今回は、記憶に残る第二次大戦前後の私の体験談をご紹介しておこう。小学校3年生になるときに、遼寧省鞍山市にある現在の鞍山製鋼、当時の昭和製鋼所に父が転職して先に赴任しており、後に母と私も現地に住むことになった。

写真拡大

日本経営管理教育協会が見る中国 第198回−坂本晃(日本経営管理教育協会特別顧問)

1.1939年春、東京から鞍山へ自作の旅程で

 今回は、記憶に残る第二次大戦前後の私の体験談をご紹介しておこう。小学校3年生になるときに、遼寧省鞍山市にある現在の鞍山製鋼、当時の昭和製鋼所に父が転職して先に赴任しており、後に母と私も現地に住むことになった。

 東京から東海道線、山陽線を乗り継いで、下関から関釜連絡船で釜山へ、さらに朝鮮を鉄道で縦断して、現在の瀋陽の手前の分岐駅まで出迎えにきてくれた父と合流、4日目にようやく鞍山に着いた。

 その時の旅程は、祖父から買ってもらった鉄道時間表で私が作成した。いまでも復刻版の時刻表でその日程を再現できる。なにしろ初めての長い旅行だったので、当時は大きな楽しみだったのである。

2.鞍山での生活

 小学校3年から6年まで、当時日本人学校だった大宮小学校(現在の鞍山第2中学校)に通った。冬の体操の時間は、校庭に氷をはったスケートだった。36年後の1981年の鞍山訪問時は、校舎はもちろん、その当時の鉄棒などがそのまま使用されていた。

 親と同伴でなければ入れなかった映画館に、私の父親はよく映画を観に連れていってくれた。鞍山には映画館が3つあった。娯楽の代表が映画であった時代だ。「風の又三郎」は、いまでもそのメロディーをなんとなく思い出すことができる、印象に残る映画だった。

 鞍山は日本が開発した都市だけに、日本人中心の都市計画であり、ほとんど日本人としか交流しない生活だった。おかげで中国語を小学校で週に1時間程度習うだけで、中国人と会話する機会はほとんどなかった。中国人との交流といえば、「洗濯ねえや」と呼ばれる、日本人家庭で家事手伝いをする中国人女性ぐらいだったと記憶している。

 住まいは煉瓦3階建て社宅の3階、広さは3Kタイプ、当時から水洗便所とペチカと呼ぶ家の中心に設置された暖房設備のおかげで、室内で寒さを感じたことはなかった。真冬の戸外では零下27度まで経験したが、実感では今の東京の方が寒い感じである。

3.国府軍と解放軍の内線

 1945年8月、当時中学3年生だった私は、現在の黒竜江省鉄力市郊外の開拓団で農業のお手伝いをする動員の終了直後に終戦を迎えた。現地から遼寧省鞍山の親元まで戻るのに、約半月かかった。

 通学していた鞍山中学校も閉鎖され、勉強もしないまま半年が過ぎたころ、当時の国府軍と解放軍の内戦が鞍山市内でも繰り返された。市の中心部にある大きな広場で、国府軍が大砲を据えて砲撃をしているのを近くで見ていた。考えて見れば危ない話であるが、そういったことも可能だった。ある意味ではのんきな感じでもあった。

 そこで見た中国人の子供たちは、大砲を撃つと薬莢がでるが、それを争って取りにいくのである。売ればお金になるという。その逞しさは今の中国の原動力だと思う。また、昨日まではどちらか一方の旗を振っていたのが、次の日にはもう一方の旗を振っている。これも中国民族の遺伝子に組み込まれているものと信じたい。

 写真は2009年の鞍山中心街。(執筆者:坂本晃・日本経営管理教育協会特別顧問 編集担当:水野陽子)