弱者救済・ケガレ・社会福祉:連載「21世紀の民俗学」(6)

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人が集まって暮らす以上、そこには強い者と弱い者がいる。近代の社会は社会福祉といわれるシステムで、「弱者救済」を実装してきた。そのシステムが崩壊するとき、今後の「福祉」はどうなるのだろう? 民俗学者・畑中章宏は、歴史のなかの権力者の姿勢に新しい共同体の姿をみるという。

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「日本死ね」とバーニー・サンダース

今年の初め「保育園落ちた日本死ね!!!」と書かれた匿名ブログが話題になり、国会でも取り上げられた。待機児童問題に一石を投じるとともに、その言い回しの直接さや出所が怪しいと取り沙汰されるなど、一種の炎上案件とみなされ、社会政策、社会福祉の問題としては掘り下げられることがなかったように思う。

アメリカ合衆国の大統領選では、民主党の候補として出馬を表明したバーニー・サンダースが、ヒラリー・クリントンに迫った。サンダースは、「民主社会主義者」を標榜し、国民皆保険制度、公立大学の授業料無償化のようなスカンジナヴィア型社会福祉への移行を公約に掲げた。挑発的な言動で話題を振りまいた共和党のドナルド・トランプと好対照をなすこともあり、サンダースはかなりの支持を集めたが、アメリカでも社会政策、社会福祉を全面に押し出す大統領候補が現われたのである。

残忍さと弱者救済

古代神話に登場する小子部栖軽(ちいさこべのすがる)という人物がいる。雄略天皇の側近だった栖軽には、おもしろいエピソードがいくつもある。栖軽は天皇皇后の閨室(けいしつ)に誤って足を踏み入れたため、その罰に天皇から雷を捕まえてくるように命じられる。栖軽は落ちていた雷を天皇に差し出した。ところが、それがあまりに醜く恐ろしいものだったので、見つけてきたところに戻しに行かされる。

また栖軽は天皇から、皇后に「コ」を始めさせたいから集めてくることを請われる。天皇がいう「コ」は「蚕(カイコ)」のことで、養蚕をはじめたかったのである。ところが栖軽は勘違いして、大勢の人間の「子」どもを連れてきてしまう。天皇は笑ってとがめず、栖軽に、その子たちを養わせることにする。この逸話は、古代における児童保育院、あるいは孤児院の存在を示唆するものだといわれている。

作家の山本周五郎は、この話をもとに小説『ちいさこべ』を書いた。江戸時代を舞台に、大火で焼け出された孤児たちを、自らも被災者である大工の若棟梁が面倒をみる話である。この短篇と石井光太が2014年に刊行したノンフィクション『浮浪児1945−戦争が生んだ子供たち』を合わせ読むと、社会的弱者としての孤児の問題について深く考えさせられる。

ところで雄略天皇は、別名「大悪天皇」と呼ばれるほど、残忍な王だった。雄略が大泊瀬(おおおはつせ)王子と名乗ったころ、同母兄である安康天皇が暗殺されると、その疑いの眼を兄たちに向けた。1人を斬り殺し、さらに他の2人は逃げ込んだ家ごと焼き払う。さらには2人の従兄弟も謀殺し、大王の座に就いた。こうした残虐さを補うかのように、小子部栖軽をめぐる話が伝承されてきたのである。

ハンセン患者と文殊菩薩

古代における社会福祉事業としては、聖徳太子が大阪の四天王寺に設けた「四箇院」がよく知られる。四箇院とは、戒律の道場である「敬田院(きょうでんいん)」、病人に薬を施す「施薬院(せやくいん)」、病人を収容し治療する「療病院(りょうびょういん)」、貧しい人や孤児を救うための「悲田院(ひでんいん)」である。しかしこれが事実かどうかは定かではなく、記録上最古のものは、養老7(723)年に光明皇后が、施薬院と悲田院を興福寺に設けたというものである。

奈良の佐保路(さほじ)の法華寺境内にある「からふろ」は、光明皇后が1,000人に湯を施すという発願により建てられた浴室で、日本の社会福祉の原点ともいわれている。ちょうど1 000人目の病者は膿を垂らした老人で、皇后が膿を吸おうとすると仏となり光明を放ったという伝説もある。

鎌倉時代の僧、良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)は、西大寺の叡尊(えいそん)を師と仰ぎ、貧民や病人の救済に尽力した。2017年に生誕800年を迎えることを記念して、奈良国立博物館では特別展「忍性―救済に捧げた生涯」が9月19日まで開催中である。

忍性が叡尊から受け継いだ「文殊(もんじゅ)菩薩信仰」では、貧者や病者は文殊菩薩の化身であり、彼らを救うことが「文殊菩薩を供養することになる」というものだった。忍性はハンセン病患者を背負って町で物乞いをさせ、夕方再び背負って帰り、生活を成り立たせたという。また日本最古のハンセン病施設「北山十八間戸(きたやまじゅうはいちけんこ)」を創設した。高速増殖炉を「もんじゅ」と命名した人は「知恵の文殊」は知っていても、「ハンセン病者と文殊」のつながりを知っていたかどうか。

活動の拠点を鎌倉に移した忍性は極楽寺を開山し、鎌倉幕府の庇護のもと慈善救療活動を進めた。「極楽寺伽藍絵図」には療病院、悲田院、福田院、癩宿のほか、「馬病屋」が描かれている。動物も病から救おうとしたのである。

近世の地域社会に、瞽女(ごぜ)や座頭(ざとう)といった「視覚障害芸能者」に対する扶持が用意されていた。この事実は、アメリカ合衆国生まれの音楽学者・芸能史研究家ジェラルド・グローマーの『瞽女うた』に詳しい。

瀬戸内地方などで講じられた扶持制度と、瞽女の宿泊などを公費で賄った関八州などの村々の政策は、いずれも近世社会が発展させた数少ない萌芽的な「福祉制度」だと評価できよう。これらの政策のおかげで、多数の瞽女は個人の施主の慈悲のみにたよることから解放され、村共同体のサポートを得たのである。
(ジェラルド・グローマー『瞽女うた』岩波新書)

光明皇后の夫である聖武天皇はたび重なる遷都と大仏建立で民衆に大きな負担を課した。忍性の慈善事業は執権北条氏の支援によるものだった。為政者、権力者は決して弱者を無視できなかった。瞽女に対する福祉も年貢や使役と表裏のものだった。為政者は権力を行使するためには、社会福祉にも目を向けざるを得なかったのである。

ハンセン病に対する忌避観念やケガレ意識は、近世近代になるほど強まり、隔離政策を固定化した「らい予防法」が廃止されたのは、いまからほんの20年前、1996(平成8年)年3月のことである。光明皇后や忍性は難病を可視化し、人々に問題を強く意識させたとみることもできる。

7月26日に神奈川県相模原市緑区の知的障害者施設で19人が刺殺され、26人が重軽傷を負わされる事件が起こった。犯行動機の解明はまだ途上だとしても、障害者の大量殺人という事態に目を瞑り、耳をふさいでいるような気がしてならない。

日本では古来子どもや老人は神に近い存在で、難病患者や貧しい人々は菩薩だとみなされた。社会的な弱者ほど、高貴であるというふうに考えられてきたはずであるのに。