モデル、タレントとして華やかなキャリアを築く一方で、恋愛や結婚、離婚、シングルマザーとしての子育て、そして乳がんとの闘いまで、その人生を包み隠さず語ってきた梅宮アンナ。なぜ彼女は、数々の苦難や世間の批判にさらされながらも、自分らしく生き続けることができたのか。そして、梅宮アンナがたどり着いた人生観とは何だったのか。

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 梅宮アンナが自身の半生を赤裸々につづった著書『フルコース』(文藝春秋)から、父・辰夫さんとのエピソードを抜粋してお届けする。


2010年当時の(左から)母・クラウディア、父・辰夫、娘・アンナ

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生涯で6度のがんに

 パパは生涯で6度もがんにかかり、そのたびに克服してきた。

 亡くなって7年近くたつけど、今でも大好きだ。パパのがん闘病は、今から見ればめちゃくちゃなところもあったけど、私が治療するうえで参考になったこともある。この章では私の闘病記からはちょっと離れて、パパの思い出と、どんな闘病生活を送っていたかを書いておきたい。

 パパが最初にがんになったのは、1974年の夏のこと。36歳の若さだった。ちなみに私はまだ2歳。

 当時のパパはビキニパンツを穿いてよく泳いでいたらしい。ある日、片方の睾丸にしこりがあるのに気づいたのに放っておいた。でも、段々と腫れてきて、触ると痛い。それで自分の父親に診てもらっている。

 パパの父親、つまり私のおじいちゃんの梅宮次郎は医者だった。

 戸越銀座で内科と小児科が専門の病院を開いていた。その名も「梅宮医院」。

「なぜ、もっと早く言わんのか!」

 おじいちゃんは、息子の股間を見るなり怒鳴ったらしい。結局、パパはおじいちゃんの知り合いの町医者に駆け込んで摘出手術をしてもらった。

 でも、摘出した睾丸を見ておじいちゃんは異変を感じ、新宿の「国立病院医療センター(現:国立国際医療研究センター病院)」に持ち込んだ。そして検査した結果「睾丸がん」を告げられたそうだ。しかも、睾丸の摘出手術によって、がん細胞が血管やリンパ管を通じてほかの部位に転移した可能性もあったらしい。

 レントゲンを撮ってみると、左肺の肺門リンパ腺もピンポン玉の大きさにまで膨れあがっている。腫瘍だ。つまり肺がんにもなっていた。

「あなたは腫瘍ができやすい体質ですから、早急に治療しなければいけません。この程度なら、1か月半くらいで治るでしょう……」

 担当医からはそう言われたらしい。

両親には余命3か月と告知されていた

 でも、本当の病状は、両親にしか知らされていない。

「ひょっとしたら、2か月もたない可能性がある。もっても3か月。全力を尽くしますが、最悪の事態も考えておいてほしい」

 これが真相だった。

 当時は、本人にはがん告知をしない時代。それは死を宣告するのと同じ意味だから。

 パパにも詳しい病状は伏せられた。本当は「ステージ4」の末期の肺がんで、余命3か月。おじいちゃんも、おばあちゃんも、さすがにパパ本人には余命3か月だなんて言えなかったみたい。

 パパがママと赤ん坊の私を連れて実家に顔を出すたびに、おばあちゃんは「辰夫、体だけは大事にするんだよ」と泣きながら訴える。帰り際に、私たちが乗った車が見えなくなるまで、おじいちゃんも、おばあちゃんも悲痛な表情で手を振り続ける。

「なんだか、おかしいぞ……俺は死ぬのか」

 パパもそう思わざるを得なかったそうだ。

幸せの絶頂の裏にあった不安

 当時のパパは“夜の帝王”の異名を持つほどの遊び人だった。

『夜遊びの帝王』『女たらしの帝王』なんて、ズバリそのままのタイトルの主演映画もあるくらい。

 毎晩のように遊んでいた銀座のクラブで、ママとも出会っている。当時モデルをしていたママはバイトでクラブに出ていたらしく、「ヴィッキー」なんて呼ばれるほどの人気者だった。

 そこへ突然、パパがやってきた。ママの顔を見た瞬間、パパは「ビビビッ」ときたらしい。ママも同じで、お互いに一目惚れというやつだ。私が大きくなってからも、ふたりは出会った瞬間のことを振り返ってはよく「あのとき、スパークした」なんて嬉しそうに話していた。

 その後、両親の反対などいろいろあったらしいけど、最後はママが私を身籠り、ふたりは結婚している。

 普通なら幸せの絶頂だったはず。

 でも、パパはこんな不安に苛まれていた。

「俺は遊び歩いてばかりいたから、子どもに罰が当たったらどうしよう」

「生まれてくる子どもがどうか五体満足でありますように」

 いかにもパパらしい悩みだ。

 私は逆子だったから、帝王切開で予定より4日も早く生まれたらしい。パパはママのそばで慌てふためいてオロオロするばかり。見るに見かねたお医者さんが、パパに鎮静剤を打ったという話を聞いたときは、思わず笑ってしまった。

「丸々と太った、女の子の赤ちゃんですよ!」

 看護師さんに教えられた瞬間、パパはボロボロ泣き出した。私を抱いたときは安堵と歓喜でどうにかなりそうだったらしい。

「子どもなんか作るんじゃなかった」

 子育てはもっぱらパパがやっていた。ミルクを飲ませたり、オムツを替えたり。その後の私に対する子煩悩ぶりを見れば簡単に想像できる。

 それからわずか2年で、睾丸がん、そして肺がんになってしまったのだ。パパは絶望のどん底に突き落とされた。

 パパはこう思ったらしい。

「娘を残して死なないといけないなんて。なんて罪作りな父親なんだ。ああ、結婚なんかするんじゃなかった……。子どもなんか作るんじゃなかった」

 私も乳がんを告知されたときに悲しみに暮れ、真っ先に百々果のことが頭に浮かんだ。だから、パパの気持ちは痛いほどわかる。

 でも、パパはこうも思ったらしい。

「これからは1分1秒でも長く家族と一緒にいてやろう」

写真=平松市聖/文藝春秋

 梅宮さんの著書『フルコース』では、「勃たないのは、嫌なんだ」と語った梅宮辰夫さんの最期の様子や、ずっと一緒に生活してきた母・クラウディアさんへの本音、娘へのネグレクト報道の裏側など、赤裸々に書かれています。

抗がん剤の苦しみに耐え「入院役」で『不良番長』を撮影…梅宮アンナ(53)が明かす、末期がんだった父・梅宮辰夫の壮絶現場〉へ続く

(平田 裕介/Webオリジナル(外部転載))