香川伸行さん(1989年3月撮影)

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【写真】指導者・解説者として大人気 「ドカベン香川」と同じ“1961年生まれ”の元プロ野球選手たち

52歳で急死

 2014年9月26日、昭和のプロ野球を彩った選手が52歳で急死した。南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)で活躍した捕手、香川伸行さん。漫画『ドカベン』の主人公、山田太郎を髣髴とさせる体型から「ドカベン」と呼ばれ、野球ファン以外からの認知度も高かった。南海時代のコーチで香川さんと長く交流があった藤原満さんらの証言で、広く愛された人柄と生涯を振り返る。

(以下、「週刊新潮」2014年10月9日号「墓碑銘」を再編集しました。学校名、球団名、肩書き等は掲載当時のものです)

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観客の気持ちを明るくする選手

 体格が記憶に焼きついている野球選手は、香川伸行さん以外に例がないだろう。

香川伸行さん(1989年3月撮影)

 1980(昭和55)年の南海ホークス入り当時、身長172センチ、体重92キロとかなり肥えて、目は優しい。浪商高等学校の時代から甲子園をわかせた。水島新司さんが描く人気野球漫画『ドカベン』の主人公、山田太郎がそのまま現れたようだった。

 野球好きで知られる作家の阿部牧郎さんは振り返る。

「ドカベン香川に万雷の拍手や声援です。全身が愛嬌でしたね。観客の気持ちを明るくする。捕手の守備につき、立ちあがって投手に球を返し、再びしゃがんでミットを構えると、体が上下にゆらゆら揺れるのがわかる。野球選手らしからぬ体型ですが、案外と俊敏でした」

 通算10年で714試合に出場。打率2割5分5厘、78本塁打の記録を残した。

「あんなユニークな選手はおらず、愛されました。出た腹を見るとバットを振り切れないのではと思い、力走する姿は滑稽にも感じましたが、遅いわけでもない。三塁打を放ってもいる。肩も良く、盗塁を刺しています」(野球評論家の有本義明さん)

相撲してるの、と思わず聞いた

 1961(昭和36)年、徳島県生まれ。大阪西成区で育つ。父親はスーパーに勤めていた。母親が打撃練習場を手作りし、トスバッティングで鍛えた。

 野球評論家の藤原満さんは、南海時代に選手やコーチとして、香川さんに長く接してきた。

「南海の子供会の集まりにゲストで行った時、初めて会いました。彼は中学生で、サインを下さい、と来たのです。いい体格で、相撲してるの、と思わず聞きました」

 浪商では、牛島和彦投手(中日ドラゴンズに入団、後に横浜ベイスターズの監督)と名バッテリーを組む。1979(昭和54)年の甲子園では春に準優勝、夏には史上初の3試合連続本塁打を放った。

 ドラフト2位で南海へ。肥満児でも大丈夫だと希望が持てましたと、香川さんの自宅や球団に感激や激励の手紙が殺到。コマーシャルの出演依頼も押し寄せた。

頑固で自己管理が甘い

 1980(昭和55)年7月、1軍昇格の初打席で場外ホームランを放つ。

「豪快な打撃だけではない。先を読み相手の隙を突くセンスがある。だから捕手が務まった。驚かれますが、盗塁もしている。サードができたのも、体のバネが良かったからです」(藤原さん)

 歴代監督は減量を求めた。

「持久力に欠けるのです。状況をとらえるのが上手だから、練習を怠けるのもうまい。カメラマンに頼んで、走る姿をずっと追ってもらったこともある。かわいい奴なんですが、頑固で自己管理が甘いのです」(藤原さん)

 1983(昭和58)年、穴吹義雄監督は、減量命令を解除。南海の顔だ、とおだてたところ、長く首位打者を争い大活躍。ベストナインに選ばれた。成績はこの年がピークだった。

 体重は130キロに達し、選手生命以前に寿命が心配された。シーズンオフに入院して約20キロの減量に成功したことも。球団が南海からダイエーになった1989(平成元)年に27歳で現役を引退する。

人なつっこく、威張らない

 福岡に住み、野球解説者のかたわら、勧められて讃岐うどんの通信販売を始めた。

「解説というより応援のようでしたが、人気はありました。人なつっこく、威張らない。名前があるので人が寄ってきました」(藤原さん)

 1985(昭和60)年には、水島さん仲人を務め、飛行機の客室乗務員と結婚したが2年ほどで破局。1988(昭和63)年に再婚、1男1女を授かるが平成11年に別離する。長男は2006(平成18)年に甲子園に出場し、喜んだ。

 3度目の結婚で落ち着いた。お相手は高校時代の知り合いで、子供にも恵まれた。2002(平成14)年に博多に居酒屋を開き繁盛するが、腎不全で療養を余儀なくされる。店を手放し、2010(平成22)年に自己破産も経験した。

 9月26日夕方、自宅で倒れているところを家族が見つけ救急搬送された。心筋梗塞のため、52歳で逝去。

 週3回の人工透析を受けながらも、中学の軟式野球チームの指導を続けた。亡くなる数日前には東京で、プロ野球OBが集う仕事に参加して笑顔を見せていた。

デイリー新潮編集部