そこで測量のアルバイトをはじめた。

終電が終わった後、地下鉄に入って地盤沈下やひび割れを調査する仕事だ。

「週払いのアルバイトだったのが非常によかったです。金曜日に給料が出るから、土日に競馬に行く。儲かったら仕事休むし、負けたらまた働けばいい。すっからかんになっても仕事に行けばメシを食べさせてもらえました。『全額、競馬につっこめる』のがよかったんです」

北尾さんの計算だと、4連勝すればかなりの金額を手に入れることができるはずだった。4連勝する“その日”が来れば、一気に大金を手に入れてバラ色の人生を送ることができる。

「いつか必ず“その日”が来るに違いないと思ってました。まあ、妄想だよね(笑)。」

そんなおり、母親から連絡があった。就職しないなら、帰ってきて母親の実家の家業であるお菓子屋を手伝えと言われた。

「『それは嫌だ。人生終わりだ』って思ってとりあえず『アテはある!!』って言いました。慌てて新聞の3行広告を見たら、百科事典の販売の仕事を募集してたのでそこに行きました」

試験もなく、運転免許さえあればできる仕事だった。昼休みに会社に残っていると、上司に

「将棋でも指そうか」

と誘われた。早指しをすると北尾さんが勝った。上司は

「もう一度やろう!!」

と言ってくる。次は、上司が勝った。その時点で12時40分くらいだったが、上司は1人で盛り上がって

「決着をつけよう!!」

と言ってきた。

「結局、もう1戦して上司が勝ったんですが、『やったー!!』って喜んでて。バカみたいだなって思って『辞めます』って言って帰ってきました」

仕事を辞めたことは親には言えなかった。「がんばってるよ」と言ってごまかしていたが、その後「お盆に一度帰ってこい」と言われた。

「おふくろと妹が自動車で迎えに来てくれたんだけど『毎日仕事で運転してるんでしょ、代わってよ』って言われたんです。ペーパードライバーだからマニュアルの運転はできなくて焦りましたね」

母親はすべてお見通しだった

うまく運転できなくて困っていると、母親が

「知ってんのよ。とっくに仕事辞めてるでしょ?」

と言ってきた。母親は、

・就職する
・実家の菓子屋で働く
・学生になる

のいずれかを選べと言った。

「たまたま競馬で10万円勝ったときがあって、新聞で学生を募集していた半年コースのマスコミ関係の夜学にもぐりこみました。結局、1回しか行かなかったけど」

母親には

「一度も言わなかったけど、実はジャーナリストを目指してたんだ」

と適当なウソをついた。これで半年間の猶予はできたとホッとした。

そんなとき、大学の後輩から連絡があった。彼は編集プロダクションでアルバイトをしており、北尾さんは企画会議のネタ出しなどを手伝ったことがあった。後輩は実家で公務員になることが決まっていて、会社に『辞める前に後釜を連れてこい』と言われていた。

「最初は『俺には地下鉄がある』なんて言って断ったんだけど『一度社長に会ってくれたら、僕が辞められるのでお願いします』って頼まれて、さすがに気の毒だなと思って会社に行きました」

会社は、人手が足りておらずすぐに採用された。地下鉄のバイトも続けつつ、編集プロダクションでも働くことになった。

雑誌『スコラ』の仕事を手伝うことになった。仕事初日に『ゲラが出るからチェックしてこい』と頼まれた。

「編集部についたら『赤入れといて』って言われて。赤? 赤ってなに? ってなりました」

編集部の人には聞けないなと思い、社長に電話して「赤ってなんですか?」と聞くと、「赤も知らないのか!! そこらに赤鉛筆が転がってるから適当になおせばいいんだよ!!」と言われた。

(編集部註:赤入れとは、校正作業のこと。原稿の誤りを修正する作業。赤い筆記用具で支持することが多いので、赤入れと呼ばれる)

「適当にぐりぐり書いてたら、怒られてね。ちゃんと書け!! って。終わった頃には終電もなくなっちゃって、青山一丁目から高円寺まで歩いて帰りましたよ」

こんなことなら地下鉄のアルバイトだけをやっていたほうがましだったと思い「辞めさせてください」と言ったが「ダメだ。1カ月は続けてもらわないと」と断られた。1カ月たった頃にまた「辞めさせてください」というと「なんだ待遇か。じゃあ給料上げるから続けて」と言われて、辞められなかった。

編集プロダクションでは、編集作業、企画出し、ライティングと一通りの仕事をした。

その頃に、その後何十年にもわたって公私共に親しくするライターの下関マグロさんとも出会った。下関さんは他社から出向してきていた。

「しばらくして編集プロダクションは辞めました。そこで出会ったライターさんに『ライターになっちゃえばいいじゃん』って言われましたけどね。電話は苦手だったし、取材に行くのもめんどくさかったし、向いてないなと思ってました」

家賃を払えない代わりに

その頃、いろいろあって住む家を追い出されてしまった。先輩のライターの家に居候させてもらうことになった。

家賃は払えないが、代わりにライター仕事の手伝いをした。

「先輩の家にいたら飯は食えました。仕事をしてないので、毎日プールに行ってましたね。プールで文庫本読んで『今日も充実した1日だったな〜』なんて思ってました」

ある日、同じくフリーランスになっていた下関マグロさんから、

「アダルト雑誌にコラムを書いてくれ」

と頼まれた。

「それがはじめての署名原稿でした。ギャラも安かったけど、払ってもらいましたし。自由に何書いてもよかったですね。たしか『歌舞伎町について』など書きました。今読んだらつまらないと思いますけどね(笑)」

ある日、先輩の部屋に帰ると、先輩と先輩の彼女がイチャイチャしていた。

「『あ……』とは思ったけど、こっちも行くところがないから『俺は平気ですから!!』っていって、となりの部屋で寝ちゃったんですよ。そしたら翌日先輩から『そろそろ出てってくれないか?』って言われました」

北尾さんも先輩ライターが嫌になってきていたので、素直に出ていった。

親に頭を下げてお金を借りて、吉祥寺に引っ越した。初めて風呂付きのワンルームマンションに住んだ。

「実質そこからがライター生活の始まりでしたね。26歳でした。

『ライターになるぞ!!』という感じではなく『ものすごい楽ちんな業界見つけちゃったな。しばらくやるか』って感じでした」

同居していた先輩ライターともまだつながっていて、彼が作った編プロで仕事をもらったりもした。

ビジネス雑誌のデータマンや、ファッション誌のモデルの手配などいろいろな仕事をした。

「自分の悪いところは、興味がない仕事は非常に雑になっちゃうんですよ。一生懸命やんない。やっぱ俺は競馬雑誌がいいんだけどな〜なんて思いながら日々過ごしてました」

そんなある日、学習研究社の編集者から声がかかった。

「僕はアフリカ雑誌を作ろうと思ってるんだ。君にはバンバンアフリカに行ってほしいんだ!!」

と言われた。

「行きますよ!! と即答しました。でもそれから半年間なんの動きもなくて、企画つぶれたのかな〜と思っていたら『至急会いたい』と連絡が入りました」

「アフリカ雑誌じゃなくて、スキー雑誌になっちゃった。これからはスキーだよ!!」

と言われた。ずいぶんな方向転換だが、時代はバブル景気の頃だ。映画『私をスキーに連れてって』もヒットした時期で、読みはあながち間違っていなかった。

「『スキーなんてやったことないです』って言ったんだけど、それでも構わないって言うんですよね。マッさん(下関マグロ)とかを誘ってみんなでスキー合宿に行ったけど、誰もやる気ないの。コーチも怒っちゃって『お前らやる気あんのか!!』って怒鳴られて『ねーっす』って答えてました(笑)」

スキーに興味はわかなかったが、企画は動き出してしまった。いきなり、

「スイスの世界選手権に行って取材してきてくれ。それからスイスのツェルマットのスキー場で遊んできて」

と依頼された。バブル景気の頃だから、お金には余裕があった。

スキー雑誌の取材はもちろん降雪があるシーズンだけなので、最長でも12月〜5月までの半年間だった。

「『こりゃいいや。1年の半分は遊びだ』って思いましたね。取材の時期は経費で飲み食いできるし、日当が出たので食うには困りませんでした。もちろんカツカツですけど、20代後半は『東京にいられればいい』『食えればいい』って感じでした」

バンドをはじめたり、海外旅行に行ったりと、楽しい日々を過ごした。

下関マグロさんと会社員の岡本さんと組んでいたバンドは『能天気商会』という名前だったが、そのままの名前で編集プロダクションにした。

そこで、3〜4年ビジネス雑誌などの仕事をこなしたが、そのまま解散してしまった。

バブルのバカ騒ぎを見て腹が立ったが…

「結局、僕らがついていたのは“景気がよかった”ことなんですよ。当時は金を持ってなくて、テレビなんかで流されるバブル景気のバカ騒ぎを見て腹が立って『早く終わっちまえ!!』と思ってたけど、でも今思えばその恩恵で食えてたんですね。つまらない仕事だったとしても、仕事がまったくなくなることはなく、なんとかなってました」


思えば好景気の恩恵を受けていた(筆者撮影)

その後、競馬の本を出版した。しっかりと取材をして作った。本はあまり売れなかったが、楽しかった。それまでは雑誌に書く仕事ばかりだったが、1冊の本を作るのはまた違う楽しみがあるんだと知った。

そして『裏モノの本』(三才ブックス)などで、自分の興味があることや、あやしいと思うことを取材して記事にする仕事をはじめた。

「スキー雑誌なんか目じゃないほど楽しかったですよ。ムックだから15〜20人くらいのライターがテーマ別に書くんです。いつも『いちばん面白いルポを書きたい』って思ってました」

そして雑誌『裏モノJAPAN』(鉄人社)が発刊され、連載をすることになった。

“小さな勇気”をテーマに毎回さまざまなことにチャレンジする『365歩のマーチ』という連載だった。この連載はのちに単行本『キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか』としてまとめられる。

「毎月毎月大変でしたよ。40歳手前のあの時期じゃないとできない仕事でしたね」

この連載で人気が出たのは、北尾さん自身が“平凡な男”だからではないかと思う。

「俺は中流家庭に育った平凡な男です。人のやらないことをやるタイプじゃない。でも『平凡は読者に近い』んですよ。読者から共感を得られます。奇抜なことをやるとき、毎回はじめてのようにビビります。普通のライターは慣れてしまうんですけどね。そこはいいところなのかもしれない。

今までいろいろな本を出してきたけど自分では“鼻毛本”がいちばん好きですね。思い出深い1冊です」

この頃、サブカルチャーの雑誌で書くライターが注目されていた。

筆者(村田らむ)もちょうどライターの仕事をはじめた頃で、北尾トロさんに強く興味を寄せていた。

「自分では注目されてるって感覚は全然なかったですね。そもそもサブカルチャーで仕事をしてるとも思ってなかったですし。歳をとってから若い編集者に『高校のときすげえ読んでました』とか言われてはじめて、『へえそうなんだ』って思ったぐらいです」

北尾トロさんの同世代のライターは、みうらじゅんさん、えのきどいちろうさん、など現在も活躍している人も多い。

ただ北尾さんは、彼らと同じ土俵に立っている気はまったくなかったという。

「俺はメジャーな雑誌ではほとんど書いてなかったですし。エロ本や専門雑誌とかが中心で、日当たりがいい場所を歩いてないですから。彼らのことは『面白いな〜』と思ってたけど、それ以上はなんにも考えてなかったですね。うらやましいとかもなくて。もともと人のことは気にならないタイプなんですよ」

他人や理想、昔と比較しない

北尾さんのモットーに『比較三原則』というのがある。

●他人と自分を比較しない
●理想を高くもって、その理想と現状を比較しない
●昔の自分と今の自分を比較しない

というものだ。

たしかに『比較三原則』を守れば生きるのが少し楽になりそうである。

『365歩のマーチ』の連載を終えた後は、ちまたにいるエロジジイを取材する『ニクイ貴方』という連載をはじめたが、読者受けが非常に悪かった。そこで急遽、新しい企画を考えることになった。

編集部で企画が決まらなくて悩んでいたところ、若い編集者が

「裁判って誰でも見に行っていいらしいですよ」

と言った。

「『裁判を傍聴するって面白そうだな』ってはじめることになりました。3年くらい連載しました。裏モノJAPANの最後の連載でしたね」

連載終了後は連載をしていた鉄人社から単行本が発売された。重版はかかったものの、さほど売れたわけではなかった。

数年後、文藝春秋から「文庫化したい」と声がかかった。

「ちょうど裁判員制度がはじまるころで、話題になると思ったんでしょうね。素直にうれしかったです。声がかかった翌日に幻冬舎から電話があってやはり『文庫化したい』って言われたんですよ。断ったら『だったら“鼻毛本”を文庫化させてほしい』って言われて2日で2冊の文庫化が決まりました。そのときは、ネタがないんだな〜って思ったくらいでした」

そして『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』は爆発的に売れた。毎週、100万円単位のお金が入ってきた。

「『これか!!』って思いました。話には聞いてたけど、これがベストセラーを出すってことかって」


『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』は映画や漫画にもなった

編集者からは

「これからもどんどん入金されますけど、いつかは止まりますので金銭感覚がおかしくならないように気をつけてください」

と注意された。

『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』の売り上げに引っ張られる形で『キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか』も売れた。

そうなると、さまざまな出版社の人間に会いたいと言われた。

「もういっちょいきませんか? 裁判モノで!!」

と声をかけられる。

「警戒心は湧くんだけど、うれしさもあるんですよ。『ついに俺のことに気づきやがったか』って。でも、もう少し俯瞰して見ている自分がいて『この状況は面白いぞ』って思うわけです」

それまではただのいちライターだったのに、1冊売れたことにより有象無象が寄ってきて、“北尾トロ”を消費しようとする。

「俺の本が面白いとか、文章が好きとか、いっさいないんだから(笑)。瞬間的に売れっ子になったから、寄ってきた人は多かったけど、だいたい断りましたね」

しかし「売れるのは大事だな」と思った。やりたいことに時間とお金をかけられる。お金があれば、いろいろと遊べるな、という感覚だった。

「“本の町”というのがやりたくて、長野県南部の高遠町に古本屋を出してブックフェスをやりました。結局1000万円くらい赤字を出して、撤退しました。

それでもまだお金があったので、雑誌を作りたいと思い『季刊レポ』を発刊しました」

『季刊レポ』は年間4冊発刊するペースで5年間続けた。合計20冊の雑誌を出した。

始めたのは2010年で、すぐに東日本大震災が起きた。2012年には長野県松本市に移住した。

「レポはやりきったと思って辞めました。すごい楽しかった。だいたいのことは5年もやればいいかと思います。ネット古本屋も盛り上がっていって、俺より情熱的な人があらわれたからもういいかなと思いました。俺は次にいきたいなって『あとはたのんだ!!』って気持ちになるわけです。俺はやりたいことがいろいろあって、やりたいことはやらなきゃって思ってます。うちの親父がそうだったように、いつ死ぬかわからないですからね」

猟師に聞くのが難しいなら、猟師になればいい

移住した長野県松本市では狩猟をはじめた。

「最初は『猟師にインタビューしてくれませんか?』って依頼だったんですけど、なにもわからないのにインタビューするのはむつかしいです。足元見られちゃうから。『だったら猟師になればいいのか』って思いました。猟師仲間なら少なくとも話は聞けるだろうって」

『猟師になりたい!』(KADOKAWA)、『猟師になりたい!2 山の近くで愉快にくらす』(KADOKAWA)、『晴れた日は鴨を撃ちに 猟師になりたい!3』(信濃毎日新聞社)と3冊の本を出した。

現在、狩猟免許をとりたい人は増え、試験の予約をとるのもむつかしい状況になっている。これには北尾さんの活動の影響も強くあるだろう。

下関マグロさんとはじめた、町にある普通の中華料理店を回る「町中華探検隊」も『町中華とはなんだ 昭和の味を食べに行こう 』(立東舎)、『町中華探検隊がゆく!』(交通新聞社)と2冊が発売されている。

「今まで話したのはうまくいった例です。ネット古書店、裁判傍聴、狩猟、町中華、山田うどん、くらいはまあまあ成功しましたね。小さい失敗は山ほどしてます。去年は、ピロシキにはまって、ピロシキばっかり作ってました。最初は松本に名物を作りたいという気持ちだったんですけどね。

『ピロシキはくるぞ!!』

って言ってたけど、ぜんぜんこないし(笑)。イベントで1回販売したら、それで満足しちゃった。

でもこんなに飽きっぽいのにライターだけはもう35年もやってるんですよね。ライターだけは飽きないんだな、と思います。書くのが好きなのか、思いついたアイデアを文章で表現するのが好きなのか、よくわからないんですけど」

北尾トロさんがいちばん恐れているのは、『やりたいことがなくなる』ことだという。

「俺たちの仕事は自転車操業、ペダルをこいでなんぼだから。『今月は休み!!』って思っても、脳は新しい企画を考えちゃってる。面白いことを探しちゃってる。足は止まってないんですね。

だから、面白いモノを見ても、何も感じなくなるのは怖いですね」

まだまだやりたいことがある

幸い北尾さんには、まだまだやりたいことがあるという。

「雑草みたいなところからはじまったのに、ベストセラーを出すこともできたし、いろいろ面白い経験もできてよかったです。ベストじゃないけど、まあまあいい人生だったと思います。

でもまだ『もう1回売れたら今度は、もっとうまくやるぞ』って思ってます。この気持ちはなくちゃダメですね。

『売れなくてもよいものが作れたらいい』とかはダサいから。売れたほうがいいに決まってるんだから」

北尾さんは今でも新しい本が発売される前には興奮状態になるという。

「『本が発売されたら大変なことになっちゃうよ!! まいったな〜』って思うわけです。で、実際に本が発売されたらシーンとしちゃったりするんだけど(笑)。

恥ずかしいし、いいかげん大人になれとも思うけど、でも『売れる本を出そう』と思うことはとても大事なんですよ」

と北尾さんは締めくくった。

どこか飄々(ひょうひょう)とした雰囲気のある北尾さんが『作品をヒットさせたい』というガツガツした気持ちを今でも大事にしているのは驚いた。

たしかに筆者自身に置き換えてみても、「売れることがすべてじゃない」と自分に言い聞かせて逃げていることは多い。

「よりたくさん売れたい」

「より多くの人に読まれたい」

と正直な気持ちで作品を作っていきたいな、と思った。