輝いている男がどこにいるんだ?/日野 照子

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『女性が輝く社会づくり』が安倍政権の最重要課題の一つだが、なぜ、「誰もが輝く」ではいけないのか。この感性が差別を助長し、逆差別を生む。真のダイバーシティとは。

 2015年1月9日『女性が輝く先進企業表彰式』が開催された。『すべての女性が輝く社会づくり』というのが、安倍政権の最重要課題の一つ、らしい。2014年10月10日付けの『すべての女性が輝く政策パッケージ』によれば、『各々の希望に応じ、女性が、職場においても、家庭や地域においても、個性と能力を発揮し、輝くことができる社会』をつくるのだとある。理念としては素晴らしい。けれど、これ、女性が、と限定する必要がどこにあるのだろう。
( http://www.kantei.go.jp/jp/headline/brilliant_women/pdf/20141010package.pdfより抜粋)

 男女雇用機会均等法の施行からはや四半世紀が過ぎているというのに、改めて"女性の活躍"が喧伝される不思議の国、ニッポン。あまりにも、企業で女性が活躍していない(!)ということで、とうとう内閣がこんな政策を掲げ、"ガラスの天井"をぶち破るべく、女性管理職登用の目標数値を企業に指導するまでになった。管理職に誰を置くかなど、国が口出しするようなことではないと思うが、それだけ、実社会がついて行っていないということなのだろう。

 しかし、である。これ、女性に限定するべき問題だろうか。

 『女性が輝く』という類のコピーを見るたび、「輝いている男がどこにいるんだ?」と思う。大多数の企業において、個性と能力を発揮できず、輝けないでいるのは女性に限った話ではない。ピラミッド型の組織を維持するには、一つ一つのブロックがみな同じ形でなければならないと信じている人が組織を管理していることが非常に多いからだ。実際には、様々な形のブロックを組み合わせて城壁はできるのだが、それを理解しようとしない。面倒なので、同じ型に押し込め、整然と並べようとする。

 機会均等というのはその言葉通りに解釈すれば、同じようにチャンスが、選択肢が、あるということだ。当然、男性の機会均等もあるべきなのだ。なのに、『女性が輝く』だの『女性管理職30%』だのと、女性のことばかりクローズアップするから、四半世紀経っても問題が解決しない。

 男だ、女だ、といちいち気にするから、おかしなことになるのだ。生物学的な違いがある?もちろん。脳の構造にも性差がある?もちろん。でも、色々な違いって、性差によるものだけだろうか?多様性というのは、男か女かの二択ではない。女性であるという理由で、論理的でないとか、緻密な作業が得意とか、思い込まれても困るし、男性であるという理由で、企画力が優れている、出世を望んでいる、などと決めつけられるのも迷惑な話だと思う。

 たとえば、自分は女性だが事務作業が苦手である。抽象概念理解力が高く、決断が早い。おかげで在職中は大抵の男性社員よりも"男らしい"と言われ続けた。よしんばそれが好意的な評価であろうと、その裏にあるのは"女なのに""女のくせに"という偏見である。

 逆に、"男らしい"という偏見に悩む男性もいることだろう。空間処理能力より言語能力の方が明らかに高く(要はおしゃべり)、決められた手順に従って作業を進める仕事の方がいいのに言い出せない。家事や育児の方が向いているけれど、男だから働きに出る。

 確かに「女性が男性と同じように働き、出世できる」という選択肢も必要だろう。だが、それだけでは何も解決しない。誰にでも、たくさんの選択肢がある、ということの方がよほど重要だ。このダイバーシティの本質を理解していないと、すべての部下に自分と同じふるまいを求め、数値目標を達成するために希望してもいない女性を管理職に昇格させたりするようになる。そうして今度は男性が「女はいいよな」と言うようになる。悪循環である。

 「女性の方が優秀だ」と褒めているつもりで言っている、そこのあなた。差別主義者と思われる前に、仕事の能力とその人が女性であることに何か関係があるのか、ちゃんと考えてから発言した方がいい。女性管理職候補を集めてお食事会をやるより、性別に関係なく管理職になれる人材を育てた方がいい。それが、本当の機会均等であり、多様性を認めるということだ。人間の内面を変えるのは難しい。だから、制度から変えるのも一理ある。それでも、一人でも多くの人が、ほんの少し物の見方を変えるだけで、誰もが輝く社会に近づいていくと思う。