歴史研究家の市橋章男氏が、YouTubeチャンネル「なるほど! 歴史ミステリー」で公開された「【秀吉vs家康 小牧・長久手の戦い】秀吉が仕掛けた「三河中入り」はなぜ失敗した?長久手で敗れても秀吉が負けなかった理由 豊臣兄弟歴史解説35」に出演。豊臣秀吉と徳川家康が直接対決した「小牧・長久手の戦い」の経緯と、長久手で大敗した秀吉が、なぜ天下取りから脱落しなかったのかを詳しく解説した。

動画ではまず、織田信長亡き後の後継者争いから、秀吉・織田信雄・家康の関係を整理する。信雄と秀吉の対立が決定的になると家康も動き、「秀吉の天下取りから信長の子である信雄を助ける」という大義を掲げて参戦したと市橋氏は説明する。一方で家康自身にも、急速に勢力を拡大する秀吉を今のうちに抑えたい思惑があったという。

戦端が開かれると、家康は信長がかつて築いた小牧山城に入り、秀吉軍と対峙。両軍の睨み合いが続くなか、秀吉方は家康の背後を抜けて本拠地・岡崎を攻撃する「三河中入り」を仕掛ける。池田恒興や森長可らが軍勢を率いて三河へ向かったものの、途中の岩崎城で丹羽氏重らの抵抗を受け、進軍に時間を費やすことになった。

その間に家康側は秀吉方の動きを察知して追撃。長久手方面で激しい戦闘となり、森長可や池田恒興らが討死するなど、秀吉軍は大きな打撃を受けた。戦場での勝敗だけを見れば、家康側の勝利だった。

ところが秀吉は、ここから戦場とは別の方法で局面を動かしていく。家康を直接屈服させるのではなく、家康とともに戦っていた織田信雄と和睦したのである。市橋氏はこれを「戦の大義をなくさせた」起死回生の一手と指摘。信雄を助けることを大義としていた家康は戦いを続ける前提を失い、やがて兵を引くことになる。長久手では敗れながらも、政治と外交によって局面を転換し、天下取りへの歩みを止めなかった秀吉のしたたかさが浮かび上がる解説となった。

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歴史ドラマの背景となっている史実を解説し、より楽しみながら知識を深められる時間を、歴史研究家の市橋章男とアシスタントの浜崎友里がご提供。戦国武将、史跡や文化財などの歴史話、大河ドラマや歴史映画の歴史背景を面白く雑学を交えながら配信します。