「敬愛する分隊長」を撃墜したアメリカ人と笑顔で握手…戦後29年に交わされた日米「撃墜王」の恩讐
ここに一枚の写真がある。
軍艦旗の寄せ書きを持ち、満面の笑顔で握手をする二人の男。写っているのは、左がベストセラーとなった『大空のサムライ』(潮書房光人新社)を著した元零戦搭乗員・坂井三郎、右は元米海兵隊の戦闘機パイロット・マリオン・カール(Marion Eugene Carl)。いずれも太平洋戦争における日米で有数の「撃墜王」として知られた戦闘機乗りである。戦後29年を経た昭和49(1974)年、前年に海兵隊を少将で退役したカールが来日したさい、東京の料亭で、旧日本海軍の元零戦搭乗員たちが開いた歓迎会のひとコマだという。当時、坂井三郎58歳、マリオン・カール59歳。
--だがこの2人は、もとは不倶戴天の敵だった。ガダルカナル島上空で、坂井がもっとも敬愛する分隊長・笹井醇一中尉の零戦を撃墜したグラマンF4Fワイルドキャットのパイロットが、カールその人だったのだ。
全員が最下級の兵から叩き上げたパイロット
この日、マリオン・カールの来日歓迎会に集った日本側の出席者は12名。うち、零戦搭乗員だったのは、坂井三郎、佐々木斉、佐々木原正夫、柳谷謙治、大原亮治、柴山積善、吉原博二、山中志郎の8名。全員が、海軍兵学校出身のいわゆるエリート軍人ではなく、最下級の兵から叩き上げたパイロットである。
出席者の略歴を年齢順に紹介すると、坂井三郎は台南海軍航空隊の一員として昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争開戦当日、台湾の基地からフィリピンの米軍基地空襲に参加。以後東南アジア各地を転戦したのち最前線のニューブリテン島ラバウル基地に進出し、ニューギニア・ポートモレスビーの連合軍機と死闘を繰り返した。昭和17(1942)年8月、米軍のガダルカナル島侵攻の初戦で被弾、負傷で片目の視力を失うも、昭和19(1944)年6月から7月にかけては硫黄島で米軍機と戦っている(終戦時中尉)。
佐々木斉は、空母「飛龍」零戦隊の一員として、真珠湾作戦からインド洋作戦、ミッドウェー海戦などに参加(終戦時少尉)。佐々木原正夫も空母「翔鶴」で真珠湾、インド洋、珊瑚海海戦、南太平洋海戦、さらに「瑞鶴」でガダルカナル島撤退作戦などの激戦を戦い抜いた(終戦時少尉)。
歴戦のつわものが揃っていた
柳谷謙治は、基地航空隊の第六航空隊(のち第二〇四海軍航空隊と改称)の一員としてソロモン諸島ガダルカナル島をめぐる航空戦で数十回の出撃を重ね、昭和18(1943)年4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六大将が搭乗機が撃墜され戦死したさい、護衛を務めた6機の戦闘機搭乗員のうち唯一人の生き残りである。柳谷はソロモン上空で被弾、右手を失う重傷を負っていた(終戦時飛曹長)。
大原亮治も、昭和17年10月以来、柳谷と同じ第六(第二〇四海軍)航空隊でソロモン航空戦に参加。同部隊の搭乗員の75パーセントが戦死した1年以上にわたる戦いをくぐり抜け、数十機の敵機を撃墜したのちは、横須賀海軍航空隊で新型機のテスト飛行などにあたり、さらに本土上空の防空戦でも敵機を撃墜している(終戦時飛曹長)。
柴山積善は、第二〇一海軍航空隊、第二五三海軍航空隊の一員としてラバウルで戦い、昭和19年2月、海軍戦闘機隊の大部分がラバウルから撤退したのちも現地に残留、ゲリラ戦的な戦いに従事した(終戦時飛曹長)。
吉原博二は大戦末期、第三五二海軍航空隊の一員として九州上空の防空戦に参加(終戦時上飛曹)、山中志郎も二一〇空の一員として本土上空で戦っている(終戦時一飛曹)。歴戦のつわものが揃っていたと言っていい。
主賓のマリオン・カールとはどんな人物なのか
主賓のマリオン・カールは、1915年、アメリカ・オレゴン州生まれ。海兵隊の戦闘機パイロットとなり、グラマンF4F戦闘機に搭乗。1942年6月のミッドウェー海戦で零戦1機を撃墜したのを皮切りに、同年8月、ガダルカナル島に進出、通算して18.5機の日本機を撃墜したとされる(米軍の撃墜機数は協同撃墜を0.5機と算定するので端数が出る)。そのなかに、台南海軍航空隊分隊長で、坂井三郎がもっとも敬愛する笹井醇一中尉機が含まれていた。
戦後は海兵隊で初のジェット機部隊の飛行隊長となり、1947年8月、時速約1047キロという飛行機の速度記録を樹立。さらに1953年には、非公式ながら飛行高度25370メートルの世界記録を達成した。朝鮮戦争、ベトナム戦争でも航空部隊を指揮し、1973年、少将で海兵隊を退役するまでの飛行時間は、戦闘機乗りとしては異例に多い13000時間に達するという。
カールは、朝鮮戦争で任務についたのち、1955年6月から12月にかけて写真偵察飛行隊(VMJ-1)指揮官として厚木で、65年2月から66年4月にかけては第一海兵航空団副司令官(Assistant Wing Commander)として沖縄(~65年5月)、岩国(65年5月~)で勤務したことがあり、その間に、かつて宿敵だった日本の元軍人たちと交流する機会をもつようになった。
戦後海上自衛隊に入り、早い時期からカールと親交のあった大原亮治は、
「大の知日家で、箸も上手に使える。戦争のわだかまりを微塵も感じさせないナイスガイでしたよ」
と回想する。とはいえ、元零戦乗りのなかには、「可愛い部下を大勢殺されて今更アメリカ人と仲良くなんかできるもんか」と、旧敵と和解することを頑なに拒む人もいたから、この席に集った男たちの胸中にもさまざまな感慨があったに違いない。
この写真に秘められた「物語」を理解するには、坂井三郎と笹井醇一の、階級を超えた「男の友情」について触れなければなるまい。
階級を超えた「男の友情」
坂井三郎は、戦後、日本出版協同から坂井名義で出版された『坂井三郎空戦記録』(昭和28年)が大ヒットし、「零戦ブーム」の火付け役となった。
さらにAP通信記者のフレッド・サイトウが書き、作家マーティン・ケイディンが脚色した『SAMURAI!』(昭和32年)が世界的ベストセラーになったことで、零戦と「エース・サカイ」の名は旧敵国にも広く知られることになった。
そして、光人社の高木肇が書き、坂井名義で出版した『大空のサムライ』(昭和42年)は、折からの戦記ブームもあって売れに売れ、その後もシリーズ化されてロングセラーとなる。坂井の撃墜機数は「64機」とされているが、坂井は晩年、
「何機撃墜したなどというのを検証するのは不可能。実際にはうんと少ないかもしれないし、多いかもしれない。ただ、64機という数字がこれだけ広まっている以上、それをいまさら訂正する気はない。訂正するならば、じゃあほんとうは何機だ、という話になるじゃないですか。検証が不可能な以上、それはナンセンスなこと」
と、私に語っている。
その坂井三郎の「物語」のなかで、もっとも大きな存在が、戦死した最愛の二番機・本田敏秋二飛曹と、年下だが敬愛する分隊長・笹井醇一中尉である。坂井が平成12(2000)年9月に亡くなるまで、坂井家の応接室には神棚が置かれ、笹井中尉と本田二飛曹の写真が飾られていて、訪れた者は必ず、その神棚に手を合わせるのが習わしになっていた。
【後編を読む】敬愛する「分隊長の仇」と満面の笑顔で握手…「日米の撃墜王」が飲み込んだ葛藤
