「アイデンティティ/ダイヴァーシティをめぐる〈新しい環境〉のためのBGM──SZA、Smino、フランク・オーシャン etc.」の写真・リンク付きの記事はこちら

アイデンティティ特集のプレイリストには、当然アイデンティティにまつわる、古今東西の名曲が収録されているのがふさわしい。ビリー・ホリデイの「ときには母のない子のように」をいれてもいいし、レナード・コーエンの「ハレルヤ」をいれてもいいし、オアシスの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」でも、ビョークの「アーミー・オブ・ミー」でも、アデルの「ハロー」でも、尾崎豊の「シェリー」でも、なんなら海援隊の「人として」でもいい。それこそ「わたしがわたしであること」をテーマに歌った/奏じた曲は、いくらでもあって、そのなかから掛け値なしの名曲を選びだすことはたやすそうに思える。

ところが、いざそうした基軸でプレイリストをつくってみようとすると、結局のところ、それは「自分のアイデンティティ・ソング」のリストになってしまい、「そゆことじゃないな」と行き詰まってしまう。それではまるで、昔、好きだった誰かのためにミックステープをつくったのとさして変わらない。恥ずかしい。メディアの看板を使ってわざわざやるほどのことではない(人さまの「アイデンティティ・ソング」を聞いてまわることの面白さとこれとは別の話だ)。

そもそも、この世に生きていれば、どんなに幸せそうに見える人にだって、アイデンティティをめぐる屈託や苦しさはそりゃあるはずだ。それをとりあげて「みんな大変だよね」と慰め合うことをしたくて、わざわざ特集を仕立てたあげたわけではない。

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我思うゆえに我あり?

特集を通して考えてみたかったのは、いま、特にデジタルテクノロジーにまつわるさまざな方面で問題になっていること、やれフィルターバブルだ、やれ個人情報保護だ、やれGDPRだ、やれネット中立性、やれAIに仕事を奪われるだ、といったことが、実はわたしたちの「アイデンティティ」に大きく関わるものとしてあって、だからこそ、どこかで漠然とした不安を生み出しているのではなかろうか、ということだ。

「我思うゆえに我あり」といまさら念仏のように唱えてみたところで、肝心カナメの「思う」を、われわれが今後ますますSiriあたりに委ねてしまうのだとなれば、頼みの綱であるところの「我」は、だいぶ不安定で所在なげなものとなってしまうだろう。あるいは、アマゾンやグーグルのアルゴリズムのほうが自分のことをはるかによく知っているというご時世にあって、解析すべきデータの集合体であるところのわたしと「我思うゆえのわたし」は、とっくに乖離してしまっているとも言える。

そして、その「わたしはいつのまにかわたしのものでなくなってるのかもしれない」という不安は、それ以前からすでに不安定化し流動化しつつあった国家や民族やら宗教やらといった、これまたアイデンティティを考える上で欠かすことのできないテーマと結びついては増幅され、もはや手に負えないほどの危機を、世界のあちらこちらにもたらしている。

その際たる例が、トランプ大統領出現とそれ以降のアメリカの大騒動だろうと思われるのだけれども、その騒動の複雑さたるや、どこを中心に論点をさばくことができるのかがわからないほどの錯綜ぶりではあるものの、そこに欠くべからざるファクターとして、デジタルやバイオ領域の先端テクノロジーのイノヴェイションが関与していることを見落とすわけにはいかない。

AI、ロボット、生体認証、VR、ARから遺伝子編集まで、ちまたでアツく語られているイノヴェイションは、よくよく考えてみるに、わたしたちがこれまで漠然と信じてきた「アイデンティティ」というものの拠り所をぐらぐら揺さぶるものとして存在していることにいまさら気がつくはずだ。そういえば、US版の『WIRED』は、2017年の秋に「テックパニック!」という特集を組んでいたけれど、日本版として取り組んでみた「アイデンティティ」特集は、ある部分において、その合わせ鏡となっているとも言える。

とどのつまり、わたしたちはアイデンティティという、わりかし古典的な命題に、人類がこれまで経験したことのない新しい環境のなかで向き合わなくてはならない、ということになっている。のだとするなら、ここでつくるプレイリストは、ストレートに「アイデンティティ」自体を扱うものであるよりは、その「新しい環境」を表現するものであることがより重要だということになってくる。

「ポストトランプ」時代のアーティストたち

というわけで、「AIやVRや遺伝子編集といったテックイノヴェイションのせいで揺らぐことになってしまった〈わたし〉をめぐる環境」をめぐるソングリストをつくればいい、てなことになるわけだが、これまたどうにも雲をつかむようなお題で、ここでまた手が止まってしまう。

そこで、ここはもう難しいことを考えるのはあきらめて、最も雑な基軸をもち出して、本当は関係ないかもしれないものを強引に関係ありそうにまとめ上げるという雑誌的な手法を用いることにした。その基軸とは、なにを隠そう「いまっぽい」というもので(苦笑)、まあ、同時代の先鋭的なサウンドのなかには同時代の微妙すぎる感覚のヒダが織り込まれているものであるということを信じて、この1年間聴いたもののなかから、いろんな意味で時代感が滲みでていそうなものを選んでみることとした。

加えて、プレイリストとしての聴き味の一貫性をとりもつために、ジャンル的にいえば、ヒップホップ/R&Bを主軸としてみたのだが、それはとりもなおさず「トランプの衝撃」が、たとえ明示的にではないにせよ色濃く反映され、いうまでもなく人種、宗教、政治信条をめぐる分断の渦中にあって最もヴィヴィッドにアイデンティティ/ダイヴァーシティの問題を映し出していると考えたからだ。

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リストは50曲3時間に及ぶやや長大なものとなったが、実は、3人のアーティストの作品がリストの基軸となっている。

まずは、個人的には年間ベストにあげたい気鋭のR&BシンガーSZAのアルバム『CTRL』だ。これは、まさに「自分というものを自分がコントロールする」ということが主題となったアルバムで、イスラム教徒でもある彼女の音楽は、ミレニアル以降の世代感とダイヴァーシティにまつわるさまざまな問題系が、従来のR&Bのフォーマットからハミだすようなやり方で(彼女の音楽はオルタナティヴR&Bと評される)表現されていて、実にこれはもう「いまっぽい」。

次いで、今年一番の発見だったラッパーのSmino。シカゴを拠点に活動をする新鋭だが、ラップと精緻なコーラスを有機的に絡めあわせるそのやり方が実に鮮烈かつ人懐っこく、同じシカゴ発の人気者チャンス・ザ・ラッパーが切り開いたと見えるヒップホップの新しい楽しさの感覚を、ひとまわり拡張しているように思える。

そして、最後におなじみフランク・オーシャンだ。フランク・オーシャンの音楽はメロディのよさをはじめいくらでも賛辞を送ることができそうだが、何よりスリリングなのはその音像の配置で、曲を構成するそれぞれの声や楽器が別個の空間で鳴っているような不思議な音づくりは、「分人」などという言葉が語られるたびに、なぜか思い浮かべてしまうものとなっている。

今回の特集では気鋭の画家である小橋陽介の絵画作品を表紙、大扉、特集巻頭で使わせていただいたが、その彼の作品の背後で鳴っている音楽があるとしたら、個人的には絶対にフランク・オーシャンなのだ。

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なんのことはない、これらの音源は特集をつくる作業をしながらずっと聴いていた音源群であって、これらの曲がもたらす感覚や気分を、誌面に宿る感覚や気分とシンクロさせることができないかというのが、今号における隠れたテーマなのではあった。といって、具体的にリンクさせることをしたわけではないので、ひとりよがりと言われれば、まあ、そうだ。

特集内には、ビョークをはじめ、セイント・ヴィンセント、ミツキ、ジャネール・モネイ(女優でアクティヴィストでもあるアマンドラ・ステンバーグの対談相手として登場)、ロスタム、日本からはMIYAVIといった音楽家の声が多く紹介されているが、ここにあえて彼ら/彼女らの音源は入れなかった。

あくまでも「新しい環境」のBGMを探るのを、このリストの主旨とさせていただくとして、それと本誌で紹介した彼ら/彼女らの音楽が、こことどう接続しているのかは、ぜひ直接本誌でのインタヴューや、それぞれの音源にあたりながら、じっくり読み解いていただきたい。