「やっぱりブラブラしてないで、熱くなるようなことをやらなきゃ、と思って、なぜか、『あ、演劇だ』と思ったんですよ」(撮影:岡本隆史)

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2026年9月2日放送の『徹子の部屋』に、佐藤B作さんあめくみちこさん夫婦が登場。結婚25年となる賑やかな夫婦生活や、伊東四朗さんら豪華メンバーとの交流などを語ります。今回は、B作さんの3つの転機聞いた『婦人公論』2023年6月号掲載の記事を再配信します。*****演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは--。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第17回は俳優の佐藤B作さん。福島の飯坂温泉で生まれ、必死で勉強して早稲田大学に入学したという佐藤さん。商社マンを目指していたはずが、熱くなるようなことがしたいと思い立ち、演劇の道に進んだそうで--(撮影:岡本隆史)

【写真】20代の頃のB作さん

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人生を知らない若者の大胆さ

その昔の佐藤栄作元首相に対抗してB作を芸名としたことや、1982年から萩本欽一の『欽ちゃんの週刊欽曜日』にレギュラー出演していたことと併せて、お笑い専門の人とばかり思っていた。

それを一挙に覆されたのが95年『たいこどんどん』(作・井上ひさし)。主役の幇間・桃八の熱演ぶりを観て、この人は本格俳優なのだ、と認識を新たにした。

2002年、吉行和子出演と聞いて出かけた『日暮里泥棒物語』(水谷龍二・作)では、劇団東京ヴォードヴィルショーの座長だと知る。そして14年、これも新派の波乃久里子の芸者お梅を観に出かけた『明治一代女』(川口松太郎・作)でのB作さんの箱屋巳之吉。名演だった。

16年、新国立劇場で観た『ヘンリー四世』フォールスタッフ役で、あぁ、シェイクスピア役者でもあったのか!と。

--アハハ、そうでしたか。僕は福島の飯坂温泉で生まれて、親父は果物屋でした。働き者で朝起きるともういないし、起きてるうちは帰ってこない。たまに出会うとおっかない親父でしたけど、酒好きで、晩年はもうアル中ですね。お袋は小学校しか出てないのに勉強家で、漢字なんかよく知ってました。

僕は中学1年の時、全校の弁論大会で2年生、3年生を負かして優勝したんですよ。その原稿は全部お袋が書きました。いい文章で、僕はただ読んで演じただけ(笑)。高校時代は身体を壊すほど真面目に勉強して、第1志望の早稲田大学商学部に一発で合格。商社マンになるつもりが、大学入って2ヵ月くらいで教科書持つのも嫌になりましてね。(笑)

早稲田には演劇博物館もあり、学生演劇が一段と盛んで、大学内にはいろんな学生劇団があった。私が昔よく観たのは「ともだち座」。

--僕は「劇団木霊」でしたよ。今もありますね。とにかくガリ勉の反動で、新宿のジャズ喫茶で夜明かししてみたりする生活でしたけど、ある時下宿で土曜の午後にテレビドラマ『若者たち』の再放送を観たんです。田中邦衛さんとか佐藤オリエさんとかの。

うわぁ、いいなぁ、って感動して。やっぱりブラブラしてないで、熱くなるようなことをやらなきゃ、と思って、なぜか、「あ、演劇だ」と思ったんですよ。

小学校のころ学芸会で、担任の佐藤光子先生の厳しい指導のもとに芝居をすると、近所のおじさんおばちゃんが、僕の本名で「俊夫くん、よかったよ、うまいねぇ」って言ってくれたりするのが嬉しくて。それが残ってたんでしょうね。すぐに劇団木霊の門を叩いたわけなんです。

B作さんの第一の転機となるのは『泰山木の木の下で』(作・小山祐士)の出前持ちの役を、演出を担当した先輩の部員から褒められたことあたりになるのだろうか。

--そんな役でも新入部員20人くらいの中からオーディションで選ばれたんですよ。ちょっと頭の弱い青年で、ラーメンを警察署に届けて、おもちゃのピストル出してパンパンパン、って。

終演後の合評会で、演出担当の鈴木先輩が、「佐藤の芝居はナイーブでよかった」って言ってくれた。その頃、ナイーブの意味もよくわからなかったけど、福島訛りも当然あったし、それが素朴な感じだったんですかね。その先輩は後に文学座の演出部に行きましたから、ちゃんと見る眼があったのかな、と思いますね。

とにかく劇団で稽古やって、みんなで輪になって劇団歌。それから高田馬場の安い飲み屋で、飲んで騒いで、すんごく楽しかった。すぐに商社マンをめざすのはやめて、俳優になろうと思いました。人生を知らない若者の大胆さですよね。ひとかどの俳優になるのはもっと大変だろうって気づいてないんですから。まぁ、これが第1の転機ですね。

大学中退で、父親には勘当だと言われ

B作さんが早稲田中退を決めたことを両親に打ち明けると、当然のことながら猛反対を受ける。

--親父も小学校しか出てないし、蔵もない家ですからね、長男がやっと東京の大学に行って、自慢の子だったんですよ。それが役者になるとは何ごと、勘当だ、ってことに。でもお袋は、「どうせ授業料を溜めているんだろう。大学やめるなら、全部払ってきれいにやめなさい」と20万を渡してくれたんです。すごいですよね。

すぐに大学をやめて、あちこちの劇団を受けるんですが、福島訛りのせいで全部駄目(笑)。それで調べたら、自由劇場に福島高校の先輩で、創立メンバーの佐藤博さんがいたので、頼みこんでまず裏方の音響へ入れてもらいました。

そのうち養成所に編入されて、卒業公演では主役でしたけど、それを自由劇場の女王たる吉田日出子さんが見て「B作って面白い」って言ってくれた。それがとても嬉しかったですね。

しかし役者になってからは、僕たちが1ヵ月半くらい稽古して、即興もいろいろ考えて作っていった芝居なのに、当時すごい売れっ子だった日出子さんが稽古場に現れましてね、串田和美さんとは仲良しですから、「ねぇ、サム」って串田さんを通称で呼ぶんです。「ねぇ、これじゃデコ、できな~い」って。

するとサム、優しいですからね、「わかった、作り直すよ」って。「ふざけんなよ。それじゃこれまでの長い稽古は何だったんだよ」って。(笑)

<後編につづく>