男性“魔女”のB・カシワギさんがオーナーの「銀孔雀」の店内(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第13回。

どれも怪しげだけれども…


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大阪に少しだけ話題になっている“魔女の店”があると聞いて足を運んでみた。

若者の街、アメリカ村の中心にある三角公園の隣の雑居ビル5階に「銀孔雀」はある。店内は想像していたより明るくて、清潔な雰囲気。店内の至る所に商品が並んでいる。さまざまな願いをかなえるキット、魔女のほうき、魔法の杖、動物の頭骨、重厚そうな洋書の数々、宝石など装飾品、ろうそく、香水、などなどだ。

どれも怪しげだけれど、だからこそ魅力的だ。思わず時間を忘れて見入ってしまう。同じように真剣な顔でグッズを選んでいるお客さんもいた。

その店の奥には、かなり大柄な男性が座っていた。色とりどりの奇抜な髪型と服装が、店の店の雰囲気とマッチしている。

彼が「銀孔雀」のオーナーであるB・カシワギさん(38)だ。彼は、男性だが“魔女”なのだという。そして、このお店以外にも、4店舗の店を経営する実業家でもある。

ちょっと頭が混乱してきたが、とりあえず彼が魔女になり、魔女の店「銀孔雀」を作るに至った経緯を聞いた。

B・カシワギさんは、大阪の岸和田市生まれ。末っ子で、甘やかされて育ったという。両親は学習塾を経営しているので、小さな頃から勉強はよくできる子だった。ただ太っていたので、運動はあまり得意ではなかった。

「運動ができないという劣等感と、勉強ができるという優越感が両方ありました。子どもの頃って足が速い子がモテるじゃないですか。勉強ができる子は、スゴイって言われるけど1番のヒーローじゃない。つねに二番手なんですよね。そこで人格が形成されたと思います」

1番にはやっているモノではなく、二番手にはやっているモノに興味がいった。

みんなが『月刊コロコロコミック』(小学館)を読んでいるときには、『コミックボンボン』(講談社)を読んでいたし、ビックリマンチョコ(ロッテのシール入り菓子)を集めているときには、ドキドキ学園(フルタ製菓のシール入り菓子)を集める。少しあまのじゃくな少年だった。

また小さい頃から「誠のサイキック青年団」(ABCラジオ)というラジオ番組が大好きだった。パーソナリティの1人である竹内義和さんにあこがれて、ラジオ放送に出る人になりたいという漠然とした夢があった。

「親に『大学くらいは出ておけ』と言われたのもあって、大阪教育大学に進学しました。ただ、大学生活はあまり楽しめず雑誌を読むことだけを楽しみに学校に通う日々でした」

ただ、塾の講師の息子として、卒業はしなければいけないなと思って、1年留年はしつつもきちんと学校へは通った。留年した後に、映画部を作って映画作りを始めた。映像を残すという行為は楽しくて、大学を卒業した後もちょくちょく顔を出した。

吉本興業ではなく、松竹芸能へ

大学を卒業して、松竹芸能の養成所に入った。松竹芸能に入るのは、子どもの頃から決めていた。吉本興業ではなく、松竹芸能に入ったのは、やはり二番手好きだからだった。先輩たちに、「何かしたいことはあるのか?」と言われたので、

「童貞の男性を集めてイベントをやりたい」

と前から温めていた案を言ってみた。すると、先輩方全員に

「だったら松竹芸能を辞めたほうがいい」

と言われた。それはイジワルや説教ではなく、心からそう思って言ってくれているようだった。

芸人で売れるには段階が多い。作家や先輩に認められて舞台に出て、実力と人気をつける。芸歴5年で単独ライブを開催し、50〜100人集客できればいいほうだ。そうして客に認められて、タレントになったとして、そこからの道のりはより険しく長くなる。その道のりの中で「童貞のイベント」を開催するタイミングはおそらく訪れない。


「やりたいことは、売れる前にやらないといけない」と語るB・カシワギさん(筆者撮影)

「『やりたいことは売れてからやればいい』って言う人がいるけど、それって違うと思うんですよ。売れてしまうと、立場ができてしまうので、やりたいことはやりづらくなってしまうんです。だからやりたいことは、売れる前にやらないといけないんですね。ただそれができる場というのはなかなかありません」

先輩たちの意見に従って、松竹芸能は1年で辞めた。その後敬愛する竹内義和さんが経営するライブハウスでイベントを手伝ったりしたのだが、ハコ自体が潰れてしまいフリーになった。

ちょうど25歳になった頃だった。そこから約5年間、フラフラと生きた。

「生活のためにしていたアルバイトを辞めようって決めたんです。トークイベントや映像を撮ることで稼いだおカネだけで生活することにしました」

当時は実家暮らしだったので、生活費はほとんどかからなかったが、それでも月5万円は欲しかった。

大学の映画部で得たスキルを使い、仲良くなったホームレスのドキュメンタリーを撮影してDVDを500〜1000円で販売した。それで、なんとか月3万円くらい稼いだ。交通費さえもらえれば無料でもトークライブに出演した。もしギャラを1000円でももらえればありがたかった。

兄と2人でネット配信のラジオ「青春あるでひど」も始めた。兄は公務員で科学者だったこともあり、世の中のアレコレを科学で説明する番組にした。人気コンテンツになって現在も毎週新作を配信しているが、なかなか収入にはつながらなかった。

「好きなことだけで稼ぐと決めると、急に時給が10分の1くらいになるな、と実感しました。時給50円くらいの感覚ですね。つねにカツカツの生活でした。食べるものがなくて、山でタケノコを採って食べたりしてましたね(笑)」

両親からは「30歳までには何とかちゃんとしてくれ」と言われていたが、29歳になってもちゃんと生活できる感じはなかった。

そんな折、先輩芸人が千日前に小さなお笑いの劇場を作った。ただ先輩は運営があまりうまくなく、すぐに閉店することになった。

「だったら僕にやらせてくださいと言って、お笑いのライブハウス『なんば白鯨』の経営を始めました。それが29歳と11カ月のときで、たまたまですが親の期待に応えた形になりました」

自身の松竹芸能時代の経験から「売れる前の芸人が本当にやりたいことをやれるハコ」にした。


売れる前の芸人が本当にやりたいことをやれるハコ「なんば白鯨」(筆者撮影)

フラフラしていた7年間は無駄ではなかった

世間では無料ライブがはやっていたが、それは芸人の価値を下げることだと思い、あくまで入場料は払ってもらった。それで、たとえお客さんが1人しか来なくても、演者はギャラをもらえる、出演者に負担がかからないシステムで経営した。

ライブハウスを始めると、フラフラしていた7年間が役に立った。

「ノーギャラでイベントに出ていたときに知り合った人たちが、『お前がライブハウスをやるなら手伝うよ』と言って出演してくれました。松竹芸能時代の芸人も協力してくれて、ずいぶん助けられました」

お店ができた当初は、B・カシワギさん1人で経営していたのだが、月間40本のイベントを企画して、20本に出演するという過酷なスケジュールをこなしていた。昼、夕方、夜、深夜とイベントを開催して、週末は2時間しか寝られないのが普通だった。

しゃにむに頑張ってとてもしんどい日々だったが、それでも楽しかった。収入は増えていったが、使うヒマもなかった。お店を作るにあたり、兄に120万円借りていたのだが、なんと8カ月で返し終わった。

「なんば白鯨」は15人も入れば満席の小さいハコだ。欲が出てもう少し大きい場所を作りたいなと思って探していると、同じビル内にもくろみどおりの物件を見つけた。最初は移転しようと思ったが、いざ「なんば白鯨」を手放すとなると惜しくなった。

「2店舗経営で行けるところまで行って、無理になったら1店舗潰そうと思いました」

そうしてできたのが「なんば紅鶴」だった。70人以上入る比較的大きいライブハウスだ。お笑いライブ中心の「なんば白鯨」と差別化するため、サブカルチャーのトークライブを中心にコンテンツを作っていった。

「なんば紅鶴」を始めるにあたり、「なんば白鯨」は従業員に任せることにした。中途半端に手伝うと共倒れになりそうな気がしたので、完全に投げきってしまった。

価値の再発見をしたかった

「なんば紅鶴」は、大阪ではトークライブ文化がなかったため、出役も客も慣れておらず当初は苦戦した。ただそれでも、集客重視だけを狙った安直なコンテンツは作りたくなかった。

「小さい頃からのあまのじゃくな性格が出ているんでしょうね。よそでやれることは、うちでやらなくてもいいやって。ほかのハコではねのけられた人たちにこそイベントをしてほしかった。価値の再発見をしたかったんです」


よそでやれることは、うちでやらなくてもいい(筆者撮影)

苦戦しつつも1年間も続けていると、レギュラーで出演してくれる演者が固まってきた。店長をしてくれる人も見つかったので、再び距離を置いて見守る形にした。

2店舗ともライブハウスなので、イベントが終わるまでは店内でゆっくり飲めない。自分自身がくつろげる場が欲しいと思い、3軒目は「BAR群青海月(ぐんじょうくらげ)」というバーを作った。

大学の文化祭のときに知り合ったガラス職人が、自分の食器だけのお店を作りたいと言っていたのを思い出し、コラボをする形で開店した。お笑い芸人などB・カシワギさんの知り合いが、日替わりのバーテンダーとして働くお店になった。

その、ほぼ同時期に「紫蛍(むらさきほたる)」というカレーショップを作ったのだが、B・カシワギさんにとって初めて閉店したお店になった。

「知り合いの男性同士のゲイカップルにお店を任せていたのですが、2人の仲が悪くなってしまったので1年半くらいで閉店してしまいました。おいしいと評判だったのに残念でしたね」

この閉店の経験が、後ほど魔女のお店開店に少しかかわることになる。ともかく1店舗は失敗したものの、快進撃は続き、「なんば紅鶴」の横に「なんば赤狼(せきろう)」というレストランを始めた。そもそもは紅鶴でフードを出したかったのだが、キッチンスペースがほとんどなかったため、だったらレストランを作ってしまおうという発想だった。


「B・カシワギは味園ゲイツだ!!」なんて冷やかされることも(筆者撮影)

よく一緒に食事をしていた女性が、将来的に飲食店をやりたいと言っていたのを思い出し、彼女にお店を任せることにした。話し合った結果、珍しいお肉が食べられるジビエ系のお店にすることにした。カンガルー、ワニ、熊などさまざまなメニューがあるが、どの料理も“おいしい”ありきで作っている。まずいゲテモノ料理にはしないように心掛けた。

「赤狼は初めから黒字でしたね。他店舗の常連さんが一度は顔を出してくれましたし、イベントが終わった後に演者さんが打ち上げをすることもあります。相乗効果が出た感じですね」

この頃になると、B・カシワギさんは、周りの人からも成功者扱いをされるようになった。

「B・カシワギは味園ゲイツだ!!」なんて冷やかされることもあった(『なんば白鯨』などが入っているビル名の味園ビルと、ビル・ゲイツをかけたあだ名)。

「ちゃんと教えるから、弟子になる?」

そんな順風満帆な2015年、20代前半の頃に知り合った女友達と再会した。結婚して東京に行っていたのだが、離婚して帰ってきたという。近況を聞いてみると、

「魔女をやってる」

と言われた。

もともとエキセントリックな女性だったが、まさか魔女になっているとは思わなかった。

「ちゃんと教えるから、弟子になる?」

と言われて、二つ返事で了承した。

そして、魔女のイベントを開催しつつ、1年間を通して魔女について学んだ。そしてB・カシワギさん自身が魔女になった。魔女は英語でウィッチ。そもそも男女の区別のない言葉だが、日本語訳では魔女以外の言葉がないので、男でも魔女と呼ばれる。

「魔女について学んでいちばん魅力的だっと思ったのは『魔女は自分で儀式を作れる』という部分でした。日本の儀式(葬式、結婚式など)は形骸化しすぎていて、機能していない部分があるなと前々から思っていました」

「紫蛍」が潰れたのはゲイカップルのケンカが原因だったが、ゲイのカップルは長年付き合っていても簡単に別れる人たちが多いなと感じていた。その一因には、結婚という儀式がないからかもしれないと思った。

また、B・カシワギさんの恋人の飼っていたフェレットが死んだ際、問い合わせると生ゴミに出すしかないと言われた。死んだからゴミだと割り切れる人間は少ないだろう。

「なぜ効くかわからないが効く」のが魔法

もし、儀式そのものを作り出せるのだとするなら、当人たちが救われる儀式を作れるかもしれないと思った。そこで魔女のお店が作れないか考えた。

魔女は杖やほうきなど、さまざまな道具を使うが、赤狼で手に入る骨や皮は魔女の道具にふさわしいと聞いた。魔女のグッズを販売するお店が作れるのではないかとひらめいた。

「マンションの1室で魔女の道具を売るショップを作ろうかな、と思ったんです。僕の書斎も兼ねる形で。でも師匠(魔女の女性)と話しているうちにもっと大きい店にしようってなりまして、今の店舗になりました」

店内ではさまざまな商品を売っているが、実際にB・カシワギさんが素材を集めてきて、作っているグッズが多いという。

「どうしても、魔法=オカルト=インチキ と思ってしまうと思いますが、オカルトは科学と真逆な存在ではないんですよね。基本的には一緒なのですが、オカルトには隠れていて見えない部分があるんです」

つまり「なぜ効くのか説明があり、確かに効く」のが科学ならば、「なぜ効くかわからないが効く」のが魔法というわけだ。魔法のキットは潜在意識に訴えるような仕掛けがあるものが多い。

たとえば、嫌なことを忘れる忘却キットは、忘れたい思いを紙に書き、その紙を川に流すというキットだ。

人は、いったんメモを取るとそれまでの経験から無意識的に「メモを取ったから忘れてもいいんだ」と思い、書いた内容を忘れる傾向があるという。その習性を利用した道具だ。

意中の人と仲を深めたいキットもある。相手と自分に見立てた2本のろうそくを、ろうで固めて1本のろうそくにして燃やし尽くす、という儀式をする。なんともオカルトな雰囲気だが、この儀式で肝心なのは手間暇がかかるという点だ。

つまり普段なら「なんでメールしてくれないんだ!!」なんて意中の相手に電話やメールをしてしまう時間に、儀式をしているので、嫌われないという理屈だ。

「すべての道具にそういう“理屈”が込められてます。魔法の道具は機能よりも、道具が持っているストーリーのほうがより大事なんです。重厚なストーリーがあると、それを手にする人は『なんかすごいモノな気がする』と思うわけで、そのスペシャル感を感じることこそが肝なんです」


魔法の道具は機能よりも、道具が持っているストーリーのほうがより大事(筆者撮影)

たとえば、魔女のほうきは、原材料である棕櫚(しゅろ:たわしなどを作る木)の皮を“新月の夜に採りに行く”といういにしえの習わしに従って、実際に採りに行っている。

石にルーン文字が書かれたルーンストーンの原材料は那智の黒石を使っている。理由は、ルーン文字を見つけたのはオーディン(北欧神話の神様)。オーディンに知恵を与えたのは、フギンとムニンという名の2羽のカラスだと伝えられている。日本でカラスといえば、八咫烏(やたがらす:日本神話に出てくる3本足のカラス)だ。その八咫烏ゆかりの熊野の那智の黒石を使って、日本版のルーンストーンを作っている。

「本当に新月の夜に採りに行ったか証明はできないですし、八咫烏の話も言わばこじつけなんですが、ストーリーを聞いて“なんだかすごい、効きそうだ”と思ってくれたら成功なんですね。その時点で魔法にかかっているわけです」

魔女の店に来る人の多くは悩みを抱えていて、相談を受ける場合が多い。客は、男3:女7の割合で女性が多い。女性の相談は恋愛絡みが多く、その中でも不倫についての話が圧倒的に多いという。愛人から正妻に昇格したいと願う女性が、ほかに相談する場所もなく、魔女のお店にやってくるのだ。

屁理屈を駆使することが魔女の仕事

「相談を受けたら『おそらく正妻になるのは無理ですよ』とハッキリ言います。そのうえで、理想に近づけるところから始めましょうとアドバイスします。

ただ相手を呪うとかそういうネガティブなことはしてもらいたくないですから、なるべく誰も傷つかず幸せになる方法を考えます。

たとえば『意中の男性の奥さんがモテるようになったら、奥さんに愛人ができて、奥さんのほうから男性を振るかもしれません。だから奥さんがモテるよう、きれいになることを祈りましょう』と勧めるわけです。女の人は、最大のライバルである女性がきれいになることを祈るわけですから、表面上は平和ですよね。もちろん屁理屈ですが。

ウィッチの語源はウィッカ。“曲げる”という意味なんです。屁理屈を駆使することが魔女の仕事だと思ってます」

そんな不思議なお店「銀孔雀」だが、店に直接足を運んでもらうことを重視したいので、グッズの通信販売はしていない。

収支は、ギリギリ赤字ではないくらいだという。ただ他店舗の収入もあるので、この店舗の収入が低くてもあまり気にしないでいいのが多店舗経営の利点だ。

B・カシワギさんにとってこのお店は最後のお店というワケではない。次は、ギャラリーを作ろうともくろんでいるという。

今のギャラリーでは展示させてもらえない作品たちを、展示できる場所になればいいなと思っている。

B・カシワギさんはつねに流動的で思いつきで行動しているように見えるが、その裏で成功するための計画やアイデアをしっかり考えている。そして協力してくれる人脈をつくる才にも長けていると思った。

次に作るお店は、どんなお店になるのか今から楽しみである。