超高齢社会の何が本当の課題なのか(1)/日野 照子

写真拡大

高齢社会白書を読んだことがありますか。社会問題はビジネスチャンス。まずは現状把握から。

 2015年2月10日朝のニュースで認知症ドライバーによる高速道路逆走問題を取り上げていた。ああ、またか、と思う。逆走そのものではなく、中に出てくる一般の人の「これから高齢化社会を迎えるにあたって」という発言に引っかかる。これから?

 日本は1970年にすでに高齢化率(65歳以上の人口が総人口に占める割合)が7%を超え、この時点で『高齢化社会』を迎えている。1994年には14%を超えて『高齢社会』となり、2007年には21%を超える人類未到の『超高齢社会』にすでになっている。内閣府の『平成26年版高齢社会白書』 に人口実績・将来推計グラフが載っているので見てほしい。予想以上に速いスピードで変化していると思われるのではないだろうか。
(http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2014/zenbun/s1_1_1.html より転載)

-->

 2025年問題が一目瞭然である。自立度がガクンと落ちる75歳以上が2000万人超、何が起こるか考えたくもない事態である。「誰がこの人たちの面倒を見るのだろう」という問題くらいなら大して考えなくても思い付く。あるいは、もっとマクロに生産人口が減ってGDPが下がるとか、医療や福祉に必要な資金が膨大になり賄いきれなくなるとか。皆さんは、このグラフを見て、どんなことを考えるだろうか。

 実感するには世代差や地域差があるとは思うが、たとえば40代で東京圏に住む自分にとって超高齢社会は今ここにある現実である。両親が80代になり、要介護になり、ケアマネージャやら介護事業者やらと接する機会が増えた。典型的な東京のベッドタウンにある実家の近所はみな同じような高齢夫婦の家ばかり。スーパーマーケットには「15日年金支給日はポイント5倍」などというポスターが貼ってある。完全な老人タウンである。この先は歯が抜けるように空き家が増えそうな雰囲気で、恐ろしく活気がない。地方ではもっと寂しい事態になっているだろうことは想像に難くない。老人タウンにいて思うのは「このままではだめだ」ということばかりである。

 いったい何が問題なのだろう。まず、大量の高齢者の面倒を見る人手や施設がいる。医療に携わる人手や施設がいる。電気・ガス・水道などのインフラや住居のメンテナンスを行える人手がいる。どれも、何もしなくても、誰かがやってくれると思っていると破綻する。日経などでも老後資金を〇〇万円貯めよう、という類の特集をよく見かけるが、たとえお金があっても労働としてサービスを提供してくれる場や人がいなければどうにもならないだろう。お金を使う機会もなければ、使い方もわからないという事態に陥るのだ。思うに高齢者の資産をどう活かすかは、かなり重要な課題だ。高齢になると、いつまで生きるかわからないから、なかなかお金を使う気になれない。そして余らせたまま死んでしまい、文字通り死に金になる。こう並べると、なんとかしたくならないだろうか。

 前出のグラフは今を境に、あくまでも「現状」を元に計算した推計値だ。医療の進歩でもっともっと老人の比率が増えている可能性もあれば、技術の進歩で少ない人手で高い生産性を維持できているかもしれない。少子化対策は現実味がないので人口増は難しいと思うが、移民増で労働人口減少に歯止めがかかるかもしれない。そもそも、この「65歳以上の人口を15歳〜64歳で支える」という無理な設定から見直した方がいいだろう。教育を優先して15歳〜22歳を労働人口から外し65歳〜74歳を代わりに組み入れた方がいい。実のところ、国や制度は社会の変化を追いかけるだけである。未来はいくらでも変わる。

 実は、掲題の「超高齢社会の本当の課題は何か」というのは、さる大学院の社会人講座で投げかけられた課題である。もちろん、「正解」はない。自分の頭で考えてみよう、というのが主眼だ。解決できない課題はない、と思って長年仕事をしてきたが、社会問題はそうもいかない。当たり前だがステークホルダーが多く問題が多様すぎて、本質的な課題に絞り込むことすらできない。結局のところ、分割して部分最適を積み重ねるしかない。それが社会問題というものだ。自分に直接関係のないことについては、人は無関心になる。なんとなく、問題だとは思っても、それ以上深くは考えない。社会貢献とか言うけど、やっぱり儲けたい。それでいいと思う。要はどれだけ多くの人が、自分のこととして問題に取り組むかにかかっている。