■シリーズ「もう一度投げたかった」──斉藤和巳(前編)


 天国と地獄、栄光と挫折、称賛と罵声──。

 プロ野球にはまったく異なる世界が背中合わせで存在する。だからこそ、多くの人が魅入られ、心奪われるのだ。しかし、この男ほど、ふたつの世界にどっぷり浸かった例はまれだろう。

 斉藤和巳──沢村賞投手を2度獲得した稀代のエースだ。最多勝も最高勝率も最優秀防御率も最多奪三振のタイトルも獲得した。2003年からの4年間で64勝を挙げたピッチャーは、しかし最後の6年間、一度も公式戦のマウンドに立つことなくユニフォームを脱いだ。3度目の肩の手術を行ない、リハビリにかけた日々──。沢村賞投手はどん底で何を考えたのか? 本人の言葉で「最後の6年」を振り返る。

◆何度も固辞した引退セレモニー

──斉藤さんが福岡で引退セレモニーを行なってから3年が過ぎました。いま振り返って、どんなことを思いますか。

斉藤 僕は引退セレモニーをやれる立場ではないと思っていました。当時は試合で投げることもなく、選手登録もされていません。だから、そんなだいそれたことはまったく考えてもいなくて、球団の方から「引退セレモニーを」と言っていただいたのですが......。

──オファーを何度も固辞したそうですね。

斉藤 はい。でも、最終的には「ファンのみなさんに直接気持ちを伝えるいい機会だから」との言葉を聞いて、セレモニーをしていただくことにしました。

──斉藤さんの引退表明が2013年7月29日、引退セレモニーは9月28日でした。そのとき、ボールを投げられる状態だったのですか。

斉藤 引退セレモニーの話をいただいたのが8月頃で、そこからトレーニングを始めました。かっこよく決めたかったのですが、もうあれが精一杯......4球目でやっと、ノーバウンドでキャッチャーに届いて。


──最後の1球を受けてくれたのは、かつて女房役だった城島健司さんでした。

斉藤 引退を決めて城島さんに連絡を入れたときに「もう投げなくていいのか?」と。「最後に1球投げろ。球場じゃなくても、どこでもいいから」と言ってもらったので、「そのときは城島さん、受けてください」とお願いしました。「河川敷でもどこでもいいから、受けに行くから」と言っていただいて......。

──セレモニーでは小久保裕紀さん、王貞治さんから花束を渡されました。

斉藤 小久保さんに来ていただくことはまったく知らなかったので、本当に驚きました。王会長には、「波乱万丈の野球人生だったな。それは必ず今後の人生に生きてくるから」と言っていただいた。最後に、お世話になった方々に送っていただき、あの瞬間は僕の宝になりました。

──斉藤和巳といえば肩の故障を連想してしまいますが、1995年ドラフト1位で福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団して、まだ1勝もしていなかった時期の最初の手術・リハビリと、沢村賞を2度獲得したあとの2回の手術・リハビリでは、意味も過ごし方も違ったのではないかと思います。どちらがつらかったですか。

斉藤 そこは、難しいですね......。正直、どっちもしんどかった。最初の手術後のリハビリは、クビを覚悟して、人付き合いもやめて、必死にやりました。誰も助けてくれる人がいないと感じるほど孤独な時間でしたね。でも、2回目以降は球団が僕をバックアップしてくれた。多くの方々に支えられ、サポートしてもらいました。球団社長だった笠井和彦さんには会うたびに「全面的にバックアップするから。待ってるよ」と言っていただいた。そこが大きな違いです。

◆手術したら、もう昔と同じじゃない

──斉藤さんは南京都高(現・京都廣学館高)時代から、肩の関節がゆるい、いわゆる「ルーズショルダー」だったんですね。

斉藤 そうです。肩をしなやかに使うことができれば、ほかのピッチャーとは違うボールを投げることができるので、関節の柔らかさは武器でもあるけれど、故障しやすいという側面もありました。

──1990年代前半に活躍した伊藤智仁さん(現・東京ヤクルトスワローズコーチ)もそうでした。

斉藤 伊藤さんは異常なほどのしなやかさでしたね。だからこそ、あの消えるスライダーが投げられたんだと思います。ルーズショルダーのピッチャーは、故障しないためのケアも肩の筋肉を鍛えることも必要です。でも、どれだけ注意しても故障の確率が高いのは仕方がないのかもしれない。そこは、両刃の剣というのでしょうか。

──いくら鍛えても限界があると。

斉藤 肩の筋肉の強度を高めるトレーニングをして、常に関節のバランスを保つようにしましたが、それでもいつの間にか肩に負担がかかっていました。ボールは肩だけで投げるわけではありません。下半身の力を肩から腕、指先に伝えて速いボールを投げるその過程で、最終的に痛みは弱い箇所に出てきます。僕の場合は、それが肩だったということです。肩に負担のかからない投げ方もあるのでしょうが、僕にはできませんでした。

──斉藤さんは2003年に20勝をマークし最優秀防御率など多くのタイトルと沢村賞を獲得。2006年には18勝をあげ、2度目の沢村賞を獲得しました(パ・リーグで同賞の複数受賞者は史上初)。しかし、その後は2007年シーズンを最後に、右肩腱板損傷により戦列を離れます。故障の程度にもよるでしょうが、手術前と後では感覚が違うものですか。

斉藤 僕は3度も手術しました。毎回状態は違いますが、絶対に違和感は残りますね。「もう前と同じじゃない」と思ったほうがいい。そこを受け入れないと、リハビリは続けられません。特にボールを持ち始めてからは、壁しかないので......。「元に戻す」のではなく、「新しくつくる」と考えないと、壁を乗り越えることは難しい。

──「昔はこうじゃなかったのに」と思ったら、リハビリはうまくいかない......と。

斉藤 そうです。そう考えたら、前に進めなくなります。故障の程度はどうであれ、肩にメスを入れたら、過去の100の自分には戻れない。野球を続ける限り、その現実に向き合わなければなりません。ピッチャーにとって苦しいのは、自分が思っているように投げられないこと。スポーツ医学はどんどん進歩していますが、プロで通用するレベルに戻すことはまだまだ簡単ではありません。


──斉藤さんの最初の手術は1998年ですね。

斉藤 一度目は「投げられるようになるかどうかは五分五分」という手術でした。二度目は2008年にロスで手術してもらったのですが、このときは肩の腱板を損傷して、神経系も傷んでいた。腱板をアンカー(体内に入れるビス状の器具)でホッチキスみたいに留めました。当然、可動域は狭くなります。それまでの柔軟性がなくなるので、以前と同じように投げることは厳しい。

──肩が固められている感覚でしょうか。

斉藤 ガッチリ留められているところのまわりの筋肉は弱くなっていきます。3回目の手術のときにはアンカー自体が取れかかっていました。


◆24時間、ずっと痛みのある生活

──2007年は12試合に先発して6勝3敗。2008年春に2回目の手術をし、長いリハビリ生活に入りました。2010年2月に3回目の手術を行なった後、2011年に支配下登録から外れ、三軍リハビリ担当コーチという肩書で現役復帰を目指します。

斉藤 1回目、2回目は、術後1カ月くらいで身の回りのことを自分でできるようになったのですが、3回目の後は、普通の生活ができるまでにかなり時間がかかりました。3カ月たっても、肩のところまで手を上げるのがやっとの状態。まともに顔も洗えないし、何も持てない。肩を自分で支えられず、腕を下ろしているだけでものすごく重たい。普通の生活が送れないのだから、野球ができるようになるまで相当時間がかかると覚悟しました。

──痛みは感じましたか。

斉藤 24時間ずっと痛みがあって、じっとしていることさえつらい。野球どころじゃないというのが、そのときの正直な気持ちですね。日常生活が苦痛でした。

──食事はできたのですか。

斉藤 過去の経験があるので、それは大丈夫でした。左手で箸もスプーンもうまく使えますから。でも、あの3カ月のしんどさは忘れられません。時々、外出することもあったのですが、歩くのが怖い。自分の右側に人がいることに恐怖心があるんです。

──肩以外を鍛えるトレーニングはできましたか。

斉藤 まったく無理です。ちょっとした振動でも肩に痛みが走るので、おじいちゃん、おばあちゃんがしているくらいのリハビリメニューしかできない。痛み止めの薬が強くて、起き上がれないこともあって、リハビリの先生に来てもらっても、僕はボーッとしていた。頭は痛いし、吐きそうだし、食事の量も減って、体重がどんどん落ちていきました。

──そんな生活が長く続いたのですか。

斉藤 術後3カ月で退院したのですが、退院後も3カ月ほどはそんな感じでした。「さあ、トレーニングをやるぞ」とはなりません。睡眠も十分にとれず、毎日、高いところから落ちる夢とか、誰かに追いかけられる夢ばかり。それだけ不安だったんでしょうね。あまりに嫌な夢ばかり見るので、寝るのが怖くなりました。

(つづく)

元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
協力●寺崎江月