安直な特撮映画は災害被害の冒涜だ/純丘曜彰 教授博士
/あの日、見た光景は、映画とはまるで違った。生きた家族が埋もれた家に火の粉が降りかかるのに、だれも打つ手がなかった。あの日の本当の恐ろしさを伝えず、無人の街を壊して嬉々とするような幼稚な連中を助長し、物と心の備えを失えば、いつかまたあの日の悲劇を繰り返してしまうのではないか。/
あの日の夜、黒い煙が赤い炎で不気味に光っていた。朝の地震は、ほんの始まりに過ぎなかった。倒壊した建物の下には、まだ助けを求めている人が大勢いた。しかし、道路は寸断され、重機が近づくこともできなかった。あちこちでガス管が外れ、いたるところから火が上がった。水道管からは一滴の水も出ず、消防士たちはなすすべがなかった。生き残った人々は、必死にバケツリレーで、わずかの水をかけたが、天高く舞い上がる火の粉を前に、延焼を食い止めることはできなかった。思い出すのもつらいが、多くの人が、瓦礫の下で生きながら焼け死ぬことになった。
段取りに手間取る政府や自衛隊よりも、地元の山口組などのヤクザ、創価学会などの宗教団体、そしてダイエーの初動は劇的に早かった。これに、ボランティア、というより、親族縁者を心配した人々が、徒歩や自転車で現地に駆けつけ、支援に加わった。マスコミは、ヘリを飛ばし、映像を撮ったが、救出や救援の邪魔でしかなかった。おまけに、ヤクザや宗教団体の地道な活動は、妙な左翼デスクたちが、最初から最後まで黙殺した。
避難所もまた、心の安まる場ではなかった。暖房はなく、冷たい床に段ボールが敷ければまだましな方。そこに家を失った人々が身を寄せた。またたく間にカゼが蔓延し、体調を崩す人が続出した。このひどい状況に、あえて一月の寒空で暖を取って夜を過ごす人々も少なくなかったが、やはり体を壊し、命を縮めることになってしまった。
東宝や円谷のある成城の町に生まれ、父も関わっていたこともあって、子供の頃、怪獣映画は大好きだった。しかし、あの日、テレビの報道局内のモニタで見た神戸や淡路の街の生の様子は、映画とはまったく違った。ウエハースのようなヘロヘロのビルの壁が折れるのではない。太い鉄筋がはじけ飛び、大小のコンクリの塊をまき散らし、建物や高速道路が崩れ落ち、電柱や電柱が絡まり合って、人々の逃げ道を奪う。小さな爆発の閃光で火は消えたりしない。ほんの小さな火の粉が、真っ黒い雲とともに夜空に舞い上がり、それが家族を生き埋めにしている崩れた家の上に際限なく降り注いでくる。勇壮なマーチとともに自衛隊がミサイルで攻撃すれば解決できるわけではない。隊員も、市民も、徒歩で瓦礫を乗り越え、軍手で、いや、素手で、木材や家財を押しのけ、声をからし、涙をぬぐいながら、生きた人を探し求める。街も、きれいなミニチュアの街路灯が並んでいるわけではない。昨日までの幸せな生活を踏みにじるかように、個人の大切なもの、書類や写真がそこら中に散乱し、ゴミと廃材にまみれていく。
『ゴジラ』映画は、あの年、95年で作られなくなる。あの現実を見た後に、いくら特撮だと言われても、映画は、あまりにもしらじらしい作り物でしかなかった。ところが昨今、ユトリ世代の中には、いままたあの古くさい子供だましに心酔するやつらが出てきた。もちろん人の趣味だから、それはそれだが、だがしかし、それなら同じように、あんな生きた人間のいない街の破壊が安直な見世物としていまだに売られること自体が不愉快だ、現実の災害被害を、瓦礫の下で死んだ大勢の人々を冒涜するな、という立場ももっと尊重されるべきだ。
20年目の記念番組も、朝の15秒間の話ばかり。あの日、あの地震から始まった一週間の地獄、それから今までずっと続く、終わることの無い悲しみ。街には人が生き、人が暮らしている。街が壊れるとき、人の命が失われる。生き残っても人生が失われる。亡くなった人、砕かれた夢。あれだけの犠牲の上に、我々は多くを学んだ。にもかかわらず、あの日のことを忘れ、その本当の悲劇を伝えようとせず、無能者の全能感だけのために無人の模型の街の破壊に嬉々とするような、想像力と人間味の無い若者たちを作り、物と心の備えを失えば、いつかまたあの日、あの一週間が繰り返されてしまうのではないか。
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近著に『悪魔は涙を流さない』などがある。)
あの日の夜、黒い煙が赤い炎で不気味に光っていた。朝の地震は、ほんの始まりに過ぎなかった。倒壊した建物の下には、まだ助けを求めている人が大勢いた。しかし、道路は寸断され、重機が近づくこともできなかった。あちこちでガス管が外れ、いたるところから火が上がった。水道管からは一滴の水も出ず、消防士たちはなすすべがなかった。生き残った人々は、必死にバケツリレーで、わずかの水をかけたが、天高く舞い上がる火の粉を前に、延焼を食い止めることはできなかった。思い出すのもつらいが、多くの人が、瓦礫の下で生きながら焼け死ぬことになった。
避難所もまた、心の安まる場ではなかった。暖房はなく、冷たい床に段ボールが敷ければまだましな方。そこに家を失った人々が身を寄せた。またたく間にカゼが蔓延し、体調を崩す人が続出した。このひどい状況に、あえて一月の寒空で暖を取って夜を過ごす人々も少なくなかったが、やはり体を壊し、命を縮めることになってしまった。
東宝や円谷のある成城の町に生まれ、父も関わっていたこともあって、子供の頃、怪獣映画は大好きだった。しかし、あの日、テレビの報道局内のモニタで見た神戸や淡路の街の生の様子は、映画とはまったく違った。ウエハースのようなヘロヘロのビルの壁が折れるのではない。太い鉄筋がはじけ飛び、大小のコンクリの塊をまき散らし、建物や高速道路が崩れ落ち、電柱や電柱が絡まり合って、人々の逃げ道を奪う。小さな爆発の閃光で火は消えたりしない。ほんの小さな火の粉が、真っ黒い雲とともに夜空に舞い上がり、それが家族を生き埋めにしている崩れた家の上に際限なく降り注いでくる。勇壮なマーチとともに自衛隊がミサイルで攻撃すれば解決できるわけではない。隊員も、市民も、徒歩で瓦礫を乗り越え、軍手で、いや、素手で、木材や家財を押しのけ、声をからし、涙をぬぐいながら、生きた人を探し求める。街も、きれいなミニチュアの街路灯が並んでいるわけではない。昨日までの幸せな生活を踏みにじるかように、個人の大切なもの、書類や写真がそこら中に散乱し、ゴミと廃材にまみれていく。
『ゴジラ』映画は、あの年、95年で作られなくなる。あの現実を見た後に、いくら特撮だと言われても、映画は、あまりにもしらじらしい作り物でしかなかった。ところが昨今、ユトリ世代の中には、いままたあの古くさい子供だましに心酔するやつらが出てきた。もちろん人の趣味だから、それはそれだが、だがしかし、それなら同じように、あんな生きた人間のいない街の破壊が安直な見世物としていまだに売られること自体が不愉快だ、現実の災害被害を、瓦礫の下で死んだ大勢の人々を冒涜するな、という立場ももっと尊重されるべきだ。
20年目の記念番組も、朝の15秒間の話ばかり。あの日、あの地震から始まった一週間の地獄、それから今までずっと続く、終わることの無い悲しみ。街には人が生き、人が暮らしている。街が壊れるとき、人の命が失われる。生き残っても人生が失われる。亡くなった人、砕かれた夢。あれだけの犠牲の上に、我々は多くを学んだ。にもかかわらず、あの日のことを忘れ、その本当の悲劇を伝えようとせず、無能者の全能感だけのために無人の模型の街の破壊に嬉々とするような、想像力と人間味の無い若者たちを作り、物と心の備えを失えば、いつかまたあの日、あの一週間が繰り返されてしまうのではないか。
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近著に『悪魔は涙を流さない』などがある。)