ユトリのおわり/純丘曜彰 教授博士
/次年度から大学も脱ユトリ世代になる。ユトリ世代は授業時間数が少なかったこと以上に、個性尊重の美名の下に、やりたいことしかやらなくても、ほっておかれた公教育のネグレクトのせいで、生きる力まで削がれてしまっている。その解決には自助努力が不可欠だが、自助努力ということさえ、だれからも習ってきていないので、いよいよかわいそうだ。/
2015年度の四月から大学に脱ユトリ世代(1996年度生まれ)が入ってくる。これは移行期で、完脱ユトリ世代(2004年度生まれ)が入ってくるのは2023年。もっとも、ユトっている1995年度生まれの小中学校の総授業時間数は、8307時間。完脱ユトリの2004年度生まれは、8690時間。つまり、時間数だけで言えば、ほんの5%の差にすぎない。しかし、初等中等教育の方針が劇的に違う。このことは、青少年の人格形成、生きる力にまで大きな影響を及ぼしてしまっている。
もともとユトリは、1992年度から「新学力観」の学習指導要領に従って1987年度生まれ世代が初等中等教育を受けることになった。新学力観とは、知識偏重から意欲重視へ、ということであり、具体的には、個性尊重、生涯学習、国際化・情報化の3本柱で構成された。もともとユトリ教育は左の日教組や朝日新聞が提唱していた机上の空論だが、バブルの時期に右の中曽根と利害が一致し、病的に現実化してしまった。画一主義と学校主義からの脱却、と言えば聞こえがいいが、教育にもっと他種多様な民間業者を参入させよう、そこに大量余剰の教員が潜り込んで一儲けしよう、というもの。
ユトリで学力が低下したかどうか、平均点で議論してもムダ。というのも、公教育から塾・私立へ、画一から格差へ、という流れを決定づけたから。おかげで、それまで受験競争の元凶のように言われてきた偏差値も意味をなさなくなった。平均点を中心とする成績の標準分布が崩れ、上位と下位に2つの成績のヤマができてしまったから。もっとも、下位の方、つまり、少子化とあいまって、ユトリの公教育だけで下層ニートになる、もしくは、受験勉強なしにどこでもFランク大学に全入していく階層は、模試さえも受けず、塾がバタバタと潰れていくようになった。
教育観として言えば、これは、医者一家の長男として生まれ、遅れてきた団塊左翼世代で東大法学部出の文部官僚の寺脇研(1952年生まれ、現京都造形芸術大マンガ学科教授)と、自分自身が通信教育で教員免許を取って現場の小学校教員からのし上がってきた陰山英男(1958年生まれ、現立命館大学教育開発推進機構教授)の戦い。ユトリが出てきた背景には、たしかに、社会の急速な変化で学習内容が陳腐化してしまう、という問題があった。それで、自力での問題解決能力の向上に重点が置かれたが、しかし、授業時間の不足の中で、現実には問題解決以前の基礎能力や基本知識の習得が無いまま、「個性尊重」の美名の下に、やりたいことしかやらない学童を、やらなくてもほっておく、後は「生涯学習」とやらに先送りする「無教育」が常態化した。つまり、公教育としての青少年のネグレクトだ。おまけに、ちょうど男女雇用機会均等法の徹底とバブル崩壊の不景気で、共働きが増大し、家庭教育も子供たちをネグレクト。
これに対し、脱ユトリの陰山は、まず朝食や睡眠などの青少年の家庭での生活習慣の建て直しから始めるべきであると主張し、これを実践した。また、計算や漢字など、基本の徹底した反復学習を推奨。現在は、公立の初等中等教育でも、これを取り入れている小中学校は少なくない。ただ、このメソッドは、5%程度、学校の授業時間を延ばした中におよそ収まるようなものではなく、教員と家庭の双方の相応の教育熱意が必要となり、その熱意の有無によって、今後も学校格差、家庭格差は広がっていかざるをえない。くわえて、いまだに、生活習慣や反復学習と学力との間には科学的な根拠が無い、などという旧ユトリ派からの反動的批判もあるが、「科学的」ということを言うなら、ユトれば学力が向上する、という理屈の方が、無理がある。
自分もかれこれ大学の教壇に立って三十年になるが、ユトリ世代になってから学生が大きく変わった。鉛筆の持ち方さえ、まともに習っていない。ガチガチに指を突っ張らせ、手首で字を書いている。板書の筆写がせいいっぱいで、話の要点をノートにメモする方法を知らない。先の予定が立てられず、時間や締切を守れず、すっぽかし、だが、悪びれもせず、後から意味不明の代替案で個別交渉に持ち込んで、死ぬ、死ぬ、と泣きわめいて強迫する。だから、同業者の大半は、見て見ぬふりで、適当に卒業させて追い出し、さらに社会に先送り。しかし、教育に携わり、自分の息子、娘だったらどうするか、を真剣に考えれば、そうばかりもいくまい。
ユトリ世代はかわいそうだ。連中は、つねにユトリに守られてきて、100%の努力をした経験が一度もない。だが、それこそ科学的な根拠のある話ではないが、筋肉でも、頭脳でも、度胸でも、100%の努力をしたときにはじめて、余力が目覚め、110%の力がつくものではないだろうか。そして、その次にはその110%の努力をして、さらに120%の力を得る。これがまさに「勉強」というものだろう。逆に、つねに80%以下のユトリ運転ばかりでは、余力の方が90%、80%に衰えていってしまう。そして、衰えに衰えて、若いのに老人のような、泣言と愚痴と嫉妬の化け物ができあがる。
だが、それも終わりだ。いままでは、若い者なんだから、できなくても仕方がない、で、大学でも、会社でも、許されてきてしまってきた。ところが、これから脱ユトリ世代が上がってくる。より若い方ができるとなれば、いまや実力社会だ、どんどん追い抜いていくことになるだろう。学校でユトリ教育しか受けてこなかった世代は、自助努力で、自分の弱点を克服しなければ、後輩たちに踏みつけにされる。とはいえ、自助努力なんていうことも、ユトリ世代は、これまで習ってきていないのだから、この状況を、人のせい、世間のせいにすることしかできまい。ほんとうに、いよいよかわいそうだ。
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近著に『悪魔は涙を流さない』などがある。)
2015年度の四月から大学に脱ユトリ世代(1996年度生まれ)が入ってくる。これは移行期で、完脱ユトリ世代(2004年度生まれ)が入ってくるのは2023年。もっとも、ユトっている1995年度生まれの小中学校の総授業時間数は、8307時間。完脱ユトリの2004年度生まれは、8690時間。つまり、時間数だけで言えば、ほんの5%の差にすぎない。しかし、初等中等教育の方針が劇的に違う。このことは、青少年の人格形成、生きる力にまで大きな影響を及ぼしてしまっている。
ユトリで学力が低下したかどうか、平均点で議論してもムダ。というのも、公教育から塾・私立へ、画一から格差へ、という流れを決定づけたから。おかげで、それまで受験競争の元凶のように言われてきた偏差値も意味をなさなくなった。平均点を中心とする成績の標準分布が崩れ、上位と下位に2つの成績のヤマができてしまったから。もっとも、下位の方、つまり、少子化とあいまって、ユトリの公教育だけで下層ニートになる、もしくは、受験勉強なしにどこでもFランク大学に全入していく階層は、模試さえも受けず、塾がバタバタと潰れていくようになった。
教育観として言えば、これは、医者一家の長男として生まれ、遅れてきた団塊左翼世代で東大法学部出の文部官僚の寺脇研(1952年生まれ、現京都造形芸術大マンガ学科教授)と、自分自身が通信教育で教員免許を取って現場の小学校教員からのし上がってきた陰山英男(1958年生まれ、現立命館大学教育開発推進機構教授)の戦い。ユトリが出てきた背景には、たしかに、社会の急速な変化で学習内容が陳腐化してしまう、という問題があった。それで、自力での問題解決能力の向上に重点が置かれたが、しかし、授業時間の不足の中で、現実には問題解決以前の基礎能力や基本知識の習得が無いまま、「個性尊重」の美名の下に、やりたいことしかやらない学童を、やらなくてもほっておく、後は「生涯学習」とやらに先送りする「無教育」が常態化した。つまり、公教育としての青少年のネグレクトだ。おまけに、ちょうど男女雇用機会均等法の徹底とバブル崩壊の不景気で、共働きが増大し、家庭教育も子供たちをネグレクト。
これに対し、脱ユトリの陰山は、まず朝食や睡眠などの青少年の家庭での生活習慣の建て直しから始めるべきであると主張し、これを実践した。また、計算や漢字など、基本の徹底した反復学習を推奨。現在は、公立の初等中等教育でも、これを取り入れている小中学校は少なくない。ただ、このメソッドは、5%程度、学校の授業時間を延ばした中におよそ収まるようなものではなく、教員と家庭の双方の相応の教育熱意が必要となり、その熱意の有無によって、今後も学校格差、家庭格差は広がっていかざるをえない。くわえて、いまだに、生活習慣や反復学習と学力との間には科学的な根拠が無い、などという旧ユトリ派からの反動的批判もあるが、「科学的」ということを言うなら、ユトれば学力が向上する、という理屈の方が、無理がある。
自分もかれこれ大学の教壇に立って三十年になるが、ユトリ世代になってから学生が大きく変わった。鉛筆の持ち方さえ、まともに習っていない。ガチガチに指を突っ張らせ、手首で字を書いている。板書の筆写がせいいっぱいで、話の要点をノートにメモする方法を知らない。先の予定が立てられず、時間や締切を守れず、すっぽかし、だが、悪びれもせず、後から意味不明の代替案で個別交渉に持ち込んで、死ぬ、死ぬ、と泣きわめいて強迫する。だから、同業者の大半は、見て見ぬふりで、適当に卒業させて追い出し、さらに社会に先送り。しかし、教育に携わり、自分の息子、娘だったらどうするか、を真剣に考えれば、そうばかりもいくまい。
ユトリ世代はかわいそうだ。連中は、つねにユトリに守られてきて、100%の努力をした経験が一度もない。だが、それこそ科学的な根拠のある話ではないが、筋肉でも、頭脳でも、度胸でも、100%の努力をしたときにはじめて、余力が目覚め、110%の力がつくものではないだろうか。そして、その次にはその110%の努力をして、さらに120%の力を得る。これがまさに「勉強」というものだろう。逆に、つねに80%以下のユトリ運転ばかりでは、余力の方が90%、80%に衰えていってしまう。そして、衰えに衰えて、若いのに老人のような、泣言と愚痴と嫉妬の化け物ができあがる。
だが、それも終わりだ。いままでは、若い者なんだから、できなくても仕方がない、で、大学でも、会社でも、許されてきてしまってきた。ところが、これから脱ユトリ世代が上がってくる。より若い方ができるとなれば、いまや実力社会だ、どんどん追い抜いていくことになるだろう。学校でユトリ教育しか受けてこなかった世代は、自助努力で、自分の弱点を克服しなければ、後輩たちに踏みつけにされる。とはいえ、自助努力なんていうことも、ユトリ世代は、これまで習ってきていないのだから、この状況を、人のせい、世間のせいにすることしかできまい。ほんとうに、いよいよかわいそうだ。
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近著に『悪魔は涙を流さない』などがある。)