過食症、退職を乗り越え、結婚した男性の現在とは?(イラスト:堀江篤史)

30歳目前で過食症を患って会社を辞め、実家で5年間引きこもっていた男性がいる。ようやく回復してきた頃に一念発起してスポーツジムに通って体を引き締め、何十社も受験して再就職を果たし、昨年春には結婚もした。現代の小さな奇跡、と言ったら大げさだろうか。


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「結婚してから、夕食後に柿ピーを食べる習慣がついてしまい、また太り始めています。気をつけなくてはいけませんね。妻は以前は痩せていたのですが、いまは私と一緒に柿ピーを食べているので太りつつあります」

照れくさそうに話すのは長井進一さん(仮名、41歳)。確かにシャツがはち切れそうなお腹をしている。ただし、今回はストレスからの過食症ではなく、幸せ太りだと言えそうだ。

大病、婚約破棄、失業のトリプルパンチ

大学卒業後、愛知県内の大手メーカーに就職した進一さん。勉強熱心で向上心も強かったが、協調性が欠けていたと振り返る。

「職場で孤立してしまいました。当然、仕事もうまくいきません。ストレスが食に向かい、どんどん太ってしまいました」

当時、進一さんには2年ほど交際している女性がいた。1歳年下の由里子さん(仮名)だ。出会いは、社内の食堂。栄養士として働く由里子さんを「かわいいな」と思って話しかけ、デートをするようになったという。

このエピソードだけでも、進一さんは積極的な性格の持ち主だとわかる。職場の同僚ならばともかく、食堂で働く人に声をかけてデートできる人は多くない。しかも、進一さんと由里子さんは結婚を視野に入れて真剣交際をしていた。

「婚約をして、式場も予約し、結婚指輪も買っていました。もちろん、彼女の両親へのあいさつも済ませていました。でも、私が体調を大きく崩したことが彼女の両親に知られて、お母さんの反対を受けてしまって……。お父さんのほうは何も言わなかったようですが、ずっと専業主婦だったお母さんとしては娘の将来が心配だったのでしょう。彼女も急に弱気になり、電話にも出てくれなくなってしまいました」

進一さんの症状は悪化し、退職せざるをえなくなる。大病、婚約破棄、失業。トリプルパンチである。唯一の救いは、守ってくれる実家があったことだ。

「両親は黙って私を応援し続けてくれています。でも、実家に引きこもっていた頃は、毎日のように『あのときにああすればよかったのかな』と後悔ばかりで苦しかったです。当時は体重が130キロもありました。太りすぎて歩けないので家で寝てばかり。するとまた太る。悪循環でした。30代前半といえば、仕事で力を発揮し始める時期ですよね。結婚をする人も多い。それなのに自分はどん底です。同級生から送られてくる幸せそうな年賀状を見るのがつらくて、返信しなくなってしまいました」

そんな状態が5年近くも続いた。進一さんもつらかったと思うが、とっくに成人した息子を丸ごと引き受ける両親の心労も尋常ではない。それでも進一さんを信じて守ってくれたのだ。

同世代からの遅れを取り戻したい

ようやく体調が回復してきたと感じられるようになったのは34歳のときだった。まずは体重を落とさなければならない。進一さんは近所のスポーツジムに通い始めた。

「どこかに通うようになると社会とつながるものですね。ジムには生き生きとしたお年寄りがたくさんいて羨ましくなりました。自分はこんな状態ではいけない、結婚しなくちゃダメだと思ったんです」

いきなり結婚とは唐突な気がする。しかし、愛知県三河地方で生まれ育った進一さんの体には「普通に就職して普通に結婚する」ことが価値観として染みついているようだ。筆者も同じく三河地方に住んでいるので進一さんの気持ちはわかる気がする。仕事がたくさんあって気候も良くてとても暮らしやすいけれど、多様性は少ない土地柄なのだ。製造業が盛んだからなのか、「夫は外で稼いで妻は家を守る」という風潮も根強い。

体調が回復して気持ちが前向きになるにつれて、「同世代からの遅れを取り戻したい」という意識が強くなった進一さん。心配をかけた両親を早く安心させたい、という側面もあったのだろう。

とにかく再就職先を探さねばならない。進一さんはハローワークおよびネットの転職エージェントに登録。5年間のブランクが災いして、書類審査で落とされてしまうことが多かったが、50社ほどは面接を受けられた。まじめな進一さんは面接トレーニングのセミナーにも通って必死で準備。1年間の就職活動の末、県内の中小企業への再就職を果たした。37歳になっていた。

「今のところは休まずに働けています。年下の先輩社員に仕事を教えてもらいながら、ですけどね。かつて大企業で働いていたというプライドはもうありません。同僚はみんな優秀ですから私も頑張っています」

再就職が決まると同時に、婚活も始めた。ただし、5年間も実家で引きこもっていた身の上で高額の結婚相談所に入ることはできない。進一さんはネット婚活に加えて、県内の各自治体にある結婚相談所に着目した。

「地元の婦人部などが運営していて、市役所内に窓口があったりします。入会金は2000円ぐらいで、1回お見合いするごとに1000円を支払うところが多かったです」

進一さんは行動力がある。実家から通える範囲の10カ所ぐらいに登録し、100人以上とお見合いをした。しかし、大半の女性とは1度しか会えなかった。再就職して1年未満であることが不安材料だとはっきり指摘されたことも少なくない。

進一さんはお見合い相手の範囲を「バツイチOK」に広げた。そこで出会えたのが看護師の彩子さん(仮名、35歳)だ。

「離婚歴はありますが子どもはいません。落ち着いて控えめな雰囲気がいいな、と思いました」

幸いなことに彩子さんも積極的な進一さんを気に入ってくれた。交際を始めた後、過食症を患っていた過去についても話した。彩子さんは「今が健康なら問題ない」との返事。看護師として、数多くの病人の回復を見てきた経験が生かされた発言なのかもしれない。1年半の交際を経て、昨年の春に2人は結婚した。

彩子さんは頑健なほうではなく、仕事で疲れて果てて家では料理をするのがやっとだ。食器の片づけ、掃除、洗濯はキレイ好きの進一さんが主に行っている。今年の春には彩子さんは休職をして、不妊治療に専念する予定だ。

不妊治療を受けて子どもをつくることは彩子さんの意向だが、進一さんも先を急いでいる。仕事の傍らに社会人大学院に通い、キャリアアップの転職も模索しているのだ。

「家を建てることも考えています。同級生の友達は、すでに子どもが2人いて、一戸建ての家があり、車が2台あったりするからです。私には5年の遅れがあります。ちょっとでも追いつきたい。そのためにつねに何かしていたいと思っています」

暗がりから抜け出した体験はかけがえがない

同じく愛知県民の晩婚さん仲間でもある筆者として、聞いていてちょっと心配になった。進一さんほどではないが、筆者も30代前半に暗闇のように不毛な数年間を過ごした。後悔もたくさんある。再婚してそれなりに健康に働けている現在でも、焦りや不安が消えることはない。だから、「同級生に追いつきたい。つねに何かをしていたい」という進一さんの気持ちはわかる。

でも、物事には優先順位がある。まずは自分の心身を健康に保つことが何より大事だ。健康だからこそ家族に優しくできるし仕事に精を出せる。理想を追って大幅に生活を変えることは心身の負担になってくるだろう。

次に重視すべきは家庭生活だ。進一さんにとっての家庭とは彩子さんに尽きる。マイホームでもマイカーでもない。夫婦関係がうまくいかないと生活が不安定になり、仕事にも勉強にも集中できなくなる。結婚したばかりで不妊治療も予定するなど家庭内に変化が多い今は、同時にキャリアアップの勉強や転職などに注力する段階ではない気がする。

不遇な時期やコンプレックスは人生の味わいだと思うことができれば、その人は薄暗がりにある黄金のように静かな輝きを放てるはずだ。5年間にわたる過食症と引きこもり生活という暗がりから抜け出した体験はかけがえがない。抜け出せたのは両親の愛情と進一さんのまじめさの賜物だろう。順風満帆な人生を歩んでいては絶対に得られない闇と輝き。否定するのではなく、むしろ誇りに思ったらいいと思う。

進一さん。2人の幸せは、いますでにここにあるのではないだろうか。