ココイチ創業者「シャツは980円で十分」
■53歳で経営を引退、やり尽くした思い
思えばもう16年前のことになります。私がカレーハウスCoCo壱番屋(ココイチ)の経営から退いたのは、2002年、53歳のときでした。世間の反応は、当然のことながら「その年でなぜ?」「何かするために引退したのですか?」というものでした。
私は若くして創業し、創業後は少しでも会社を発展させたい一心で仕事第一でやってきました。引退直後、知人の経営者から「宗次さんがそんな思い切った決断をできたのは、やり尽くしたからでしょうね」と言われましたが、そのとおりだと気づかされました。自分は確かにココイチの経営をやり切った、と実感したのです。
当時は私が会長、妻の直美が社長でしたが、直美もこのとき社長を退きました。直美の後を受けたのが、現社長の浜島俊哉です。
浜島という人は真面目で人間に裏表がなく、誰に対しても公明正大。それで後継者に指名しました。人生をかけて大きく育てた会社を、信頼できる後継者に委ねられたことは、経営者にとって何より幸福なことだったと思っています。
■1000通以上のアンケートに3時間かけて目を通す
ココイチの社長時代、私は毎朝4時に起き、社員の誰よりも早く5時前には出社していました。会社に着くと全国のお客様から届く1000通以上のアンケートに3時間かけて目を通します。それが終わると会社の前と近所の掃除をして、会議に出たり、制服を着て多い日には10軒以上の店を視察します。休みは年間15日ほど、退社時間は23時くらいです。そこまで仕事に夢中で取り組めたのは、業績が伸び続け経営が面白かったからです。
私の経営の原点は、25歳のときに直美と開いた喫茶店です。名古屋ではほぼすべての喫茶店がモーニングサービスをつけますが、うちは一切やりませんでした。仕入先の社長からは「名古屋でそんな店はないですよ。やめなさい」と強く言われましたが、ゆで卵やトーストなどの「おまけ」ではなく「笑顔と接客」で他店と差別化しようと最初から考えていました。
その後、カレー専門店(ココイチ)を出すときも「家庭風カレー店なんて、こんな場所で上手くいくわけない」と忠告されました。
■一度もコンサルタントに頼らず、わが道を行く経営
ココイチ開業当時の目標は日商6万円。「月商150万円を超えたら2号店を出そう」と妻と話していました。ちっぽけな目標でしたが、お手本なし、経営の先生なしで、目の前の仕事に夢中になって取り組むうちに、店は100店舗、500店舗と増えていきました。その間、たとえば飲食業のコンサルタントを頼ったりすることは1度もなく、わが道を行く経営を続けました。
充実した経営者人生を卒業し、さあ、次に何をやろうかと考えたとき、迷いなく心に浮かんだのが「社会貢献」でした。引退後すぐに「イエロー・エンジェル」というNPOを立ち上げました。現在は、毎日の街の掃除や児童養護施設・ホームレスの支援、経済的な都合で働かざるをえない学生への奨学金の援助などを行っています。
社会貢献をしようと決めたのは、私自身の生い立ちも関係していると思います。私は孤児院で育ち、3歳で養父母に引き取られましたが、養父のギャンブル癖のために生活は困窮しました。中学校を卒業するまでは、電気のない生活を送っていたのです。それでも私は無事大人になり、会社を起こして思いどおりの人生を送ることができました。養父母をはじめとする周囲の人たちのおかげです。
■寄付ではなく、人として当然の「助け合い」
その恩を、ひとり占めするわけにはいきません。今、食べるものがない、医者に行けない、学校に通えない。そんな困っている人に手を差し伸べる。それは寄付ではなく、人として当然の「助け合い」だと私は考えます。寄付だと思えば「余裕ができてから」と先送りしてしまいがちですが、助け合いなら、今すぐ必要なことですから。
今の私のライフワークの1つは、クラシック音楽を通じた社会貢献です。07年に開館したクラシック音楽専用の「宗次ホール」の運営とともに、愛知県の小・中・高校のブラスバンド部へ楽器の提供を行っています。
クラシックとの出合いは高校1年のとき。私は中学卒業後すぐに働きたかったのですが、先生の強い勧めもあって高校に進学しました。養父が病で亡くなり養母との2人暮らしを始め、ようやく暮らしが安定した頃でした。
クラスメートが中古のテープレコーダーを5000円で譲るというので、豆腐屋でのアルバイトで得たお金で購入しました。早速家に持ち帰ってテレビをつけると、たまたまNHK教育テレビで「N響アワー」を放映しており、矢も盾もたまらず録音スイッチを入れました。そこで流れたメンデルスゾーンのバイオリン・コンチェルトが、私の心の琴線に触れたのです。
■愛用の腕時計は7800円、シャツは980円の既成品
そのテープは擦り切れるほど聞き返しましたが、25歳で独立してから引退するまでの30年近くは、きちんと音楽を聴いた記憶がありません。我慢していたのではなく、仕事に没頭していたからです。車の運転中に聞いていたのは、営業所の会議や直営店の朝礼を録音したテープです。それを聞くと「ああ、あのパートさんは今こんな様子なんだな」とイメージが湧くのです。
引退して5年ほど経った頃、名古屋市内に自宅を探していたとき、たまたま中心部の栄地区でまとまった土地を買うことができました。そのとき初めて、ここなら小規模なコンサートホールを建てられるな、とひらめきました。それでつくったのが宗次ホールです。
クラシック音楽に親しむ人が少しでも増えるよう、ホールでは年間400回の公演を行っています。クラシックのホールを事業として成り立たせるのは非常に難しく、赤字続き。社会貢献としての経営ですが、いつか収支トントンになればいいと思っています。
贅沢には興味がありません。愛用の腕時計は7800円、シャツは980円の既成品です。自分の贅沢のためにどれほどお金を使っても、最後には空しさが残るだけでしょう。しかし助け合いのためにお金を使えば、私たちはともに温かい気持ちになることができ、額面の何倍もの価値を生み出します。
助けを必要としている人のためにお金を使うことは、「究極の贅沢」だと私は思います。助け合いが、世の多くの経営者・資産家の方々への啓蒙になればと強く思います。私のただ1つの夢は、助け合い社会の実現です。
カレーハウスCoCo壱番屋創業者/70歳/家族(妻●68歳 長男●38歳)
1948年:石川県生まれ
1967年:愛知県立小牧高校を卒業、不動産会社に就職
1970年:大和ハウス工業名古屋支店に転職
1973年:宅地建物取引業を創業
1974年:名古屋市内に喫茶店を開業
1978年:カレーハウスCoCo壱番屋を創業
2002年:同社の経営から引退
2003年:NPO法人イエロー・エンジェルを設立
2007年:宗次ホールを開業
(カレーハウスCoCo壱番屋創業者 宗次 徳二 構成=大越 裕 撮影=山口典利)