大打者・張本勲の過酷すぎた生涯…生前に語ってくれた「一番悲しかったこと」(元木昌彦/「週刊現代」「フライデー」元編集長)
【週刊誌からみた「ニッポンの後退」】
張本勲さんは「英語もペラペラ」だった 現役時代に津田塾大に通った「安打製造機」の向学心
「原爆の投下された時、姉弟は母によって身をまもられた。姉弟の上にかぶさった母は全身を窓ガラスの破片に刺されて鮮血をふきあげた。(中略)
貞子・勲の姉弟は、太田川にかかる橋の下で、罹災の第一夜を明かした。あたりは屍体の山である。その夜八歳の姉と五歳の弟はだれともわからぬ人から、握り飯を一箇ずつもらって飢えをしのいでいる。(中略)すでに広島は死の街である。瓦礫と灰燼の街である」
張本勲が亡くなった。享年86。首位打者7回、3085安打、生涯打率.319。大記録を残し、記憶にも残る名選手の原点は、差別と被爆体験だった。
冒頭の文章は、私が企画し、後に「シャガールの馬」で直木賞候補になる虫明亜呂無に連載してもらった「王貞治と張本勲」(1976年7月1日号から10回)からの抜粋である(張本は前年オフに巨人に移籍しOH砲といわれていた)。
被爆時12歳だった長姉は全身やけどで1週間後に亡くなった。張本も「被爆者健康手帳」を持っていて、いつ原爆症が発症するかとおびえていたが、誰にも明かさなかった。
張本の両親は在日韓国人。王の父親は中国浙江省出身。ともに外国にルーツを持つ2人だが、プロ野球に入るまでの人生はまったく違った。父親に早く死なれ極貧生活の中でケンカだけはめっぽう強く、野球選手にならなかったら映画「仁義なき戦い」で描かれたようなヤクザになっていただろうと、虫明に語った張本。
3歳上の次姉を慕い、彼女の結婚が決まると、仲人にバケツの水を頭からかぶせ、「行くな」と号泣した張本。将来は科学者か医者になろうと考え、野球と勉学に励んでいた王。
高校野球の強豪・浪商に入りながら、暴力沙汰の責任を負わせられるなどで、一度も甲子園の土を踏むことができなかった張本。早実に入り、すぐに脚光を浴び、春の甲子園で優勝した王。
中日の誘いを断り、東京に住みたいという理由でパ・リーグの“暴れん坊”東映(現在の日本ハム)に入団した張本。セ・リーグの“超人気球団”巨人に入団した王。
だが、張本も王も入団早々挫折を味わう。王は投手失格。当時東映のコーチ松木謙治郎は、一目見て張本は「物になるバッティングじゃなかった」と語っている。
「(5歳の時のやけどで=筆者注)張本の右手は薬指と小指がくっついたまま曲がっています。つまり右手は三本指で打っている。この右を左にまけないように力をつけてやらねばならなかった。グローブも厚い皮を内に入れて指が曲がらないよう工夫してやりました」
張本の左手の握力は70キロで、右手は30キロ。毎日、練習が終わってから300球以上トスバッティングをした。松木は腰が立たなくなったが、張本は歯を食いしばって打ち続けた。
「野球をやっていれば、貧困、孤立感、その他いっさいの身のまわりの汚辱と憤怒と悔恨と憎悪が忘却に附せられたのではなかったか」(虫明)
私は張本に聞いた。これまでで一番悲しかったことは?
重い口を開きおおむねこう語った。
「広島球場で野球をやることになって、お袋に喜んでもらおうと球場に招待したんだ。だけどね、私がレフトの守備につくと『朝鮮人帰れ!』コールがものすごかった。私は慣れているからいいが、お袋が聞いていると思うと……」
引退後、張本はそれまで一度も入ったことがなかった広島の「原爆資料館」を見に行った。戦争反対&核廃絶を強く訴え、多くの講演活動をこなした。
韓国のハンギョレ新聞は、「張本勲さん死去…日本プロ野球の伝説であり核なき世界を夢見た反核の伝道師」と伝えた。 (文中敬称略)
(元木昌彦/「週刊現代」「フライデー」元編集長)
