『Nature』誌が撤回したSTAP細胞の論文

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【フリーランスドクターXのぶっちゃけ話・番外編】

 前回の記事では「画期的な新薬X」を発明した時、それを世に広く知らしめるためには、論文にまとめて科学雑誌に投稿し掲載されることが必須であり、そのための具体的な手続きはどうなっているのかについて記した。

 また、科学論文には小説やエッセイのような言葉の美しさやら余韻などは不必要(むしろジャマ)で、教科書のような客観的で正確な記述が必須である。科学的記述には一定の書式があり、現在もっとも汎用されているのが、IMRAD: Introduction, Method, Result and Discussion、すなわち序論→方法→結果→考察という書式である。

 一例を挙げると、

序論:高血圧は降圧剤で治療できるが、血圧が下がりすぎると脳梗塞になりやすい

方法:脳梗塞になりにくい新薬Xを開発、Xを1000人が、従来薬Yを1000人が服用

結果:追跡調査でXは2人、Yは5人が脳梗塞になった

考察:新薬Xは脳梗塞になりにくい、画期的な降圧剤である

 ……といった形式である。

「大ウソ論文」でボロ儲けした降圧剤ディオバン

 ここで言う新薬Xに相当するのが、降圧剤のディオバンである。「5つの医大にまたがる研究データ捏造」として昨年から今年にかけて世間を騒がせたので、意味は解らずとも薬品名に聞き覚えはないだろうか。ディオバンの製造元である製薬会社の社員が、こっそりデータ集計に関与して隠密に改ざんし、「自社製品には副作用が少ない」ように見せかけたのだ。

 具体的には、「ディオバンを服用したが脳梗塞になった患者のデータを、こっそり集計から外す」といった手法である。

 この研究論文には複数の医大やら学会の重鎮が関与し、Lancet誌(IF=39)など一流医学誌に何度も掲載されていたので、一般の医者は「ディオバンだと脳梗塞になりにくい」と固く信じて、昔からの降圧剤に比べて倍ぐらいの値段がする薬だったがセッセと処方していたのだ。あの、学会の大御所たちが薦めた一連の論文が実は“大ウソ”だったなんて、多くの医者は「これからは何を信じて処方すればいいの?」という気分になったものである。

 なお、事件発覚後、たまーに「ウチのオヤジはディオバン服用してるんだけど、やめたほうがいい?」といった相談を受けることがある。「脂肪を減らすお茶だと信じて1本200円のペットボトルをせっせと飲んでいたら、実は100円のものと効能が同じだった……みたいなもんですよ。薬害というほどではないが、他の安い降圧剤に替えてよいかも」などと、私は答えている。

捏造がバレれば科学者生命は絶たれるのに……

「結婚は単なるゴールはなくスタートでもある」ように、論文掲載は研究の重要な節目ではあるが、ゴールではない。

 科学雑誌には「質疑応答(Correspondence)」というコーナーがあり、自雑誌に掲載された論文についての質問や意義を受け付けている。そして、論文の著者はその質問やら異議に対し、「返答(Reply)」する義務があり、マトモに返答できなかった場合には「議論に負けた」とされて、場合によっては「論文撤回(Retract)」されてしまう。まあ、「無事に結婚式を挙げても、実際の結婚生活を始めるといろんなボロが出てきて、早々にスピード離婚」のようなものである。

 多くのマジメな科学者が捏造を行わないのは、査読という制度に加えて、論文掲載後の質疑応答を切り抜けられないからである。

 科学論文には再現性が必須である。IF<1未満のマイナー科学雑誌ならばともかく、CNS(『Cell』、『Nature』、『Science』)のような一流誌では、マトモな実験ノートすらない状態で質疑応答をクリアすることは非常に困難だ。フツーの研究者ならば「捏造データでCNSに載っても、バレるのは時間の問題」で「バレて捏造研究者の烙印を押されれば、科学者としてのキャリアが終わる」ことを理解しているからである。

「年齢・収入・学歴などを捏造して婚活して成婚しても、結婚生活の中でいずれバレる」、そして「下手に捏造がバレて離婚ともなれば、結婚詐欺よばわりされて世間体は地に堕ちる」みたいなものである。

 ゆえに、質疑応答が予想される期間(1〜3年)、写真や実験ノートなどの生データを保存しておくことは、研究者にとって大変重要である。また、こういった質疑応答を繰り返すうちに、別の研究機関から「ウチでも〇〇細胞ができたよ」といった論文が投稿されるようになる。そして「質疑応答をクリア」し「複数の研究機関から同じ結果が出る」ようになれば「科学的知識として確立した」と扱われる。

 まあ、「結婚後数年経ち、新婚期間を過ぎても仲睦まじく暮らし、子供もできたならば、夫婦として確立」みたいなものである。また、「熟年離婚」があるように、「論文掲載の30年ぐらい後に否定される知見」というのも、たまーに存在する。

小保方さんの「科学者としての資質」

 今回のSTAP騒動で、仮に小保方氏の写真コピペが発覚しなかったとしても、『Nature』誌には「論文どおりに実験したけど、そんな細胞できないんだけど……。この論文おかしくね?」的な異議が世界中から殺到しただろう。

 こういった科学論文の世界では、質疑応答は文章やら図表を用いて雑誌上で行なわれるものであり、「ヘアメイクをばっちり整えて記者会見で泣いて弁明」というのは全く通用しない。あの実験ノートから推測できる小保方氏の科学的センスで、世界中から殺到する異議にマトモに文章で返答できるとは思えないので、そう遠くないうちに論文内容が疑われて撤回に至ったと考えられる。

 STAP騒動の余波で、iPS細胞の研究で高名な山中伸弥氏まで「10年以上前の実験ノートがない」ことで謝罪記者会見に追い込まれていたが、「iPS細胞」そのものは世界中のあっちこっちの研究施設で再現されているので、「小保方ノート」と同列に扱うのは失礼だと思う。

 一方で、ディオバン事件において、5つの大学から同じ結果を示す論文が発表され、とっくに「科学的知識として確立した」はずの知識が、「実はデタラメ」だったことは医学界にとって大きな衝撃であった。幸か不幸か、事件関係者には小保方氏のようなビジュアル系人材がおらず華もなかったので、世間からは注目されないまま終わったが……。

 2014年9月、理化学研究所は高橋政代氏による「iPS細胞を使った網膜細胞移植手術(注1)」について記者会見した。つい数カ月前に、「ムーミン冷蔵庫」「おばあちゃんの割烹着」「ヴィヴィアン・ウエストウッドの指輪(注2)」etc.といった、女子力を全面に出して大騒ぎをした同じ研究所とは思えない、女性研究者であることを無視したような記者会見であった。

 しかしながら、科学とは本来「女子力」やら「ビジュアル」とは無縁の存在であり、こういった姿勢こそが研究機関には求められるのだ。12月、『Nature』誌は「今年の10人(注3)」に高橋政代氏を選んだ。

まとめ論文が科学雑誌に載った後でも、著者は質疑応答をクリアする必要があるSTAP論文は、仮にコピペがバレなくても、質疑応答でダメだしされたっぽい質疑応答は無味乾燥な文章で行われるもので、泣いてもムダである論文とか科学研究とは、研究者の女子力に影響されるべきではない

注1:

筒井冨美(つついふみ)フリーランス麻酔科医。1966年生まれ。某国立医大卒業後、米国留学、医大講師を経て、2007年より「特定の職場をもたないフリーランス医師」に転身。テレビ朝日系ドラマ『ドクターX 〜外科医・大門未知子〜』にも取材協力