草間彌生さん

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 物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は8月14日、97歳で逝去した芸術家・草間彌生さんについて取り上げる。

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 草間彌生さんが日本で創作活動の拠点にしていたのは東京都新宿区だ。といっても高層ビルが林立する場ではなく、どこか下町風情の漂う穏やかな地域である。ここで文字通り寝食を忘れるほど創作に没頭した。

 草間さんといえば、水玉や網目で埋め尽くされた絵画やカボチャのオブジェがすぐに浮かぶだろう。だが、再評価され世界に冠たる地位を得たのは、1990年代。還暦を超えていた。

草間彌生さん

 草間さんと半世紀以上の縁がある美術評論家で、草間彌生美術館館長の建畠晢(あきら)さんは振り返る。

「草間さんの作品を初めて目にしたのは75年。銀座の画廊での個展でした。深い叙情をたたえた静謐で孤独な世界に衝撃を受けました。草間さんは60年代にニューヨークを中心に活動し、アメリカで他のアーティストに影響を与えるほど高く評価されていました。一方、日本では彼女の言動の表面的な部分が面白おかしく伝えられるだけでした。作品を見て草間さんの正当な評価に資するのが自分の責務だと感じたのです」

大衆性と崇高さ、不穏さ

 草間さんの創作は、病と向き合う中で生まれていた。

「幼い頃から幻覚に苦しみ、見えていた水玉模様を夢中になって描くとその恐怖を忘れられたのが原点でした。水玉や網目のように無限の反復、増殖は草間さんの最も重要な表現法です。飽きたり疲れたりせず描き続けたのは、草間さん自身を救済する行為だからです。自己を埋没させ、消滅させ、恐怖や強迫観念を克服していく。同時に無限の世界や永遠とつながろうとする試みでもありました。作品はポップでかわいい大衆性と、彼女の心と直結した崇高さ、時には不穏さを併せ持っています」(建畠さん)

ハプニング芸術も展開

 29年、長野県松本生まれ。生家は種や苗を扱う問屋で裕福だった。10歳ごろ、母を描いたとされる絵はすでに水玉で埋められている。

 57年、単身ニューヨークへ。無限の網を描いたネット・ペインティングで脚光を浴びる。次いで布に詰め物をした立体作品のソフト・スカルプチュア、中でも男根状のオブジェが話題に。反戦などを訴え、街頭で裸になった男女に水玉を描いたりハプニング芸術も展開した。

「芸術の力で強迫観念から自分を救済するだけでなく、困難に満ちた世界を救済したいとの姿勢はアメリカ時代から生涯一貫しています」(建畠さん)

 73年に帰国。才能にいち早く気付いた人は少なく、誤解と偏見にさらされる。

 93年、ベネチア・ビエンナーレ国際美術展で建畠さんが日本館のコミッショナーを務めた際に草間さんの個展を開き、再評価が一気に進んだ。以来、ニューヨーク近代美術館など世界の名だたる美術館での個展で称賛を集めた。2016年に文化勲章を受章している。

亡くなる6週間前までアトリエを備えた病室で……

 美術評論家の酒井忠康さんは言う。

「前衛として新たな芸術を開拓した自負心があった。草間は草間でしかない、と流行など全く気にしない。名声そのものを求めておらず、作品が大切に扱われて後世に残っていくことに重きをおいていました」

 生涯独身。80歳を超えて創作力はさらに増した。

「試行錯誤がなく黙々と完成に向かう。先にイメージが全て見えているのでしょう。天才でしたが、ユーモアや茶目っ気もあった。カボチャは私よ、と言っていました。飾らず威厳もあって、かわいらしいからとのことでした」(建畠さん)

 8月14日、97歳で逝去。

 亡くなる約6週間前までアトリエを備えた病室で絵を描き続けた。〈私が死んだ後も、皆さん、どうぞ私の創造への意欲、芸術への希望と、そうしたものに対する私の情熱を、少しでも感じていただけたら、これに勝る喜びはありません〉。10年前、国立新美術館での個展を控えた会見での言葉から、創作は命懸けの闘いだったとうかがえる。

「週刊新潮」2026年9月10日号 掲載