日本橋の「暦売り」女性が見せた1枚の写真…「朝日・毎日・読売」を渡り歩いた半生
25年前のある日、写真専門誌の仕事で東京の街を撮影していた筆者は1人の暦売りの女性と出会った。大正15(1926)年、京橋で生まれその地で育ったという女性は、戦前、戦中、戦後の東京の変遷をその目で見てきた生き字引のような人だった。そんな彼女が筆者に見せてくれた写真に秘められた物語とは--。
終戦直後の銀座を背景に
ここに1枚の写真がある。焼け跡も生々しい街をバックに写る2人の若い女性。この写真、いまは誰もが知る日本有数の繁華街となっている場所で撮影されたものだ。
写真の左に写っている当時19歳の國友光子さん(1926-2017)によると、これは終戦直後の昭和20(1945)年8月下旬、当時の京橋区銀座西六丁目にあった4階建ての朝日新聞社別館(現在、中央区銀座六丁目。東京銀座朝日ビルディングのある場所)屋上で、朝日新聞社の受付の女性と一緒に撮ったものだという。
2人の左後ろに写っている焼け焦げたビルは、空襲で被災した松坂屋銀座店(現在、GINZA SIXのある場所。2013年までこの地で営業していた百貨店)。だとすると右後ろの手前に黒っぽく見えるビルは交詢ビル(現在は商業施設の入った10階建てのビルになっている)だろうか。撮影場所と交詢ビルとの間には1ブロック、松坂屋銀座店の間には3ブロックの街並みがあり、いま、もし同じ場所に立ってもGINZA SIXは手前の建物にさえぎられて見えない。
空襲の被害状況を記した『東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』(日本地図株式会社)を見ると、銀座は松坂屋以北が、服部時計店など一部の建物を残してほぼ丸焼けになり、朝日新聞社別館と交詢ビルはかろうじて焼け残ったことがわかる。つまりこの写真は、空襲被害を受けた場所と受けなかった場所のちょうど境目を、終戦直後に写した貴重な1枚なのだ。
國友さんの出会い
筆者と國友さんの出会いは2001年2月。当時、カメラ技術の雑誌でも仕事をしていた筆者が、『別冊写真工業 復活レンジファインダーカメラ』というムック本の特集記事を任され、そのために東京の街を撮り歩いていたときのことである。
日曜日の日本橋の街角で店を広げ、暦を売っていた老婦人に声をかけて写真を撮らせてもらったのだが、それが國友さんだった。聞けば、この近くで暮らしていて、知らない人と話をするのが楽しみで、気の向いたときに露店を開いているという。
礼を言って住所を教えてもらい、後日撮った写真を送ると、
「ここで商売をやっていると、カメラを持った人によく写真を撮らせてほしいと言われるけど、写真を送ると言って送られてきたためしがない。今回、初めて写真を送ってもらって嬉しかった」
という趣旨の毛筆で書かれた達筆の返信が届き、それから長く手紙や年賀状のやりとりだけが続いた。
國友さんと次に会ったのは、初対面から15年が経った2016年のことである。突然、
「私も90歳になって、すっかり体が弱ってしまって。生きている間にもう一度お会いして写真のお礼が言いたい」
と電話をもらい、初めて中央区京橋にある國友さん宅を訪ねた。國友さんは、中央通りと昭和通りにはさまれた京橋のほぼ中央、画廊が入るビルの4階に暮らしていた。娘さん一家は3階にいて、ほぼ同居のような形である。國友さんはこの場所で生まれ、90年の大半をこの地で過ごしてきたのだという。
戦中は新聞社で勤務していた
國友さんは旧姓並木、祖父は千葉県で郵便局長をしていたが、大正4(1915)年、父・並木市之亟さんが東京に移り住み、千葉の持ち山を売って京橋の土地を購入した。國友さんが生まれたのは大正15(1926)年。同じ町内には、現在自動車用照明部品や航空機部品のメーカーとして知られる小糸製作所の前身・小糸源六郎商店や、味の素の前身・鈴木商店、パイロット万年筆の前身・並木製作所などがあり、いずれも家族ぐるみで近所づきあいをする仲だった。
昭和11(1936)年、小糸源六郎商店は株式会社小糸製作所となり、品川に移転するが、戦争がはじまり成年男子の軍需工場などへの徴用年齢が引き上げられると、小糸源六郎氏が、市之亟さんが徴用されないよう小糸製作所の名目上の社員とし、社員証を発行してくれたという。
國友さんは女学校卒業後、日本窒素肥料株式会社(現・チッソ株式会社)に就職するが、報道の仕事に興味があったことからすぐに朝日新聞社に転職。数年の間に毎日新聞、讀賣新聞、東京新聞を渡り歩いた。昼間は新聞社で働き、夜は同盟通信が日比谷で開講していた学校に通って写真電送や速記を学ぶ。
「新聞社の入社試験は健康診断と漢字のテストぐらいでした。若い男の人は兵隊にとられたり報道班員として戦地に行ったりして、人手が足りなかったんでしょうね、どこを受けてもすぐ受かっちゃうの。朝日新聞に勤めたとき、主筆だった緒方竹虎さん(1944年、小磯内閣で国務大臣兼情報局総裁となる)が私の肩を叩いて、『あんたは叩けば響く人だ、しっかりやんなさい』と言ってくれたのが嬉しくていまも憶えてます。
そのあと、毎日新聞の編集局長だった阿部眞之助さん(1960年、NHK会長となる)と知り合って毎日新聞に移って、それから讀賣新聞に行って、最後は東京新聞。東京新聞の社長の福田英助さんは呉服の行商人から身を起こした人で、この人にもかわいがってもらいました。東京新聞はもとは都新聞といって、芸能記事ばかりだったけど、作家の太宰治が入社試験に落ちた(1935年)のはその頃から知っていました」
と、國友さんは回想する。
【つづきを読む】「自宅の焼け跡」を勝手に他人に転売され…20歳の女性が「露店と行商」で土地を取り戻すまでの苦労
