【50周年のアイオーデータ】DOS/V革命前夜、日本IBMがアイオーと開いた扉(ゼロ・ハリさん)
今年の1月に50周年を迎えたアイオーデータ(旧アイ・オー・データ機器)。Windowsよりも前のPC-98時代からさまざまな周辺機器を世に送り出しており、アイオー製品にお世話になった人も多いはず。そこで、PC&デジタル業界で長年活躍してきたライターさんに、思い出に残っているアイオー製品を挙げてもらい、選んだ理由や気に入っていたポイントなど、当時のエピソードを振り返ってもらいました。今回は、日本IBMでThinkPadなどの商品企画を担当した、ライターのゼロ・ハリさんです。
1988年頃、日本IBMのパソコン製品企画部門に、少し風変わりな二人が加わった。筆者ことゼロ・ハリと友人Hである。二人は、それまで滋賀県の野洲事業所で、IBMの大型汎用コンピューターの生産計画や生産管理に携わっていた。しかし社外では、大阪の「帝塚山マイコン倶楽部」でFM-7やPC-9801、Macintoshを囲み、パソコン通信や海外ゲームに熱中する筋金入りのパソコンマニアでもあった。
日本IBMのホームPC「JX」が発表された日、二人は大阪・日本橋のJ&Pテクノランドへ見に行き、結局その足でPC-9801F2を買った。その後、「なぜ我々はIBM JXを買わなかったか」という社内プレゼンまで作った。会社から見ればかなり変態的な行動だったが、それが社内で注目され、二人は日本IBMが再び個人向けパソコン市場へ挑むタスクの片隅に加えてもらった。趣味と仕事が一緒になった。
そこで直面したのが、増設メモリーの価格である。当時の大手メーカーにとって、メモリーを含む追加機器は純正品を買ってもらうのが当然だった。だが、個人のお金でPC-9801を使ってきた筆者たちの常識は違う。より大容量で手頃なアイ・オー・データ機器(当時)製メモリーを選ぶ。それが、ごく自然なユーザーの行動だった。
新しいIBM 5530系(PS/55Z)の企画が動き始めると、筆者と友人Hはアイ・オー・データを訪ね、「このIBM機用の増設メモリーを作ってほしい」とお願いした。まだ売れるかどうかも分からない2度目の挑戦の新製品である。アイ・オー・データにとっても簡単な決断ではなかった。
そこで二人は、5530が日本語環境だけの閉じた機械ではなく、再起動すればIBM PC互換の世界につながること、海外にはゲーム、通信ソフト、便利なツールや画像データがすでに大量に存在することを、実機を交えて説明した。帝塚山マイコン倶楽部でPC-9801ユーザーをIBM PCの世界へ誘う時と、ほとんど同じ手口である。話を聞いてくださった営業部長も相当なパソコン通で、最後にはメモリーを製品化していただけることになった。
さらに異例だったのは、筆者たちの意図を汲んだ日本IBMが、そのアイ・オー・データ製メモリーを自社の専用カタログに掲載し、IBMの営業担当者が販売できる新しい仕組みを考えてくれたことだ。「IBMが他社製メモリーを売る」。従来のIBMでは考えにくかったが、個人が自分のお金で買うパソコンでは、それこそが当たり前だった。この仕組みは後に、ゲームに欠かせないサウンドボードなど、他社製ハードウェアをIBM機へ取り込む道にもつながっていった。

1992年、当時のアイ・オー・データ機器が発行した、日本IBM製品用のアクセサリーカタログ。アイ・オー・データ機器とIBMのロゴが並んでいる

カタログに並ぶアイ・オー・データ機器製のメモリーモジュール。IBM純正品と互換性があることをしっかり明記している
1990年、日本IBMはPC/AT互換機で日本語を表示できるDOS/Vを世に出した。日本のパソコン市場は、独自仕様の機械から世界標準のハードウェアとWindowsの世界へ大きく動き始める。その変化は、IBMだけが起こしたものではない。新しい機種に対応し、ユーザーが買える価格と選択肢を用意した周辺機器メーカーの存在が不可欠だった。
振り返れば、5530用メモリーをめぐる交渉は小さな出来事だったかもしれない。しかし、メーカー純正という壁に穴を開け、世界標準へ向かう流れを足元から支えた一瞬でもあった。アイ・オー・データは、間違いなくその一翼を担った企業である。50周年おめでとうございます。

ゼロ・ハリ ぜろはり 竹村譲/T教授/プロフェッサー竹村の名でも知られる。日本IBMで超大型汎用コンピュータの営業からスタートし、DOS/VやThinkPadなどモバイル製品の商品企画・戦略を担当。退職後は富山大学芸術文化学部でブランドデザイン等の教鞭をとる一方、ガジェットを買って、試して、書き続ける。Thinking Power Projectでは「これ、おもろいやん!」を原動力に商品を企画。現在もICT企業の取締役、プロダクト・プロデューサー、熱中小学校の用務員などを兼業。考えるより先に買い、買ってから考える、年中放課後のガジェット好き。 この著者の記事一覧はこちら
日本IBMのホームPC「JX」が発表された日、二人は大阪・日本橋のJ&Pテクノランドへ見に行き、結局その足でPC-9801F2を買った。その後、「なぜ我々はIBM JXを買わなかったか」という社内プレゼンまで作った。会社から見ればかなり変態的な行動だったが、それが社内で注目され、二人は日本IBMが再び個人向けパソコン市場へ挑むタスクの片隅に加えてもらった。趣味と仕事が一緒になった。
そこで直面したのが、増設メモリーの価格である。当時の大手メーカーにとって、メモリーを含む追加機器は純正品を買ってもらうのが当然だった。だが、個人のお金でPC-9801を使ってきた筆者たちの常識は違う。より大容量で手頃なアイ・オー・データ機器(当時)製メモリーを選ぶ。それが、ごく自然なユーザーの行動だった。
新しいIBM 5530系(PS/55Z)の企画が動き始めると、筆者と友人Hはアイ・オー・データを訪ね、「このIBM機用の増設メモリーを作ってほしい」とお願いした。まだ売れるかどうかも分からない2度目の挑戦の新製品である。アイ・オー・データにとっても簡単な決断ではなかった。
そこで二人は、5530が日本語環境だけの閉じた機械ではなく、再起動すればIBM PC互換の世界につながること、海外にはゲーム、通信ソフト、便利なツールや画像データがすでに大量に存在することを、実機を交えて説明した。帝塚山マイコン倶楽部でPC-9801ユーザーをIBM PCの世界へ誘う時と、ほとんど同じ手口である。話を聞いてくださった営業部長も相当なパソコン通で、最後にはメモリーを製品化していただけることになった。
さらに異例だったのは、筆者たちの意図を汲んだ日本IBMが、そのアイ・オー・データ製メモリーを自社の専用カタログに掲載し、IBMの営業担当者が販売できる新しい仕組みを考えてくれたことだ。「IBMが他社製メモリーを売る」。従来のIBMでは考えにくかったが、個人が自分のお金で買うパソコンでは、それこそが当たり前だった。この仕組みは後に、ゲームに欠かせないサウンドボードなど、他社製ハードウェアをIBM機へ取り込む道にもつながっていった。


1990年、日本IBMはPC/AT互換機で日本語を表示できるDOS/Vを世に出した。日本のパソコン市場は、独自仕様の機械から世界標準のハードウェアとWindowsの世界へ大きく動き始める。その変化は、IBMだけが起こしたものではない。新しい機種に対応し、ユーザーが買える価格と選択肢を用意した周辺機器メーカーの存在が不可欠だった。
振り返れば、5530用メモリーをめぐる交渉は小さな出来事だったかもしれない。しかし、メーカー純正という壁に穴を開け、世界標準へ向かう流れを足元から支えた一瞬でもあった。アイ・オー・データは、間違いなくその一翼を担った企業である。50周年おめでとうございます。

