photo by Valentina Calà via flickr

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 フランスとイスラム国の対立が激しさを増しています。シャルリー・エブド社への襲撃事件に始まり、その後、言論の自由を含んだ反テロリズムを標榜するデモがフランス全土に広まり、その数、実に370万人にも及んだというのはみなさん、ご存知の通り。これは大変痛ましい事件ではあるのですが、そんな中、指摘されているのが、糾弾されるべきはどちらにあるのかという点です。

 当然のことながら、こうした過激な行為に及んだテロリストたちに対しては、同情の余地はまったくありませんが、だからと言って、他者が大切にするものを容易に侮辱していいのかというとそういうわけでもありません。「表現の自由」と言えば確かに聞こえはいいのかもしれませんが、個人(Private)と公(Public)の自由は著しく異なるという考えを持たなければ、この正当な論評はできないのではないでしょうか。

 例えば、「言論の自由」という考えについては、つい先日、国内でも物議を醸し出した出来事がありました。それが、「ろくでなし子」という女性が女性器をモチーフにしたアート作品で警視庁よりわいせつ電磁的記録頒布などの疑いで再逮捕されたというニュースです。

 ここでは、数多くの識者たちが、「表現の自由」に対する冒涜だと語り、逮捕に及んだ警視庁の姿勢を批判していました。ただ、このとき、こうした批判に多少の違和感を覚えたのも事実です。というのも、本人は、「女性器はわいせつ物ではない」と容疑を否認しておきながら、アダルトショップ(文京区)で展示していたという流れがあるからです。このもっともわいせつな場所に展示しておきながら、わいせつではないと言い張るのは何とも滑稽で、極端な例えではありますが、未成年者をラブホテルに誘っておきながら、芸術鑑賞のために呼んだと言い張るのに近い感覚を覚えます。

 もちろん、これが自宅に展示してあったというのなら話は別ですが、公に持ち込んだ途端、相応の社会的制約を受けるというのはある意味仕方がないことではないだろうか、そう思うのです。よく、私は「自由」は「責任」を伴うからこそ享受できるのであって、「責任」のない「自由」は単なる「暴力」に過ぎないという話をさせて頂きますが、何が何でも「自由」というのは、単純に虫の良すぎる話ではないかと思っています。

 無論、こうした俗っぽい話をこのフランスの凄惨な事件に引用してしまうのはいささか気が引けますが、この「表現の自由」という捉え方に対しては、ある意味、近い原理が働いているのではないでしょうか。最近、サザンオールスターズの桑田さんもそのパフォーマンスで非難されておりましたが、日本でも天皇陛下があのように風刺されたら、いかなる誹りを受けても免れる気はしないですからね。だからこそ、こうした表現に及ぶ以上は、余程の機知にでも富んでない限り、容易に取り扱うものではないんじゃないかと思うのです。

 少なくとも、フランスは移民大国でさまざまな価値観を持った人たちが生活を共にしていると考えれば、そうしたリスクはより一層高まるというのは、容易に想像がつくと思います。だから、本来はフランス国内においても「私たちにも行き過ぎたことはあったかもしれない。ただし、こうした殺傷行為は決して許さない」と両者をきちんと分けて考えるのが一番で、単純な一方の良し悪しで語るものではないというのが、私の考えです。

 欧州の方たちは話をしていると、すぐに白黒をはっきりとさせたがる傾向があるので、こうした考えに及んでしまうのかもしれませんが、グローバルな世界になればなるほど、表現の幅が制約を受けるものなのです。

著者プロフィール

一般社団法人国際教養振興協会代表理事/神社ライター

東條英利

日本人の教養力の向上と国際教養人の創出をビジョンに掲げ、を設立。「教養」に関するメディアの構築や教育事業、国際交流事業を行う。著書に『日本人の証明』『神社ツーリズム』がある。

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