「ヤクザをやめてまともに働きます」“指を詰めて”32歳でカタギに→面接で40社不採用…“慶應卒の元ヤクザ”(51)が明かす、更生を決意したワケ
〈「結婚式でボコボコにされ、山中で袋叩き」暴力団を勝手に辞めた結果…“44歳で慶應大合格”の元ヤクザ(51)が語る、壮絶すぎるヤクザ時代〉から続く
32歳で暴力団を離脱したあと、42歳で一念発起して受験勉強を始め、44歳で慶應義塾大学に合格した斎藤由則さん(51)。1年の休学を経て、2025年3月に大学を卒業。現在は弁護士を目指して司法試験の勉強をしながら、犯罪者の更生支援や被災地でのボランティアなど、社会貢献活動にも取り組んでいる。
【衝撃画像】 「全身に入れ墨があって小指なし」慶應大卒の元ヤクザ・斎藤由則さんの“小指のない右手”や、暴走族時代の“特攻服姿”を写真で見る(画像多数)
2025年12月には、衆議院法務委員会に参考人として出席し、国会議員たちの前で再犯防止に必要な視点を語って話題となった。
そんな斎藤さんに、暴力団から足を洗った理由、暴力団離脱後に直面した現実、新聞配達員として働くようになった経緯などについて話を聞いた。(全6回の4回目/5回目につづく)

斎藤由則さん ©志水隆/文藝春秋
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「舎弟が金を返さないから、取り立てに行ったら…」懲役3年の判決が下り、札幌刑務所に
--23歳で恐喝容疑で逮捕されて、24歳で4年の実刑判決。28歳で水戸少年刑務所を出所したものの、再びヤクザに。組に戻って、どんなことを。
斎藤由則さん(以下、斎藤) たくさんのフロント企業を作り始めました。当時はまだ暴対法がそんなにうるさくなかったので、そんなことができたんです。通帳も作れたし、カードも持てたんで。
--稼いでいたわけですよね。
斎藤 組の本部長でもあったので、下の連中を食わしていかなきゃいけなかったですしね。あとやっぱり自分の兄貴をデカくしてあげたい気持ちがあったから。A先輩がデカくなると僕もデカくなると思ってたので。
それで頑張っていたら1年後に、また恐喝で逮捕されてしまったんですよ。うちの若い衆がうたっちゃったんです。冤罪ですね。
--冤罪。
斎藤 その舎弟が金を返さないから、取り立てに行ったら恐喝になっちゃったんですよ。さすがに身に覚えがないから、20日間勾留が過ぎれば釈放されるだろうと思ってたんですけど、起訴されてしまって。出所して5年は執行猶予がつかないから、無罪か有罪しかないんです。
起訴内容が不服だとして争うことにしましたけど、恐喝の前科もあるし、加害者が反社会的勢力であることもあって、控訴したところで勝てないなと。だって、どんなに控訴したって99.9パーセント勝てない時代だったじゃないですか。
で、28歳で懲役3年の判決が下って、札幌刑務所へ。
「夏は涼しいし、冬は暖かい」「気温が5度以下になると…」札幌刑務所での意外な生活
--札幌刑務所。
斎藤 東京拘置所八王子支所から府中刑務所に移送されて、そこからさらに各地の刑務所に分類されるんですけど、第3候補まで選ばせてもらえたんです。
刑務所って北に行けば行くほど楽らしいってのはわかっていたので、「真面目になりたいんです」と話をして札幌刑務所を希望したら、通ったみたいで。
--過ごしやすいわけですか。
斎藤 夏は涼しいし、冬は暖かい。刑務所って気温が5度以下になると、暖房を入れなきゃいけないんです。人権の問題があって。
で、窓も二重窓だったし。僕が行ったときはちょうど運が良くて、刑務所が建て直しされたときだったんですよ。
--作業のほうは。
斎藤 作業に関しては、前回の水戸で全工場を回ってるんで。それが身分証に乗っていたので、僕はいい工場に行ったほうかな。靴を作ってました。
札幌では懲罰は1回しか受けていなくて、まっとうにやっていました。
「裏の世界で生きるのにこりごりしてきてた」出所後の変化
--懲罰はどんな理由で?
斎藤 喧嘩だったかな。刑務所って◯◯組の人間だったら、◯◯組の受刑者をまとめる係を任されるんです。僕はまさに◯◯組の係をやってたんですけど、□□会の人間と◯◯組の人間が揉めちゃったんですよ。その仲裁に入ったら、□□会の人が飛んできたんです(攻撃してくること)。で、僕も手を出して懲罰です。
--まっとうにしていたということは、出所したら足を洗おうと考えていたわけですか。
斎藤 その頃は、まだそんな風には思わなかったですね。出所して、すぐに組に戻りました。
だけど、その頃には暴対法がすごく厳しくなってきていたし、時代が変わっちゃいましたよね。任侠道みたいなものがね。
もちろんその時も、任侠道を貫く人はたくさんいましたよ。でも、そういう僕自身の生き方と、時代の流れが合わなくなってしまった。僕が刑務所にいた3年間で稼ぎ方も変わって、フロント企業を作ることも難しくなってしまって。
でも振り返ってみると、裏の世界で生きるのにこりごりしてきてたのかな。いきなりふとスイッチが切れちゃったんでしょうね。出所して半年から1年ぐらいの間で、そんなことをすごく感じ始めたんです。
「やめさせてください」指を詰めて持っていったら…親分の驚きの返答とは?
--それで32歳の時に組を抜けたいと。
斎藤 うん、「やめさせてください」と。それで指を親分のところに持っていったけど、それでもやめさせてくれなかったんですよ。
--せっかく詰めたのに?
斎藤 「ふざけんな。ダメだ」って。そりゃあそうですよ。僕も本部長でしたからね。
--指を持っていったのに。
斎藤 ドリフのコントじゃないですけど、「エッ?」って目が点になりましたね。だけど、「やめます」と。そこから連絡を切りました。
--最終的に納得してもらえたんですか?
斎藤 してなかったです。留守番電話がバンバン入ってましたけど、スルーしていました。携帯、ぶん投げちゃったし。
うちの若い衆たちとも話をして、「お前らの好きなように生きろ」と言って会社の方も譲渡して。
僕はヤクザのお金でやってこうとは思わなかったんです。表の世界に行くにはゼロからスタートすべきだと。そのためには断捨離しないとダメだなと考えたんですよ。
そこで真の更生を決意しましたね。実家に帰って、「今までたくさん迷惑をかけて悪かったよ。ヤクザをやめてまともに働きます」と母に頭を下げました。泣いて喜んでくれましたね。
「1か月で40社くらい受けてもダメ」面接で不採用が続いた
--住まいなどはどうしたのですか。
斎藤 すごくお世話になってた社長に、「なんとか、1か月間だけどっかに住まわしてくれ」と頼んで。「じゃあ、自分で仕事を見つけるまで」と、仮宿になるマンションを借りたんです。そこから履歴書を書いて、いろんなところの面接に行きました。
履歴書に嘘を書くと犯罪になる可能性があると思ったから、「水戸少年刑務所出所」とか「札幌刑務所出所」とかすべてをきっちり書いて。
--その履歴書を持って回ったわけですか。
斎藤 どこでも面白がられるんですよ。「こりゃまた、すんごい“学歴”だね。いいじゃない」とか言うんですけど、結局みんな不採用ですよ。「とらばーゆ」や「フロム・エー」をチェックして、1日に2軒、3軒回ることもありました。
1か月で40社くらい受けてもダメ。土木工事でもダメ。「なんで雇ってくんねえんだよ」とふて腐れたりもしましたね。だからといってヤクザに戻ろうとは思いませんでしたけど。
で、最後の最後で雇ってくれたのが学芸大学駅前にある新聞配達の会社だったんです。
「給料もこんだけだよ、できる?」「一番下からやれる?」と言われて…
--“学歴”がどうこうとかも言わず?
斎藤 「更生したいんです」と話したら、「ほんとにやる気があるんだったらいいんだけど、すぐ辞められちゃったら困るから。給料もこんだけだよ、できる?」と言われたので「できます」と。
「家は貸してあげるけど、ほんとにボロボロだよ。いい?」「君がどこまでの地位にいたのか知らないけど、ここで一番下からやれる?」とも言われて、「やります」と。
--給料はいかほど。
斎藤 手取りで14万円でしたね。用意してくれたアパートも、共同便所、共同浴室で「独身アパートどくだみ荘」みたいなところでしたけど。
働かせてくれて、住むところまで用意してくれてありがたかったです。ほんと感謝していて、今でも挨拶に伺っています。
--新聞配達はどれくらいしていたのですか。
斎藤 始めて1か月ちょっとで配達から拡張のほうに移ったんです。全国どこでも営業できる、1か月だけのキャンペーンが実施されて。
当時は、3か月契約を取ると歩合が4000円、半年で6000円、1年契約だと8000円だったので、「8000円か、よし。じゃあ100人集めれば80万だな」と考えたんですよ。
そう考えた瞬間に一気に打電ですよ。友達全員に「取ってよ」って。友達って六本木のキャバクラや高級クラブの人たちですよ。僕は六本木を拠点に仕事してたから。
で、「頼むから1年だけ付き合ってくれ。俺、変わりたいから」と頼み込んで、120件ぐらい取ったのかな。
「君、どこの組だったの」飲み屋で出会った自治会の人たちと仲良くなった
--なにかセールストーク的なことは。
斎藤 「社会の勉強になるよ」「店に来る銀座のお偉いさんは、いつも新聞を読んでるんだから。そういうところを見られるぞ」「新聞とか読んでおかないと、いい黒服になれないよ」とか、そんなことを言いましたね。
みんなのおかげで100万円ほど貯められて、世田谷の奥沢に月7万円の部屋を借りたんです。
酒をやめてたんですけど、久々に飲み屋に行ったら、自由が丘の自治会の方たちがいて。僕のことを前から見かけていたらしいんですよ。入れ墨を出しながら新聞配達している姿を。
「君、どこの組だったの」なんて聞かれて、仲良くさせてもらうようになって。部屋を借りる際に、連帯保証人になっていただいたんです。
「月に100万円くらいはいってた」タクシー運転手に転職し、中華料理屋でもアルバイト
--新聞の拡張員を辞めた後は、タクシーの運転手になったそうですね。
斎藤 応募して入りました。履歴書のことを弁護士に聞いたら、刑務所のことを書かなくても経歴詐称にはならないと。聞かれたら言わなきゃいけないかもしれないけど、刑務所は職歴でも学歴でもないから書かなくてもいいとのことで。
入ったのはいいんですけど、二種免許を取らなきゃいけないことを忘れてて。当時は、二種免許を取った後も地理試験に受からないといけなかったんですよ。これがないと、東京23区ではタクシーに乗れなかったんです。
タクシーは約2年間やってましたけど、1日に最高14万円くらい、月に100万円くらいはいってたのかな。チップもバンバンもらえたし、タクシーチケットを多めにもらえることも結構ありましたね。
あと、当時はタクシー運転手の仕事をしながら、中華料理屋でバイトもしてました。お金を貯めようと思っていたのもありましたし、手に職を付けたいとも思っていたんです。
「ここで終わりたくない」タクシー運転手を2年で辞めた理由
--タクシー運転手時代、斎藤さんのことを知っている人が乗ってくるなんてことは。
斎藤 見かけた顔はありましたよ。でも、こっちから自分のことは言わないです。僕って声に特徴があるんですよ。だから「あれ?」って顔はしましたけどね。だけどそういう時は知らんぷりを決めて、無口になってました。
--タクシー運転手は、なぜ2年で辞めてしまったのですか。
斎藤 夜に飲んじゃうと、就業前のアルコール検知器に引っ掛かる危険があって。引っ掛かってヘタしたら、免許なくなっちゃいますから。タクシーって、免停になったら仕事がないんですよ。それが一番怖かった。安定した仕事じゃないんですよ。事故起こしても仕事できないし。
あと、ここで終わりたくない気持ちもありました。このままタクシーでやってたらずっとタクシーで終わっちゃうのかなと考えたら、また六本木に戻りたいなって。
撮影=志水隆/文藝春秋
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(平田 裕介)
