JR東京駅直結の大型複合施設「TOFROM YAESU TOWER(トフロム八重洲タワー)」が9月10日にオープンした。現地を取材した不動産業界に詳しいジャーナリストの古川怜さんは「大手デベロッパーの東京建物が約2400億円を投じた“社運をかけたプロジェクト”だ。実際に足を運んでみると、東京建物の経営判断の大胆さに驚いた」という--。
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東京駅直結、地上51階建ての大型複合ビル「TOFROM YAESU(トフロム八重洲)」の外観 - 筆者撮影

■東京駅直結、51階建ての「新名所」

東京に新名所が誕生した。新幹線やJR、地下鉄など交通網の結節点である東京駅に直結した地上51階建ての大型複合ビル「TOFROM YAESU(トフロム八重洲)」だ。商業やオフィス、劇場を組み合わせた施設にはバスターミナルも併設しており、文字通り日本の「玄関口」としての役割を担うことになりそうだ。

一方、そんな華々しい施設のオープニングセレモニーを訪れたところ、記者を待ち構えていたのは「高価買取」の看板を掲げた質屋だった。2400億円を投じたプロジェクトの景観を台無しにする「ど根性ビル」は、なぜ生まれてしまったのか--。

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開業セレモニーでテープカットに臨む映画監督の岩井俊二さん(右端)ら - 筆者撮影

「ここから八重洲の新しい歴史が始まります!」。9月10日、東京都八重洲口に開業した「トフロム八重洲」を訪れると、多くの人で賑わっていた。ミシュランの星を獲得した天ぷら屋の系列店やビブグルマンに選出された割烹が立ち並ぶ「YAESU 東京界」には行列ができ、新たなグルメ街の誕生に歓声を上げていた。

近隣の証券会社で働いているという20代女性の二人組は「ランチの選択肢が広がった」と声を弾ませる。入口付近の吹き抜け空間「檜物町(ひものちょう)スクエア」では来場者向けにクラフトビールや日本酒を振る舞うサービスもあり、平日にもかかわらず、お祭り騒ぎのような様相を呈していた。

■「質店」と「消費者金融」に挟まれ…

トフロム八重洲を開発したのは東京建物だ。旧安田財閥の流れをくみ、歴史の長さという点では三菱地所や三井不動産を抑え「日本最古のデベロッパー」として知られる。開発計画の始動から25年、2400億円を投じたという社運をかけたプロジェクトで、本社を移転させるという力の入れようだ。

オープニングセレモニーには「リリイ・シュシュのすべて」や「花とアリス」で知られる映画監督、岩井俊二氏も出席。岩井監督はトフロム八重洲の開業に伴い、八重洲を舞台としたアートプロジェクトも展開している。セレモニーで岩井監督が「100年後も我々の営みを見守ってくれるだろう」と語ると、大きな拍手が湧いた。

早くも東京の新名所としての期待が高まるトフロム八重洲だが、実際に足を運んでみると、店のラインナップ以前の問題で、その外観で拍子抜けすることになりそうだ。なにせ、東京駅から足を運んだ来場者が真っ先に目にするのは、玄関の横にデカデカと掲げられた質屋の看板だからだ。オレンジ色の看板は遠くからでもよく目立つ。加えて、右隣には消費者金融が入居する雑居ビルが鎮座。「日本の玄関口」のはずが、質屋とサラ金に挟まれ、肩身が狭そうな門構えとなっている。

■超一等地に「ど根性ビル」の謎

日本において、大規模再開発の一角に古めかしい雑居ビルが建つというのは珍しい話ではない。再開発は通常、大手デベロッパーが主導するものだが、1社で進めることはできず、地権者との共同作業となる。バブル期の悪質な地上げのイメージが根強く残っているものの、日本の法律は私有財産権が強く、行政による強制収容は難しい。再開発に同意しない地権者もおり、単独での生き残りを目指すというのもまた自由だ。

ピカピカのビルに挟まれるように存在感を発揮するビルは一部の不動産事業者の間では「ど根性ビル」と呼ばれており、好事家も多い。有名なのは日本橋室町の三井不動産の本社がある一角だ。中央通りに面した角地に骨董店や画廊が入居するビルは再開発に加わらず、今も単独で営業を続けている。真偽のほどは定かではないが、業界内では「三井不の札束攻勢にも頭を縦に振らなかった」という噂もあり、今でも語り草となっている。

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日本橋室町の超一等地で異様な存在感を放つ「ど根性ビル」。骨董店や画廊が入居している - 筆者撮影

それにしても、だ。トフロム八重洲は「東京の国際競争力向上に貢献」するとして、国家戦略特区の認定を受けている。岩井監督の言葉を額面通りに受け止めると、今後100年間、東京駅の目の前の超一等地に質屋の看板が掲げられ続けることにもなりかねない。さすがに主催者も気まずいと感じていたのか、セレモニーに訪れたメディアはメインゲートではなく、横の通りに面した入口から入るように誘導された。

■丸の内とは対照的な「八重洲の歴史」

もっとも、メディアとしても、外観を撮影しないわけにはいかない。セレモニー後、テレビ局のカメラマンが大型のビデオカメラを構え、質屋の看板を指差しながら「あれ映さないでいけるか?」「難しいですね」と、アシスタントと二人、頭を抱える光景も見られた。

なぜ、このような事態が起こったのかを紐解くために、時計の針を戻したい。東京駅が開業したのは1914年。近代国家への道を歩み始めた日本政府が丸の内を起点に、首都東京に経済の中心地を作ろうとしたのがきっかけであることは広く知られている。三菱財閥が明治政府から払い下げられた丸の内をオフィス街としてゼロから開発したことは有名だが、当時の八重洲は裏口どころか、改札すら存在していなかった。

日本橋や京橋に近いという土地柄、問屋や小売店といった小規模な事業者が多く立地していた。セレモニーに地権者を代表して登壇した組合の理事長が「幼少の頃はけん玉やメンコ、凧揚げやかくれんぼに熱中していた」と語るように、東京都心といっても、のどかな光景が広がっていたようだ。

写真提供=共同通信社
東京駅八重洲口付近=1951(昭和26)年12月 - 写真提供=共同通信社

■関係者が「大成功」と胸を張るワケ

その後、戦後の経済復興や新幹線の開通で八重洲も恩恵を受けることとなったが、丸の内のようなオフィス街ではなく、雑居ビルが立ち並ぶ繁華街として独自の発展を遂げた。丸の内や日本橋で働くサラリーマンの飲み屋街として愛された八重洲だが、小規模な商店がそれぞれに雑居ビルを建てた繁華街であったことは、権利関係の複雑化を招いた。

東京建物が25年間かけて開発に取り組んだことは既に紹介したとおりだが、再開発の条件をめぐり折り合いがつかず、これ以上スケジュールを遅らせることはできないと、質屋や消費者金融が入居したビルは除外して「虫食い状況」での再開発を余儀なくされた。

素人目には「失敗」にも見える一連の再開発だが、意外なことに、経済的には大成功だという。近年、中野サンプラザなど再開発が頓挫する例が相次ぐが、最大の理由は建築費の高騰だ。建設現場を支えてきた高齢職人の引退や時間外労働の上限規制適用に円安に伴う輸入材の価格上昇も重なり、建築コストはかつてないほど高まっている。

「昔はゼネコンに仕事を発注してやるという立場だったが、今はゼネコンに頭を下げてなんとか作ってもらっている」(大手デベロッパーのA氏)。こうした状況下、トフロム八重洲は「ギリギリで滑り込みセーフのタイミングだった」。仮に合意を得るための条件交渉があと1年、2年と遅れていたら、建築費の高騰でプロジェクトそのものが見直される可能性すらあったという。

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3層吹き抜けの屋内広場空間「檜物町スクエア」では、開業記念イベントが連日行われている - 筆者撮影

■「損切り」を選んだ経営陣の決断力

加えて、オフィス市況の回復という思わぬ追い風も吹いた。着工時には新型コロナの流行によってオフィスの需要そのものが消失するのではという懸念もあったが、足元ではリモートワークの縮小と出社回帰の風潮が強まっており、好立地のオフィスは取り合いの様相を呈している。東京駅の目の前という超一等地なだけあって、トフロム八重洲は丸の内並の賃料を確保できているという。複合ビルの収益源はオフィスであって、入口の見てくれが多少悪かろうが、影響はない。

一連の開発を振り返ると改めて評価されるべきなのは、東京建物の当時の経営陣の決断力だ。全体の完成度を高めるために理想を追うのではなく、交渉がまとまらないとみるや外観は「損切り」し、プロジェクトの遂行を優先するというのは、日本企業が苦手とするところだ。決断に至るまでの議論は決して表に出てこないが、伝統や体面を重んじるデベロッパーにとって、容易でなかったことは間違いない。

デカデカと存在感を放つ質屋の看板だけを見て失敗したと笑うのは簡単だ。質屋やサラ金の看板が煌々と輝く光景は今後100年間にわたり後ろ指を指されるかもしれない。しかし、決して失敗が許されないプロジェクトを完遂するためにとった苦渋の決断の結果として見ると、また違った味わいがある。

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横から見た「トフロム八重洲」の入口。夜になると質店の看板の存在感が増す - 筆者撮影

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古川 怜(ふるかわ・れい)
経済ジャーナリスト
大手メディア記者を経て、現在は雑誌やウェブ媒体に寄稿している。専門は不動産、消費経済、教育など。
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(経済ジャーナリスト 古川 怜)