「核のボタン」を持つ者たちは、自分たちだけ生き残れる体制を整えている
ロシアのウクライナ侵攻開始から4年。2002年に刊行された名著『戦争広告代理店』で現代の国際政治を裏で動かすPR情報戦の実態を解き明かしたノンフィクション作家・高木徹氏(元NHKチーフ・プロデューサー)は、この戦争をどう見ているか?
『群像』にて話題の連載『ウクライナPR情報戦 演者の「成功」と「落日」』の第7回中編を特別公開!
メッセージのマーケティング
史上例のない規模で、一つの国家による世界各国への戦争PR情報戦が展開されていた。
ボスニア紛争のPR情報戦を指揮した米大手PR会社幹部のジム・ハーフ氏が「我々がしているのは『メッセージのマーケティングです』」と定義した理論が「CLOSE THE SKY」のメッセージ戦略として完璧に踏襲されていた。
紛争PRの基本構図として描かれる「敵」と「演者」と「演出者」の三角形の構図(第一回参照)がくっきりと浮かび上がっていた。プーチン大統領とロシアを悪魔化するメッセージのマーケティングを、「演者」ゼレンスキー大統領が、プロのテクニックが駆使された演出の上で見事に行っていた。
これに呼応するかのように、NATO加盟国であるバルト三国の国会が次々と飛行禁止区域の設定を求める決議を行った。アメリカ連邦議会の議員の中にも賛同を表明する議員が次々と現れ、テレビの全米三大ネットワークのインタビュー番組などでその論陣を張るようになっていた。また米軍からNATOの制服組幹部を経験した将官たちがそうした意見をメディアやSNSで表明する動きもあった。
ボスニア紛争で、PR情報戦を仕掛けたボスニア政府(ムスリム人勢力)は、軍事的に圧倒的に強力な敵であるセルビア人勢力に勝つためには、「インターナショナライズ戦略」をとると明確に意識していた。ウクライナも、同じように世界を巻き込むことに活路を見出そうとしている。
だが、もし本当にNATO対ロシア、すなわち米ロ対決の第三次世界大戦となり、核戦争にエスカレートしたら、ウクライナ全土も核攻撃を受けることになる。それではウクライナの利益にはまったくならないはずである。この点はどう考えていたのだろうか?
一つ指摘できるのは、たとえ首都キーウが核攻撃を受けても、ゼレンスキー大統領とその側近たちは生き残るつもりだったろう、ということだ。
これは批判しているわけではない。プーチン大統領も、アメリカの大統領も、全面核戦争になっても生き残り、全軍を率いて戦争を勝ち抜く努力を最後まで続ける体制になっている。双方ともに持っている「終末の飛行機」、すなわち空中にクレムリンやホワイトハウスの機能をまるごと移し、長時間維持するための特殊な大型軍用機はその一例だ。
ウクライナの大統領府はソ連時代のウクライナ共産党本部の建物であり、冷戦時代の遺産として、核戦争も想定したとされる巨大な防空壕が地下に設置されている。侵攻開始からかなりの期間、ゼレンスキー大統領はこの防空壕の中にいた。開戦当日、アントノフ空港でロシア軍の空挺部隊と遭遇したCNNのマシュー・チャンス記者は、三月一日にその防空壕のどこかで、ゼレンスキー大統領との対面のインタビューを行っている。「重装備のウクライナ兵に彼らの車で連れていかれ、市内中心部のどこかのビルの地下室に入り、そこから土囊が積まれた長い通路を歩かなければならなかった」とチャンス記者は言っている。
実は、開戦四年を経過した今年二月、防空壕をゼレンスキー大統領自身が案内する動画が公開されている。国民の士気を高めるためウクライナ語で語られたもので、防空壕の中とは思えない立派な大統領執務室に座る姿から始まり、セリフのどこで椅子から立ち上がり、どこを歩くか、それを追うカメラがどう撮るかのカット割りなどすべて台本に沿って撮影されたと思われるドラマのような映像だ。そこでゼレンスキー大統領は見事に「演者」として振る舞っている。
映し出された防空壕は、数百メートルになろうかという通路、大統領府、会議室、議会のための部屋など、国家の中枢機能がすっぽり収まる巨大なものだ。食料やエネルギー、空気を濾過する設備もあることは想像に難くない。しかも、チャンス記者のリポートでは、防空壕は一つではなく、開戦当初のゼレンスキー大統領は防空壕を次々と移動して居場所を秘匿していたという。
もちろん、このころのゼレンスキー大統領は暗殺の危険もあり、キーウにいること自体が命がけだった。と同時に、核戦争になっても生き残る体制にあったことも事実だ。
核抑止理論がはらむ矛盾
核抑止の理論の大きな矛盾として、「核のボタン」を持つ米ロの指導者たちは、自分たちは生き残る設備を整えているのだから、心理的に核戦争に踏み切る賭けに出やすいのではないか、という論点が指摘されてきた。追い込まれた核大国の指導者が、「最悪、全面核戦争になっても、自分と周囲、国家の中枢機能は生き残る」と考え、核使用の賭けに踏み切る、ということが絶対にないと言い切れるだろうか?
それを物語る、ごく最近の衝撃的な「証言」がある。トランプ政権のインテリジェンス組織を束ねる閣僚であるタルシ・ギャバード国家情報長官が、昨年六月十日に突如三分間の動画をXやフェイスブック、インスタグラムなどあらゆるSNS上のアカウントで公開した。
ギャバード長官はその少し前、秘密裏に広島を訪れていた。原爆ドームや原爆資料館を訪ねて、核戦争の悲惨さを自ら学んだことがその動画に映し出されている。そのあと、カメラに向かって、現在核戦争が起きる危機は極めて高まっていると語りかける。なぜなら、政治エリートと戦争屋(warmonger)たちが、不用意にも戦争を煽っているからだ。そして「おそらく、それは彼ら自身と家族のためには核シェルターへのアクセスを確保できると確信しているからだろう─普通の人々が持てないアクセスを」と、述べている。
国家情報長官と言えば、アメリカのインテリジェンスコミュニティのトップであり、核戦略の機微にわたる情報を知る立場にあるはずだ。その彼女がこのように指摘したことは、アメリカ政界や大手メディアなどの反発を引き起こした。言い換えればそれほどの衝撃だった。彼女は様々な意味で型破りな政治家であり、評価も分かれるが、軍歴が長く、「戦士として戦ってきた」という尊敬も広く得ている。つい最近、夫が希少なガンと診断されたことから、その闘病をサポートするため、この六月末で辞任することを表明し、それに対してトランプ大統領もバンス副大統領も、彼女への最大限の敬意をこめたメッセージを発表した。将来の大統領あるいは副大統領候補のダークホースという見方もある。その彼女が、広島を訪ねてここまで言ったことに、私たちは注目すべきだ。それは「不都合な真実」である可能性が十分にある。
そして、ウクライナ侵攻は従来指摘されてきた核大国の指導者たちの問題だけでなく、ゼレンスキー大統領のような中小国の指導者の決断も、私たちの運命にかかわってくるという、核抑止の破綻の新たな危険性を浮き彫りにした。
その後現在に至るまでのゼレンスキー大統領の言動から、その頭の片隅には、情報戦で国際世論を動かし、第三次世界大戦の危険をおしてでもNATOの参戦を望む戦略があったことは間違いないと私は考えている。片隅には、と書いたのは、彼にとっても核戦争にならずにウクライナが勝利することが第一の目標なのは当然だし、これから描いていくように、強気と弱気のはざまで常に揺れ動いているからだ。
だが、その選択肢のひとつに、世界にとって危険な試みがあることを忘れてはならない。私たち日本と日本人の利益や戦略とは根本的に相いれないものがあるということである。ウクライナの指導者がウクライナの利益を第一に考えるのは当たり前で、それは責められるべきではない。同時に、私たちは私たちのことを考える権利があり、彼らの戦略を冷徹に見ていくべきなのだ。
