デビュー40周年「パール兄弟」が変わり続けられた理由 サエキけんぞう「異物感のない人はつまらない」
第1回【大瀧詠一が注目したサエキけんぞう、“未来”が見えて「全部イヤに」なった窪田晴男 「パール兄弟」結成前夜】のつづき
別々のバンドでデビューしていたボーカルのサエキけんぞう(68)とギターの窪田晴男(66)がついに交わり、バンド「パール兄弟」は1983年に結成された。
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大学に通いながらできるバンド活動
徳島大学の歯学部に通っていたサエキは、バンド結成にあたりこう考えていた。
「大学の休みにしか東京に来られない状態でも、最大限機能する“お座敷バンド”みたいなものができたら」
最初のリハーサルで、のちにバンドのファーストアルバムに収録される曲「しがらみクラブ」はすぐにできた。

「一晩泊まりに行ったらもうできてしまいました。当時は『J-POP』という言葉はなくて『歌謡曲』だったけど、ポストニューウェーブの歌謡曲の世界を作りたかったんですよ」(サエキ)
「当時、洋楽ばかりを聴いていて、周りのミュージシャンも洋楽を目指していた中で、歌謡曲というのは確かに穴でした。それをニューウェーブ以降のサウンドでやれれば行けそうだな、と」(窪田)
二人の思惑が合致したことで、サエキには確信が生まれた。
「メジャーのメロディーが多い洋楽的なコード進行はもう出尽くした感があって、マイナーメロディーがすごく新鮮に聞こえたんです。窪田さんが感じた面白さは恐らく別の方向だったんですが、思惑が上手く組み合わさった。窪田さんと僕が、それぞれ近田春夫と鈴木慶一からの流れを引いてきたというのも大きかった」(サエキ)
バンドブーム間近でメジャーデビュー
パール兄弟は、結成3年後の1986年6月にアルバム「未来はパール」でメジャーデビュー。デビューまでの期間は「熟成期間であり、それが良かった」とサエキは語る。
「バンドって“24時間開店”できるようなものじゃない。だからアイデアを長期間かけて少しずつ貯めていくやり方のほうが合っていた。逆に毎月ライブをやるような3年間だったら煮詰まっていたと思います」(サエキ)
「当初はサエキ君が大学の休みの時だけのバンドだったんで、酒飲んで喧嘩するような時間もなかったし、そういう距離感でもなかった。詞はファックスで送られてきて、曲もサエキ君が来るタイミングでバンドに下ろすやり方でした」(窪田)
折しもバンドブームの前夜だった。
「多くのレコード会社がバンドを探していて、僕らのもとへも何社か見に来た。その意味ではデビューのハードルが下がっていた時期でもあった(苦笑)。僕らの契約は1985年でしたが、レベッカも爆風スランプも米米CLUBもその頃すでに契約していたんじゃないかな。僕らがレコーディングしている最中、爆風のレコードが初登場でオリコンの左ページ(50位以内)に載っていてみんなで驚いた思い出があります」(窪田)
ただ窪田はデビューについて「サエキ君にはちょっと悪いことをした」とこぼす。大学を卒業したサエキは、日本大学松戸歯学部に籍を置いていた。
「歯医者になる道もあったのに、いいからやろうよ、みたいな。歯医者になることとバンドで食っていくことの差が分かってなかったんですよ」(窪田)
「当時は歯科医がバラ色の道だと思っていましたから、決断するのは相当辛かったですが、同級生で過労死するような人もいて、結構きつい商売なんですよ。今では全然こっちの方が良かったなと思う。おかげで、角川書店から『歯科医のロック』というエッセイ集も出せましたし」(サエキ)
再始動を経て40周年
パール兄弟は、サエキが長男、窪田が次男、ベースのバカボン鈴木が三男、ドラムスの松永俊弥が四男という設定。そして1990年に正式加入したキーボードの矢代恒彦が五男である。窪田が1990年に抜けた際も、兄弟のため「脱退」ではなく「勘当」とされた。メンバーが何度か入れ替わった後、2003年の再始動で、窪田が“勘当を解かれて”復帰。2022年に矢代が亡くなるまで5人で活動を続けた。
「バンドはセッションではなく、各パートの書き譜でやっています。松ちゃんもバカボンも相当の手練れだから、スタジオ入りしてセッションしながらやるよりは、きちんと譜面を示せばすぐ対応する感じです」(窪田)
「それこそ歌謡曲の作り方に似ているよね」(サエキ)
パール兄弟に影響を受けたアーティストの一人が小室哲哉だ。2025年10月にリリースされたパール兄弟の配信シングル「RUN-NEWバックステージ」にフィーチャリング参加し、同年11月に東京の渋谷クラブクアトロで行われたライブにもゲストとして出演した。
「1987年の『Get Wild』と『Self Control(方舟に曳かれて)』は、ともに窪田さんがギターで参加しています。窪田さんの演奏がブレイクのきっかけになったと、小室さんはおっしゃっているんです」(サエキ)
坂本龍一のアルバム「未来派野郎」(1986年)に参加した窪田は、その後の坂本のワールドツアーにもギタリストとして同行した。
「ギター弾きは毎日弾ける現場がある方がいいんです。今もバンドを7つぐらいやっていますし」(窪田)
また、サエキはモーニング娘。のメジャーデビュー前のシングル「愛の種」の作詞を手掛けたことでも知られる。
「パール兄弟の時とは脳の使い方が全然違っていて。名誉なことですが、ヒットさせようとかは別になくて、女の子が前を向いて街に出ていこう、というイメージを自然に書きました。こういう活動をバンドと並行しながらやるというのはパール兄弟独特の感覚でね。バカボンも1995年に村上ポンタ秀一のグループ『PONTA BOX』に参加したし、ドラムの松永俊弥も渡辺美里のバンドに参加している。バンドって普通は一蓮托生な雰囲気を持っているのに、メンバーが何をやってもいいという感じがまさにパール兄弟なんですよ」(サエキ)
10月3日に東京の「LINE CUBE SHIBUYA」で行われる「パール兄弟デビュー40周年ライブ」に、声優・歌手の水樹奈々が登場する背景にも、水樹のバンド「cherry boys」で松永が長く活動してきたことがある。
「ミュージシャンを育てているわけではないけれど、パール兄弟がそういう人たちを輩出する構造になっているというか」(サエキ)
異物感がないとつまらない
40年の間、時代に対応してきたこともパール兄弟らしさを作り上げてきた。
「バンドというよりユニットみたいと言われることもありますが、確かにユニット家具のように互いに全く侵食し合わない。一蓮托生ではなく、侵食し合わないメンバーが組み合わさっているという意味では当たっているかも」(サエキ)
「バンドを長くやっていると『俺たちってこう』というものが出来上がり、そのスタイルを貫くからカッコいいと思えるようになるのに、サエキ君にはそれがない。常に周りを見て、そこに感じるものでずっとやっている」(窪田)
サエキはそれらを「異物感」と表す。
「ハルメンズの時はドラムの泉水敏郎とキーボードの上野耕路の異物感が凄くて、それがハルメンズの音楽性だった。それが僕の原初的な体験になり、異物感のない人はつまらないというのが僕のバンド観にもなっている。その一つの結晶がパール兄弟なんです」(サエキ)
先に触れた10月の記念ライブを前に、8月3日には2016年開催の30周年記念ライブを収録した「パール兄弟☆REBORN30ッス」をリリースし、9月3日には「真珠のきらめき~パール兄弟オールタイムベスト」を発売する。どちらも韓国の「Sonic Korea」のエンジニア、チェ・スンギュンがマスタリングを担当している。
楽しみが目白押しだが、二人にとっての40年は……。
「作品のたびに違う景色を見続けてきたと思います。ソロだと結構似たような景色を作り続けるところがありますが、違う景色をリスナーに提供してきたことで、バンドって凄いと改めて自分で感心します」(サエキ)
「サエキ君の詞は人間関係の位相をずっとレポートしてきて、変わってきている。景色ごとでの人間関係みたいな感じがすごくあるから」(窪田)
変わりゆく社会の内面を見続けるパール兄弟の世界は続いていく。
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第1回【大瀧詠一が注目したサエキけんぞう、“未来”が見えて「全部イヤに」なった窪田晴男 「パール兄弟」結成前夜】では、サエキと窪田の音楽とのかかわりの始まりから二人が邂逅するまでを語っている。
デイリー新潮編集部
