土屋耕一『コピーライターの発想』(1984年)
杉浦康平がデザインしていた時代の講談社現代新書における名著の一つ。カバー表1に、書名と著者名のみならず、写真や解説文(重要な単語が色分けされているのに注目)が配されているのがいま見ても斬新だ。なお本書の内容は、昨年刊行された『土屋耕一のことばの遊び場。』にも一部が再録されている。

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講談社現代新書の創刊から、この4月で50周年を迎えた。講談社のウェブサイト「現代ビジネス」でもこれを記念して、特別企画が組まれている。そこでは、先行する岩波新書・中公新書に対し、現代新書はより広い読者層を対象とした教養新書をめざして立ち上げられたこと、はたまた、なぜ「講談社新書」ではなく、「講談社“現代”新書」となったのかなど、創刊時の秘話があきらかにされていて面白い。

思えば、いまから25年前、私が中学に入り、書店に行っても児童書以外のコーナーを覗くようになった頃、ほかの新書とくらべて講談社現代新書にはとくに親しみを感じた。もっとも、元号が平成に変わってまもない当時、光文社のカッパブックスのような実用性の高いシリーズを除けば、新書というと現代新書以外には前出の岩波新書と中公新書ぐらいしかなかったのだが。

ともあれ、自分が現代新書に親しみを抱いたのは、内容以前にブックデザインによるところも大きい。いま30代以上の世代には、現代新書といえば薄黄色のカバーを思い出す人が多いのではないだろうか。いまでも古本屋の新書棚の前に立つと、2004年のリニューアル以前の現代新書がひときわ目立って見える。

このブックデザインは、グラフィックデザイナーの杉浦康平によるものだ。杉浦が現代新書の仕事を引き受けたのは1971年。当時、気鋭のデザイナーとしてさまざまな実験的な装幀を手がけていた杉浦の起用は、新書界に革命をもたらすことになる。

いまでもそうだが、新書といえば、どの本も同じ装幀で統一されているのが普通だ。そのなかにあって杉浦は《基本形は踏まえながら、内容のエッセンスを示す図版や写真を配し、解説文をつけるという、一点一点に個性を持たせる装幀》を打ち出した(臼田捷治『杉浦康平のデザイン』)。

杉浦のデザインではまた、カバーの両ソデに、本文中からの引用(表)と関連書紹介(裏)がそれぞれ入っていた。これが現在の現代新書では、著者略歴と目次(それまではカバー裏面=表4に入っていた)に取って代わっている。往年の現代新書のデザインに思い入れのある者にとっては、せめて関連書紹介を復活させてほしいところではあるが。というのも、この関連書紹介というのが、その本の内容をさらに深めたり、視点を広げたりするのに格好の手引きとなっていたからだ。一例として津金澤聰廣『宝塚戦略』(1991年)での関連書紹介から引用すると、こんな感じ。

《つねに大衆とともに歩む道はつらく、きびしい。/桜井哲夫『手塚治虫』は、戦後日本の生んだヒーローの意味を鋭く考察し、その内面にまで踏みこんだ画期的一冊。/筈見有弘『ヒッチコック』、『スピルバーグ』、岩崎昶『チャーリー・チャップリン』は、映画という二十世紀芸術を切り拓いた巨匠に立ちむかった好著。/きたやまおさむ『ビートルズ』、北中正和『ロック』、後藤雅洋『ジャズの名曲・名盤』、内藤遊人『はじめてのジャズ』は、それぞれ音楽世代の若者に読みつがれているロングセラーである。(後略)》

本書でとりあげられた宝塚から、彼の地で独特の文化を吸収しながら育った手塚治虫、さらには同時代の映画や音楽をとりあげた本へと、まるで水面に波紋が広がっていくように関連書が紹介されている。

【現代新書の特色その1】サブカルチャーも早くから“教養”としてとりあげる
それにしても、いまから20年あまり前の既刊として、マンガやSF映画、ロックといったサブカルチャー、ポップカルチャーの本が並んでいるのが、また現代新書らしい。ちなみに『ロック』は1985年、『ビートルズ』(のち『ビートルズを知らない子どもたちへ』と改題してアルテスパブリッシングから復刊)と『スピルバーグ』は1987年、『手塚治虫』は1990年の刊行である。岩波新書や中公新書ではまだ“教養”の範疇に入らなかったようなジャンルも、現代新書ではかなり早い時期から積極的にとりあげていたのだ。

私にとってはとりわけ、中学時代に読んだ『手塚治虫』が印象深い。いま読むと、社会学者である著者の『ジャングル大帝』や『火の鳥』などの作品への評価に疑問を抱かないわけではない。それでも、「時代を切り結ぶ表現者」という副題が示すとおり、手塚の活動の背景に戦後史のさまざまな動きを見てとるその切り口には、少なからぬ影響を受けているように思う。

似たような手法を用いたものとしては、さらに時代を下って、小野俊太郎『モスラの精神史』(2007年)という本がある。同書を読んでいたところ、「モスラ」という作品からこれだけさまざまな要素が引き出せるとは! と驚きの連続であった。

【現代新書の特色その2】現代思想にも強い&事典形式のものもある
教養ということでいえば、難解な哲学・思想、とりわけ現代思想の入門書的な本が目立つのも現代新書の特色である。ポスト構造主義が話題となった1980年代には、今村仁司編『現代思想を読む事典』(1988年)や、ポスト構造主義の前提となる思想の入門書として橋爪大三郎の『はじめての構造主義』(1988年)などがあいついで刊行され、ロングセラーとなっている。

『現代思想を読む事典』のような分厚い事典形式を、新書として初めて採用したのもおそらく現代新書だろう。創刊直後にしてすでに、清水幾太郎編『現代思想事典』(1964年)という一冊があった。これはいわゆる現代思想にかぎらず、同時代の芸術、政治経済、社会現象や国際問題、さらには技術・物理学・数学など自然科学の分野まで広くカバーした事典である。しかも単なる用語解説ではなく、執筆者がおのおの持論を展開し、項目の一つひとつが新書のダイジェストのような趣きだ。この執筆者がまた何とも豪華で、たとえば「悪」の項を作家の澁澤龍彦が、「経営」の項を西武百貨店社長になる前の堤清二が、さらには「現代映画」の項を当時まだ30代前半の大島渚が書いていたりする。

項目にも記述にもマルクス主義への言及が目立つのが時代を感じさせるが、現在の問題を考えるうえで参考になりそうな箇所もけっして少なくない。「東京都」の項(阪本勝・執筆)には《大阪でも都政施行の要請が一時おこったが実現にはいたらなかった》との記述が出てきたりする。どうせなら、この事典の21世紀版を出してくれたら面白いものができると思うのだが。

【現代新書の特色その3】世界の動向をユニークな視点からとりあげる
現代新書には、めまぐるしく変化する国際情勢をビビッドに伝えるドキュメンタリー色の濃い本も少なくない。とりわけそれは、冷戦の終わった80年代末から90年代にかけての時期に目立つ。ゴルバチョフのソ連書記長就任から辞任までの経緯をたどった『ゴルバチョフの2500日』(秋野豊、1992年)は、ソ連解体から3カ月後にして刊行された。著者は、国連から派遣されたタジキスタンで凶弾に倒れるまで行動し続けた国際政治学者である。

このほか、中国滞在中に民主化運動に遭遇した中国史研究者の著者が、街頭に貼り出された風刺的なフレーズを丹念に拾い集めた『天安門落書』(串田久治、1990年)や、フォトジャーナリストの著者がカレーライスの起源を求めて世界中を飛び回った『カレーライスと日本人』(森枝卓士、1989年)なども印象深い。いずれもユニークな視点から国際情勢や世界史を考察したものだ。

【現代新書の特色その4】知的ノウハウを“現場”から伝授
渡部昇一『知的生活の方法』(1976年)がベストセラーになって以来、現代新書では“知的生活もの”も大きな位置を占めている。現在はちくま学芸文庫に入っている外山滋比古『知的創造のヒント』などは、たしか高校の現代国語の副読本で紹介されているのを読んで買い求めた記憶がある。

これらは学者による著作だが、のちには立花隆『知のソフトウェア』(1984年)をはじめ、ジャーナリズムの第一線に立つ著書によるノウハウものも現れた。日本のコピーライターのパイオニアである土屋耕一の『コピーライターの発想』(1984年)も、さまざまな仕事に応用できる発想術を提示している点で、このジャンルに含めてよいだろう。

今回、この記事を書くために、現代新書をあれこれ読み返してみて、過去に書かれながらも2014年の現在を見通したかのような記述を見つけるなど、新たな発見も多かった。たとえば、堀井憲一郎『若者殺しの時代』(2006年)の《2010年代に国を変えようとあせれば、混乱したナショナリズムにあと押しされて、大きな乱れになる。あせらないほうがいい》との一文は、刊行時点からまさにいまに向けられた警句に読める。

もちろん、刊行されたのはかなり前にもかかわらず、未来を予見するかのような記述があるという本は、現代新書にかぎらずほかの新書にもあるだろう。それでも今回読み返してみて、このシリーズにはとりわけその割合が高いように感じた。それも結局、時代ごとに“現代”を映し出そうとした結果なのではないか。現代がわからなければ、未来もわからないに決まっているのだから。
(近藤正高)